Thursday, October 29, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」5、言語の羞恥

 言語活動の起源は他者の存在への意識であることは容易に想像される。ここで言語活動を有用性の観点から思考実験してみよう。
 言語活動を意思疎通(意味内容の伝達)という面から考えれば、つまり音声発声内的ストレス発散という面から考えることを一方で保留にすれば、情報内容の相互間のずれと内容の違いが、共有への意欲を生じさせ、そこで発話が成立すると考えられる。だから本来言語活動の発生の起源を情報内容の交換のみから考えれば明らかに他者(=他人、つまり同一家族外成員)との物理的接触によって齎された、と言えよう。だから逆に一日を未だ他成員と共同作業(職場の発生)のない家族内結束行動の状況下では、殆ど全成員が所有するのが、同一情報内容なので、語彙発生や複雑な状況説明をするための言語行為発生の可能性を見出し難い。つまり形容的詠嘆表現くらいしか彼等の間では発達しないだろう。
 しかし同一家族内(自分の家族内)で徐々に行動が別々となると(子供が成長して狩猟を手伝い、別の場所で仕事が出来る。)、情報内容は自ずと差異が生じ、その未知の情報内容の相互の(この場合親子の)報告必要性が生じ、少なくとも情報内容の報告文の発生が齎される素地が出来上がる。つまり情報内容報告意図から考えれば、言語活動とは明らかに他者、それがたとえ同一家族内であれ、別行動による別内容の生活の実現が引き起こす、と考えられる。 
 さてここからが重要なのだが、少なくとも言語行為が成立するためには、とりわけ意味内容を伴った情報内容の交換、伝達がなされるのには、意識、しかも明示的意識が先験的に要求されるということになる。勿論言語行為をただ単に音声発声という面からのみ考えるのなら、ある程度の大脳知性を兼ね備えた哺乳類であるなら判断を司る扁桃体の存在によって情動的な意味合いからも既に顕現可能である。しかしそれは語彙選択ではない。語彙選択とは少なくとも語と指示内容の一対一対応という明示性が必要とされる。例えば同一家族内共行動の場合、天候、捕食者からの外部的脅威に対して何らかの形容詠嘆表現的発声(叫びとかの)は常習化し、やがて幾つかの詠嘆発声のケース毎のパターンが誕生し、それが形容詞の誕生にもなったと考えられる。同一家族内であれ、他者であれ同一職場内でも作業分担さえあれば、名詞を派生させる機会には恵まれよう。しかし形容詞はあるいはもっとそれ以前的な共行動による同一外部脅威への反応(そのことによる内的感情表出)によって既に確立されていた可能性はある。
 ホージランドは人間は既に知覚において、とりわけ視覚において倫理が内包されている、と考えている。事象に対する内的意識の表出という反応を発声という形でなす以前的に、つまり発話定着以前に明示意識が視覚的認知においても、私たちの祖先に何らかの形で芽生えておれば、意識の持つ外部からの内容確認不可能性に対する認識の発生を、発声行為による言語行為の前準備段階であると考えることも出来る。
 人間は他者と行動そのものを「合わせる」(ガレーゼとリゾラッティーによるミラー・ニューロンの発見にもかかわる。)という行為への内的心的様相を原羞恥という原生命的他性認識に原音楽とを重ねる時、初めて言語行為の発生的基礎が形作られた、と考えられる。恐らく私の考えるところでは人間のような音韻発声による言語活動を持たない他の高等哺乳類とある程度可能なものとの間には、この原羞恥と原音楽そのもの同士を「合わせる」ことにおける明瞭さ、つまり意識的(明示的)<人間の場合>と無意識的(内示的)の間の等級的差異があるのではないだろうか?つまり意識の輪郭の明確さと曖昧さとの間のクラスが存在するのではないか、ということである。
 要するに他の高等動物にも言語を形作る素地はあるのだろうか?それがある一定のレヴェル以上へ発展しないのは、この原羞恥と原音楽の「合わせ」、つまり照準化作用そのものの不在が、意味内容伝達のための語彙使用(事象認識とその事象の不在時における想像、想起による表象化作用が誘発すると考えられる。)へと終ぞ至らないということではないか?もっと簡単に言えば、明確と曖昧の差に対する認識そのものが人間に言語を持たせたとも言える気がする(動物にはその差が分からない)。
 当然のことながら原羞恥とは原生命秩序としての自己防衛的対他戦略的「構え」でもあるのだから、フロイト的自己保存欲動をも喚起させるものと言えよう。それに対して「合わせる」は同一種内、集団協調、集団同化、信頼を派生させる可能態である。だから対他的羞恥、集団行動における調子外れとは、やはり原羞恥と原音楽の照準化作用によって生じるのだ、と考えられる。してみるとホージランド的知覚倫理とも言うべき想念は、言語活動そしてあらゆる語彙を含む言語は、あるいはそれを意識で支える明示性は羞恥と密接に関わっているということになる。人間の対他的羞恥感情は原羞恥と原音楽の照準化作用によって齎され、照準化作用による意識の明示性こそ言語的想念と羞恥感情を喚起する本源的な作用である。
 情報内容の他者への開示とは、実は集団(この場合最小単位を二人と考えよう。)の利害を一個体の利害よりも優先させる原羞恥の克服過程と期を一にしている。当然のことながらそこには偽情報の報告という裏切り、信頼偽装の可能性も社会学的には発生させる。しかし常習的偽装は長期的に見れば、結果論的に利己的利害においても損失を被る。そこで比較的初期段階に利他的奉仕という実践形態は定着してゆくことだろう。
 J・L・オースティンの言うようなパフォマティヴは実は全てのコンスタティヴ(彼の言う対概念)を含んでいるのだ。というのも事実報告に偽装がないことを長期的に他者へ明示し得るのなら、そのこと自体でコンスタティヴの連鎖のルティン性はそれ自体パフォマティヴであると言えるからだ。事実報告という行為それ自体もその報告者にとって被報告者の存在が事実を告げるに値する存在であるという当たり前の真実に我々を覚醒させる。

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