Wednesday, October 21, 2009

B論文「信仰心と無神論」第二章 世界を認識することと生活すること

 私たちが世界を私の世界として構成し、私を離れて世界を客観的対象として「世界」が紛れも無く存在しているということを知るのは、全て最初は私たちの知覚を通してである。世界は私たちに私たちの知覚を通した映像として立ち現れる。その「世界」が私たちの実際の知覚を離れて、只それ自体として存在し得るのは、脳内での「世界」に対する認識をおいて他にはない。つまり私たちの生活においてある目的を持って何らかの行為をすること、あるいは行為をすることに意味を見出すために目的を作って生活することというのは、言い換えれば私の世界を「世界」に奉仕させることでもある。そしてそういうことを私以外の全ての「考える主体」が行っているということを私は知っている、と言うより信じている。だから私は私の世界によって作られた「世界」に私の世界を奉仕させることに同意している。
 だから私の生活上執り行われる認識の全てとは、実は私の世界を「世界」に変えること、「世界」の一部として私という存在を認識することに他ならない。あるいはそのための、と言って目的論的であると言うのなら、私による私の世界の「世界」化作用こそが、私の生活の実態である。つまり私は世界を「世界」として認識することを通して他者一般と、他者が私同様「考える主体」であり、固有の世界の所有者であることを承認することを通して接触を持ち、その接触の中から私の世界の意味を「世界」へと同化しているのである。
 私たち人間は、ある意味では集団で一つの考えに向かっていると言うことも出来る。例えば都市を築き、文明を構築してきたという事実をもってしても、生活世界を営々と作り出し、それを当然人間の義務のように考えている。そしてそれは人間が人間ならざる動物たちに対して、人間の特別の能力、知性を持っていると考えるからである。つまり人間は人間以外の全ての存在者に対して、人間の側からの主観でしか考えることが出来ない。そういう意味では人間の中でも固有の生を営む私は、私以外の全ての人々に対して私固有の感情からしか判断出来ない、という意味では主観的な考えしか思い及ばない。つまり他人のこと、他の存在者一般のことというのは、全て私の中にある固有の事情と密接な私の感情から輩出された一個の個人的感情でしかない。そういう意味では私はどんなに客観的に認識を持とうと思ってもそれを完遂することが出来ないということにおいて私の存在の意味を、世界に対する公平な理解ということの限界として知っている。
 しかしそのことはただちに私以外の全ての他者もまた、一個のか弱き「考える主体」として、一個の存在者固有の私的事情による主観的感情からしか全てを判断することが出来ないということを想定している。勿論他者の心の中に入ることは出来ないから、それは想像でしかない。しかしそのように個々の心は主観でしかないと想像出来るということそのものに関しては何故だか自信を持って「そうである筈だ」とそう考える。つまりそう信じているのだ。
 つまり私たちは世界を認識するということを、私の世界の「世界」への同化として理解しているが、それは実は同時に自己による「世界」の把握が不十分であること、不完全であることを知ることでもあるのである。そしてどの存在者にとっても世界は不十分な情報でしかなく、不完全な理解の仕方でしかないという事実の無数の集積、そしてその集積に対して何の策も講じないのが「世界」のあり方であるということを私たちは無意識に認めているのである。
 そのことはある意味では人間が現実の能力と「こうありたい」と願う心理のギャップを所有して生活していることも意味する。そして世界は常に「そうであって欲しい」ということから程遠く冷酷なまでの現実を自然においても社会においても見せている。つまり「世界」を知ることは「自分の世界はこうであって欲しい」と思うこととのギャップとしてのみ顕現されているということを我々は知るのだ。「世界」を現実を通して見ることとは、ある意味では「こうであって欲しい」ということと殆ど一致することなどなく、それでいて常に「こうであって欲しい」という願望をそこに見出すことを止めはしない我々の心を支える里程標でもある。知覚行為、とりわけ眼で見、耳で聞くこととは、そういう現実の過酷な様相を知るためのものであると同時に、「こういう風な世界であって欲しい」という願望を見、聞くことの希望を産出する契機でもあるのだ。それはある部分では自分本位であるが、その自分本位である部分の幾分かは私が「私が属する世界の理想」に加担している部分でもある。
