Friday, November 6, 2009

A論文「原音楽と原羞恥」 6、意味と羞恥

 私たちは今まで報告内容を意味内容としてきたが、私は単純に前者は発声顕現としての意味内容、後者は意味作用的に聴者が受理した意味内容(文脈的理解)と考えていた。しかし意味は実はそれほど単純ではない。というのも「AはBである。」が同時に「AはCである。」を意味するというような意味で、私たちは意味を一律的にAならAというトートロジーにおいて受け取っているわけではないからである。
 意味に内包と外延があるのなら、その領域性における中心と周辺というものの、あるいは本道的なことと、派生的なことというのが存在するのであろうか?だが派生的なことと、周辺的なことと言うと語彙そのものの意味が、実はその語彙をどのような文脈で使用するかという、語彙を伴った文章、表現というレヴェルの問題へと我々を誘うからである。例えば犬とか猫という語彙を使用する際に我々は犬という語彙が、我々が生活する社会とそのエリアにおいてどのような意味(ペットとしての犬とか人間にとっての動物としての犬とか、その性格論的な存在理由とか、例えば番犬といったような。)を有しているかに関する言語共同体成員としての了解一致事項としてのそれである。それを取り敢えず文脈論的な意味としておこう。
 そしてその文脈論的な意味の中に直示する時に我々が犬と呼ぶ範囲のもの、猫と呼ぶ範囲のものが決まってくる。例えば家猫とか山猫とかを猫と呼ぶことはあっても、虎やライオン、豹、ピューマ、チータを猫と呼ぶことはないだろう。そういう意味では猫は犬よりは、何かを指して猫と呼ぶ範囲は広いが、犬は人間が狼から育種して派生させたさまざまな類別性とヴァラエティーがあっても尚、それらは全て一種内の差異でしかない。
 そしてその直示としての語彙における一対一対応と、直示以外の不在対象に対する言及はそれほど違いないだろう。しかし恐らく「犬とは」とか「猫とは」と言うような文章構成上での文脈的意味にした時、我々は更に直示された時の犬の範囲から更に絞られた、ある特定の定型としての犬を示している。そしてある話者同士が「犬は」とか「猫は」と語る時、犬を飼ったことのある人同士と、飼ったことがある人とそうではない人同士と、飼ったことのない人同士と、あるいは好きな人同士と、好きな人と嫌いな人同士と、嫌いな人同士としてでの会話では自ずと異なった様相で、犬という語彙使用のニュアンスが生じてくることは容易に想定出来る。つまり話者同士のある語彙の使用というものは、意思疎通相手のその語彙に対する意味論的感情レヴェルでの了解と想定と推定によって微妙に状況論的に差異が生じてくるのだ。 
 そしてそれは直示としての犬とか猫ではなく、不在対象としてでもなく、文脈論的な犬とか猫という語彙の使用には、ある社会にとっての犬とか猫というものに与えられた一般的意味とか常套的意味とか通念とかが大きく立ちはだかるのだ。そしてその通念に対する相互理解と相互了解と同意が話者同士を「犬ってのはさ、~だ。」とか「猫ってのはさ、~だ。」というような謂いを可能にするのだ。要するに第一義的な犬理解とか猫理解と、そのように定義された犬とか猫に対する我々(話者としての自分たち)の感情、認識といった個的経験把握レヴェルでの犬、猫理解とは要するに第二義的なものとがあるである。それらは言語の超越性(直示的対象指示性ではない、過去事実報告における不在対象指示は直示とそう変わりないが、問題は犬という一般概念としての犬といったこと、あるいは犬一般に対する話者の認識と感情といったレヴェルでの文章、文脈における犬といったことである。)における文脈論的な意味は、ある時は社会一般の通念であり、ある時はそれに対しての自分の経験による認識(一般通念に対する批評、同感、批判、懐疑)である。例えば『犬は人間につき、猫は家につく』という諺は通念的な陳述である。しかし私自身猫を長年飼った経験からすれば、それは当たらない。「『犬は人間につき、猫は家につく』っていう諺って、あれ嘘だよね。」と私が猫を飼ったことのある友人に告げれば、それは自分の経験による認識の報告であり、詠嘆的告白となるであろう。
 だから社会通念的な意味を受け入れる限りで、我々は犬や猫の意味は相対化される。だから犬や猫を飼ったことのある人でも、そうではない人でも共通して言えることとは、真理に近く、それを語る時直示する行為(今見ている犬とか猫のことを形容したり、話題にしたりする。)での犬や猫よりは相対化されている。不在対象に対する言及は話者同士が同じ見た経験がない場合には、犬とか猫に対する説明は直示よりは多分に相対化される。見た者はその過去の具体的映像記憶によってそれを言語化して語ろうとするが、それを聞く者は言語化された言葉のニュアンスから想起し、想像し、ある特定の犬とか猫を心的に表象するのだ。そこで話者が発する犬とか猫と発する時に彼(女)の心中に表象された犬や猫と、聴者の表象された犬とか猫は、その言語の意味作用に依拠した範囲で間口は広がるが、二人のイメージしているものが重なっているかどうかを確認する術はない。
 しかし少なくとも言語とはそれが語彙として発語された時に「あっ、犬がいる。」と語られる時、それは犬一般のカテゴリーに我々は指示対象を押し込めているのである。それは例えば友人の家に訪れた時に、友の飼い犬のことを固有名詞を教えられて呼ぶような場合以外は全て、我々はあるカテゴリー認識に閉じ込めて現前する具体的対象を認識しているのだ。それはそれ自体で既に相対化作用と言える。対象認識には固有性を一挙に一般性へと閉じ込める作用があるとここで考えることが出来る。語彙化とはそのようにされた時点で非固有名詞化されているわけだから、意味相対化作用がなされているのだ。
 しかし経験による認識の報告とは、それを語る時に語る相手に対する感情、つまり権威的な立場にある言語学者に対して言語活動に関する本質に対する独自の考えを披露する時の我々の心的様相と、そうではない通常の一般人に対する心的様相とではかなりな開きがあるだろう。対象認識が一般人と専門家の間でもそうは変わらない語彙使用を巡るソシュール的ラングの採用という一事で済まされるとしても、経験による認識という真理に対する言及では、権威者同士が発話する、権威者に対して発話する非権威者、非権威者同士が発話するという三つのケースでは微妙に異なってくることは言うまでもないであろう。
 最初のケースでは譲り合う心的様相が、第二のケースでは同意的発言の場合には尊敬心が、しかし批判的発言の場合には対抗心、攻撃欲求が満たされており、第三のケースでは相互の意見に対する信頼性はないし、確信もないだろうけれど、リラックスした心的様相であることは間違いないであろう。仮に間違った真理でも相互に困ったり、恥をかいたりすることはないからだ。尤も第一のケースでも相互に他者を攻撃する必要性を感じておれば、その者に対して権威者であれ第二のケースと同じことになるだろうし、また相手の権威者に対して共感と同意をしておれば、譲り合うという心的様相になるであろう。
 ここで考えられるのは、心的に羞恥感情というものが最も作用するのは、自己確信に満たされていなければ、第二のケースであろうが、そもそも権威者に対して確信なく抵抗することは自己の立場とか自己に対する権威者からの人物評定に関して著しく第一印象を損なう危険性があるので、そうたやすくは我々はそういう行為という暴挙には至らないであろう。しかしことは権威者同士の反目ということになると、そこには自己防衛心と対他的な攻撃心とが共存することになるだろうから、対他的に羞恥感情を巣食わせることは不可避となるだろう。それは犬を飼ったことのない人が犬を飼ったことのある人に対して一般通念とかそれに対する批判をしたり、一般通念上での犬を飼ったことのある人の多くが疑念を抱くことの多い事柄に対して安易に信用するようなことを告げることで、権威者に対する非権威者の羞恥の克服(間違ったことを主張して恥をかくことで、真実を知りたいと願う場合)が発揮されるだろうし、また権威者同士の反目は自己主張することで、その権威分野における自己の思想の正当化を図ろうとする意思のぶつかり合いなのだから、他者(敵対する権威者)に対する評定<大物であるかそうではないかという評定>如何で、その者への羞恥の度合いは異なってくる。例えば仮に反目していても尚大物であると思えば羞恥感情とその克服は一大事となり、逆に反目していてもその者がそれほどでもないだろうと確信している場合には、羞恥克服はたやすいだろう。
 そしてある論、犬とはこれこれこういう動物であるという真理とか、言語学上での語彙とか、意味とかはこういうことであるという真理というようなこと一切も、語彙における意味同様、一般的真理とか専門的真理とか全体の意味と捉えることが可能である。そしてそれらは経験による認識の報告という主観性をより高次の普遍性へと昇華させることによって成り立つ真理に対する信念であるから、相手に対する信頼性(権威者同士でも相互に信頼し得る関係であるような)があれば、第一のケースでも第二のケースでもよりフランクに告白することは可能であろう。しかし対立したり、抵抗したいと願っている相手に対してならば、それは真意の告白を憚るという現実は出て来るであろう。相手に弱みを握られたくはないという心理が発生するのだ。主観の告白は話者同士の信頼性に依存するのだ。