 例えば自分の欲求というものを考えてみよう。
 愛という言葉がある。愛と欲望は隣り合わせである。男が女に惚れるということは、相手の人格を好きになると同時に、相手の存在を性的な対象として身体‐肉体を好きになることでもある。つまりその相手の身体‐肉体を利用して自分の身体‐肉体の欲求を充足したいと願うことである。そして愛の高まりというものとは、自らの身体‐肉体の欲求の高まりを保証する砦であるということに覚醒する時、我々は欲望そのものが、私の相手に対する愛も、身体‐肉体的欲求の双方とも支配していることに気がつく。つまりこういうことだ。愛とは私の中にある無意識の欲望を充足させたいと願う身体‐肉体の本能的な欲求を、理性という厄介な屁理屈屋が私の中の本能的部分に対して羞恥を私自身に持たせ、その性的欲望を少しでも正当化された、清い動機のものであると私に思わせるために前頭前野が私に命じて私の考えとして持たせた幻影的な価値基準でしかないのである。つまり愛とは身体‐肉体的次元に引き戻すと明らかに幻想である、ということになる。
 愛は明らかに生活世界での身体‐肉体的欲求である。そして欲求というものは知的快楽主義的なものも含まれる。論理的正当性とか、倫理的美といったこともその内に入る。論理も倫理も美も欲求なのである。そしてそういうものをあたかも実体であるかのように錯覚させるように私たちの脳は働くのである。そして何故そのようにあたかもそれらが実体であるかのように我々が錯覚するかと言うと、それは私たちが、つまり私のことを例に取ると、私自身の世界、つまり私が誕生してから私が固有に形づくってきた世界を通した「私が考える世界」の有り様が、「世界」そのものと微妙にずれ込んでいるということを私が薄々知っていて、そのことを私は私以外の全ての存在者=「考える主体」全て、つまりどの固有の存在者もそういう自分の世界と「世界」のずれを意識しているに違いないという私の暗黙の了解、そのことを例えばハイデッガーは存在了解と呼んだわけであるが、その他者の中で固有に感じられる固有の自分の世界と「世界」そのもののずれに対する不安という私的な感情に対する斟酌こそが、私に理想の「世界」のあり方、と言うより私たち一般の「世界」に対する見方を構成し、それを私たちは納得する形で論理と呼び、正しいとか素晴らしいと信じることが出来るものとして倫理と呼び、その倫理や論理の形そのものを美しいと感じるのである。つまり私たちは自分の世界と「世界」のずれを克服するための方便として「世界」の見方の理想形として、あるいは世界がこうあって欲しいという一般的理想形(それは私固有のエゴイズムから切り離されたものとしての)として、その理想があたかも実体的に存在し得るものとして現実と「こうであって欲しい」の間のギャップを認識させながら、その理想を実際実現可能なものとして理解するようになるのだ。愛という言葉の示す状態も、実はそのようなものとしてある。私は少なくとも私自身の勝手な欲望さえ抑えれば、そして私のような心持に私のような人類個体=考える主体全体がなればあるいは世界は多少でも理想に私が私のエゴを克服した形で心に産出させた理想に近づき実現するに違いない、とそう思う。
 つまり理想というものを実現可能のものであると思いたいという心理は、それ自体は生活世界と理念的世界を一致させたいと願う心理が我々に形作らせる幻想であるとも言える。勿論その理想に少しでも近づけられる状態というものはその都度あり得るであろう。だからこそ我々は生活上での目標というものを設定するのである。そしてその目標を常に設定しやすいような状態として理念が生み出され、理念に殉じるスタンスを美しいと我々は感じ取ることが出来る。その時偶像的な存在というものの共有される余地が生まれる。それは社会実利上での政治から、思想上のもの、例えば思想や宗教という形を取って現れる。そして「そうであるべき世界」というものを通して我々は、そのそうあるべき姿を「こうあって欲しい」と願う個人的感情と一致する部分と、微妙にずれ込む部分とを共存させながら、我々は少しでも他よりも理想形に近いものを無意識に欲する。そのような心の隙間に介入してくるものとして宗教心というものを考えることが出来る。例えばそれは芸能人や政治家に対して熱烈な支持を贈るという全ての行為には、「こうあって欲しい」ことに最も近づけることの出来る能力の保持者を心の中に支持する対象として保持するという幻想(代理感情)を抱くことに関して全て共通した心理としているものがあると言えよう。偶像というものはこうして生まれる。