付記 論文修正と作成のために休暇を頂きます。2010年正月明けに再び更新致します。(河口ミカル)

Wednesday, November 4, 2009

B論文「信仰心と無神論」第四章 関心の質量(2)

 その前に「ブラインド・ウォッチメーカー‐自然淘汰は偶然か?[下]」中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・疋田努訳、監修、日高敏隆)で彼が示している選好性の遺伝子に纏わる内容をテクストから抜粋引用することを通して理解しておこう。

「(前略)雌の選好性のための遺伝子は雌の行動にだけ発現されるが、にもかかわらずそれらの遺伝子は雄の体にも存在している。それと同じ理由で、雌の尾長のための遺伝子は、雌に発現されてもされなくても、雌の体にも存在している。遺伝子が発現されずにいると考えるのはさしてむずかしいことではない。かりにある男性が長いペニスのための遺伝子をもっていれば、息子だけでなく娘にも同様にその遺伝子が伝えられるだろう。息子はその遺伝子を発現させるだろうが、娘の方はそもそもペニスなどもちあわせていないので発現させることはない。しかし、その男性が孫をもつにいたれば、娘方の息子方の孫息子と同じように長いペニスを受けついでいることだろう。遺伝子は体のなかに持ち運ばれていても発現しないことがあるのだ。同じようにして、フィッシャーとランドの仮定によれば、雌の選好性のための遺伝子はたとえ雌の体でしか発現しないとしても、雌の体に持ちこまれている。そして、雌の尾のための遺伝子は、たとえ雌の体では発現しないとしても、雌の体に持ちこまれているのである。(中略)
 もし私が長い尾をもった雄なら、私の父も長い尾を持っているばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。これは通常の遺伝にすぎない、しかしまた、私の母は私の父を配偶者として選んだのだから、彼女は長い尾をもった雄を好むばあいの方がそうでないばあいより多そうである。したがって、もし私が父方から長い尾のための遺伝子を受け継いでいるなら、母方から長い尾を好む遺伝子も受け継いでいそうである。同じ理由から、短い尾のための遺伝子を受け継いでいれば、おそらく雌に短い尾を好ませる遺伝子も受け継いでいるだろう。
 雌にも同様の論法を用いることができる。私が尾の長い雄を好む雌なら、おそらく私の母も尾の長い雌を好んでいただろう。したがって、私の父は母によって運ばれた以上、おそらく長い尾をもっていただろう。したがって、私が長い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく長い尾をもつための遺伝子も、それらの遺伝子が雌である私の体に発現しようがしまいが、受け継いでいるだろう。そして私が短い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく短い尾をもつための遺伝子も受け継いでいるだろう。一般的な結論はこうだ。雄にせよ雌にせよある個体は、それがどのような性質であっても雄にある性質をもたせる遺伝子と雌にそれとまったく同じ性質を好ませる遺伝子の両方をもつ可能性が高い。
 つまり、雄の性質のための遺伝子と雄にその性質を好ませる遺伝子は、個体群のなかででたらめに混ざり合うのではなく、連帯しながら混ざり合わされる傾向にあるのだ。この「連帯」は連鎖不均衡という、いささか人を怯ませるような専門的名称のもとで進行し、数理遺伝学者の方程式とともに不思議な手品を演じている。それは奇妙で不思議な帰結をもつが、もしフィッシャーとランドが正しければ、実際にはクジャクやコクホウジャクの尾や、その他多数の誘引器官の爆発的な進化はちっとも奇妙でも不思議でもない。これらの帰結は数学的にしか証明できないが、どんなものであるかを言葉で表すことはできるし、数学的な論議の香りを非数学的な言語で手にいれようとすることもできる。それでも心のランニングシュートが必要だし、あるいは現実には登山靴と言った方がアナロジーとしてはよいかもしれない。議論はどの段階もいたって簡単なのだが、理解の頂きに登りつめるには長い階段がある。もし最初の方のどの段のどこかを踏みはずしてしまうと、残念ながらあとの方の段には進めない。
 いままで、雌の選好性には、尾の長い雄が好みの雌から、その反対に短い雄が好みの雌まで幅が全体に及んでいる可能性を認めてきた。しかし、ある特定個体群の雌について実際に世論調査してみれば、たぶん雌の大部分は雄に対して同じ一般的な好みを共有していることがわかるだろう。その個体郡の好みの幅は、雄の尾長の幅を表すのと同じ単位(センチ)で表すことができる。かくして、雌の平均的な選好性は同じセンチ単位で表される。雌の平均的な選好性は雄の平均尾長とそっくり同じ、つまりどちらのばあいも七・五センチだと判明することもあろう。このばあい、雌による選択は雄の尾長を変える進化的な力とはならないだろう。あるいは、雌の平均的な選好性は現実に存在する平均的な尾よりも少し長い尾、たとえば七・五センチではなく一〇センチの尾に向けられていると判明することもあろう。しばし、なぜそうした可能性を仮定できるのかは問わないままにして、食い違いがあるとただ受け入れて次の明白な問題を問うてみよう。ほとんどの雌が一〇センチの尾をもった雄を好むのなら、どうして現実には大部分の雄が七・五センチの尾しかもっていないのだろうか?どうして個体郡の平均尾長は雌の性淘汰の影響下で一〇センチに移行しないのだろうか?好まれる尾長の平均と現実の尾長の平均のあいだに、どうして二・五センチの食い違いが存在しうるのだろうか?
 雌の好みが雄の尾長に関係する唯一の淘汰ではない、というのがその答えである。尾は飛ぶうえで大事な仕事をつかさどっており、あまり長すぎても短すぎても飛翔効率は低下してしまうだろう。さらに、長い尾は持ち運ぶにも多くのエネルギーがかかるし、何よりもまずつくるだけでも多くのエネルギーがいる。一〇センチの尾をもった雄は雌鳥をひきつけそうだが、雄が支払う代価は飛翔の低効率化であり、エネルギー・コストの増大であり、捕食者による狙われやすさの増大である。これは、尾長に実用上の最適値があるということである。それは性淘汰による最適値とは異なっていて、通常の便利さの基準からみて理想の尾長である。つまり、雌をひきつけることを別にして、あらゆる観点から理想的な尾長なのだ。」(57~61ページより)