 そしてそれは宗教や政治だけではなく、思想、哲学的認識においても、どのような先人の考え方に共鳴するか、どのようなスタンスに理解を示すかということにおいても示されるのである。
 自然科学では出会ってしまったある事実に何か根拠があるのではないかと考え、その根拠が偶然的なものはない何らかの必然性があると思われる場合、その因果的な成立状況をより一般化しようとする。勿論個々の事象同士の出会いは偶然的要素があるだろう。しかし少なくとも全体的な様相がそう急激に常に変化するものではないということ、そしてその急激に全てが変化するものではない個々の変化の集積された状態それ自体はある程度必然的であると我々は認識出来る。
 しかし哲学ではその出会いそれ自体を偶然的であれ、必然的であれ、出会った当の主体の立場からその出会いの意味を徹底的に究明するのだ。それは自然科学より主観的な示し方である。そして今私が述べた理想形というものは自分にとっての理想形と、他人や隣人にとっての理想形は個人的世界観においては異なるが、自分の世界と「世界」を一致させようと試みる考えの下では、他者全般と共有し合えるという理想形であり、公共的な理想形である。そういうものとしての考え出された理想形というものは、全ての個人にとって少しずつ不完全である。しかしその不完全さというものの量は平均してどの個人においても同じくらいの隔たりである。あるいはそういう考え自体が自然科学的な、例えば心理学的認識から得られた発想なのかも知れないし、勿論それこそが理想の理想形なのであるが。
 これを自然に適用すると、自然においては何らかの形質とか、ある生物種の性質といったものは、自然のあらゆるケースに対応して適応して形成されている。つまり自然は気まぐれであり、その気まぐれというものはその場その時の偶然に身を委ねている。しかし同時にそう根本的なところはころころとは変わらないのだ。(例えば地球上の重力とか。)そこで平均して全ての状況に対して同じくらい不完全であることが理想となる。つまり自然のある状態に完全に適応しているということは、それ以外の全ての状況において甚だ隔たっているということを意味する。だからどのようなケースに自然の状態が陥ったとしても尚、その都度同じくらいに不完全に対応しているということの意味は、どのような危機的状況にも耐えられるということを意味するからである。ある意味では今日まで生き延びて来られた種で、これからもある程度生存を保障されていると思われる生物種とは、そのような条件をクリアしてきたものである、と捉えることも出来る。そしてそれはある程度障害なく社会を生活してゆける個人にも当て嵌まる論理である。
 つまり、この人間が自己‐他者の相関の中から自分の世界の理想を「世界」の理想と一致させようとする無意識の試みと、人間個々の行動を社会全体、つまり人間全体の行動の中から考える時と、自然のその都度の変化に対応する生物種の平均的不完全適応という、それ自体自然選択に耐え抜く条件というものは、皆共通したバロメータを有していると言える。このパラメータの設定ということが本論の大きな柱となる。少なくとも私が考える限りでの現象学という哲学分野の視点と、大きく例えばドーキンスをも含む現代の社会生物学の視点とは、その点において重なり合うものがある、と私は考えているのだ。それは勿論その二つの学問分野の論理的説得力であると同時に、私が考える現実世界の査定基準としての対全体対応的不完全さにおいて理想的であると思えるということである。
 私たちにとって生活することは現実の雑多な事柄全てにかかわり合うことである。しかし目的という意識が人生を意味あるものにする時、我々は理想を目標とする。そしてその理想は実現可能なレヴェルのものと、実現不可能なものとの狭間に陥る。目的は理想が生むが、理想は生を意味あるものにしようという意志が生む。意味あるものにしようということは快を多く、不快を少なくしようということである。そしてその時生活世界の中から理想を見出すという習慣が定着し、それは私の世界を拡張することで、「世界」の実像を私なりに知ろうとする意志によるものであるその習慣を、生活世界としての私の世界を「世界」に一致させることこそが知ることの理想であると私が知ることによって意味あるものとして私はいつの間にか位置づけているのである。

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