 ある選好性の性質というものそれ自体がどのような分布であるかということは統計的な数値として科学は弾き出すことが可能かも知れない。例えばある時代のある国家とか地域に出現する大物政治家や科学者や芸術家とか、犯罪者のパーセンテージというものは大体一定していると茂木健一郎は「脳とクオリア」で述べているが、そのような考え方の科学者は大勢いる。
 つまりある週刊誌の表紙を飾る芸能人に対する好みというものは人それぞれであるが、ああいう雑誌の編集者というものはどのようなタイプの芸能人がどの程度の人々の数によって支持され、どの程度の好みのばらつき具合があり、それを把握して戦略的に今週は彼女の顔で行こうとか決定していることだろう。あまりにも編集長の好みだけで判断していては、全く異なったタイプの芸能人に対して贔屓にしているファン層を失ってしまうことだろう。
 例えば私は好きな女性のタイプは勿論一つではないものの、ある自分の中の一般的な傾向、特に顔立ちに関して(そういうことというのは性格とも関連していないとも言えないだろうが、同時に関係ない場合もあるだろう。事実顔の好みで伴侶を選び失敗しているカップルも大勢いるからである。)一定の傾向がある。ある選挙区においてかつてある法案成立を巡って対立して造反して立候補した女性衆議院とその刺客として擁立された女性衆議院はどちらも美女であったと客観的に思うが、その二人の政策に関してではなく、女性としてのタイプの好みというものに関して好き嫌いは分かれるかも知れないし、私はたまたま政策的選考基準も、異性としてのタイプとしての好みもある候補に一致していた。政治家に対する贔屓の場合政策が第一であるべきだが、こういう異性に対する魅力というバロメータも決して侮れないということは言えるかも知れない。
 例えばある男性がある女性を好きになったり、嫌いであると感じ取ったりすること、その逆でも同じだが、そういうことというのはその人間の性格を推し量れば、確かにそういう性格の男性はああいう性格とか顔つきの女性を好むという傾向が仮に発見されたとしても、何故その性格的選好性というものがたまたま自分に当て嵌まるのか、ということそのものの偶然的な根拠というものを科学は突き止めることが出来るのだろうか?
 それを私が言うとある種の人々は、その両親を見れば、分かると言いたいらしい。そういう風に遡っていけばあるいは全ての人類の祖先の伴侶を見出した基準というものが発見されるかも知れない。それは文化人類学的規準での根拠、自然人類学的規準での根拠として、統計的な数値から算出されるかも知れない。しかしそれでも尚そのような社会学的根拠とか生物学的根拠というものは例えば私が何故ある顔つきとか容姿の女性が好きになる傾向があり、実際そういうタイプの一人と結婚したいと望むかということを説明する根拠にはならない。何故それが私と親しい友人ではなく私なのか、ということの根拠は何も説明しはしない。
 私が知り合ったある青年は私に「自分は小説家としては中島敦と太宰治惹かれる、特にその文体に。」と語ったが、その根拠を説明しようとしてもある一定のところで必ず行き詰る筈である。それは丁度何故セザンヌが晩年に描き続けたシリーズがサン・ヴィクトワール山のシリーズで、何故ある角度から見えるその山を描き、ある絵において何故構図は左画面の縁から何センチメートルの箇所に左の山の裾野のラインを斜めに描いているかということの根拠を突き止められないのと同じではないだろうか?
 自然科学とは偶然を記述することは比較的容易く出来る。しかしその偶然が生じた根拠それ自体を起源的に遡れても、その起源そのものを生じさせる根拠を説明することは出来ない。それは恐らく生命の起源に関してもそうだし、生命現象を起爆させた地球環境とか物理的条件の偶然性を導き出した根拠それ自体を起源的にもし仮に突き止められたとしてもその起源の根拠それ自体は決して解明出来ないのと同じである。
 誰もが知る有名な哲学者の文章だったが、誰だったかが俄かに思い出せないのだが、その哲学者は人間がどうして感動するのかとかある芸術を好きになるのか、つまり魅力を抱くのかということそのものを根拠付けようとする哲学者ほど低次の哲学者はいないということを言っていたのだが、まさにそういうことだろう。
 だからドーキンスが選好性の遺伝子作用それ自体のメカニズムをどんなに説明し得ても尚、哲学的には何故その選好性の判断基準というものが内的にこの私に当て嵌まるのか、例えばあることに関して極度の神経質である私の性格の根拠というもの遺伝的傾向に求めても、何故そういう傾向自体が私の家系にあるのかということそれ自体の根拠が終ぞ見出し得ないということからも、そのような分析自体は極めて空しいと言える。
 つまり愛とは努力であるし、意志であるにしても、その愛を、あるいは愛する対象を選ぶ根拠なんていうものは恐らくないし、それを知ることに意味があるのではないし、また知ることは恐らく出来まい。しかしそういうことの根拠は一方で科学に求め知ろうと努め、それを逆に哲学は批判するということは延々と人類の歴史において反復されてゆくということもまた運命かも知れない。
 つまり哲学はある意味では科学を批判対象として必要とする。また科学は自分のことを批判する者として哲学を意識する。例えば改革者と名のつく人々にとって改革すべき悪しき状況が必要なのであり、改革に拮抗しようとする惰性的保守主義者という存在が積極的に必要なのである。何故なら彼らの存在こそが、あるいは彼らの招く改革すべき社会状況こそが彼を改革者としての地位へと押し上げるからである。
 そのことはドーキンスの次の言説からも納得がいく。

「植物が繁茂するのは自らの利益のためであって、草食動物のためではない。しかし、植物が繁茂するがゆえに、草食動物のためのニッチ[生態的地位]が開かれ、彼らがそのニッチを満たしていく。イネ科の草は食べられることによって利益を得ているという話がある。真実はもっと興味深いものである。いかなる植物個体も、食べられることそれ自体によって利益をえることはない。しかし、食べられたときにわずかな損害しかこうむらない植物は、より深刻な被害をこうむる競合植物に勝つことができる。それゆえ、成功するイネ科の草は、草食い動物<グレイザー>の存在によって間接的な利益を受けてきたのである。そしてもちろん、草食い動物は、イネ科の草の存在によって利益を受けてきた。したがって、相対的に適合性をもつイネ科の草と草食い動物の調和的な共同体(=生物群集)として草原が形成されるのである。両者は協力しあっているように見える。ある意味ではそうであるが、それは、慎重に理解され、また分別をもって控えめに言わねばならない、きわめて慎ましい意味においてそうなのである。<中略>
 生態系レベルでの調和という幻想は、それぞれが効率よく働いている生物の体がつくりだすダーウィン主義的な幻想とは異なる、別の種類の幻想であって、くれぐれもそれと混同してはならないと、私はここまで言ってきた。しかし、よくよく眺めてみると、結局は類似性があることが明らかになる。それは、動物の個体もまた、共生細菌からなる生物群集とみなすことができるという考察_もちろん、これ自体面白く、しかもより一般的に述べられているものであるが_よりもさらに深く突き進んだところにある。主流をなすダーウィン主義的淘汰は、遺伝子プールの他の遺伝子(厳密には、それらの遺伝子がもたらす結果)が含まれる。したがって自然淘汰は、種内で、体づくりという共同作業において、調和的に協力しあう遺伝子を選り好みすることになる。私はそうした遺伝子を「利己的な協力者」と呼んだ。結局のところ、体の調和と生態系の調和とのあいだには、類似性があることが判明する。遺伝子の生態系が存在するのである。」(「悪魔に仕える牧師」中6‐1遺伝子の生態学400~401ページより)

 この選り好みするという箇所の指摘が先に引用採録した選好性の遺伝子の主張の反復となっているが、このことに全く類似した面白い現代社会の状況がある。
 社会学者であり、法哲学者である大屋雄裕は「自由とは何か_監視社会と個人消滅」(ちくま新書)中の4監視と統計と先取りにおいて次のように述べている。

「たとえば家電用品チェーンが競うように導入したポイントカード・システムの場合、カードを提示すると代金の数パーセントから十数パーセントにおよぶポイントが還元され、それを次回の買い物の支払いに充当することができる。おサイフケータイや電子マネーによる支払いを受け付けるようになったコンビニが増えてきたし、その場合に限定した商品の値引きが提供されることも多い。消費者にとってこれらのシステムが持っているメリット(実質的な値引き)は明白である。だが、彼らにはいったいどんなメリットがあるというのだろうか。ポイントカードや電子マネーを導入することによって、企業側は何を得ようとしているのだろうか。
 答えの一つが情報である。コンビニのPОSレジが顧客層の分析に使われていることはよく知られている。一般的なコンビニでは、精算の際に顧客の年齢層と男女の別を示すキーを店員が押している。それによって蓄積された各顧客集団の消費動向をもとにして、仕入れ・品揃え・販売キャンペーンなどの戦略が決定されていくわけだ。たとえば五十代男性がコンビニに何を求めているかは、その集団がどのような商品を買ってきたかというデータの中に示されている。あるいは逆に、ある「お茶」を積極的に買っている顧客層がつかめれば、広告の主な対象を絞り込むことができるだろう。膨大なデータから隠された関連を見つけ出す作業を、データ・マイニングと呼ぶ。
 典型的な成功例と言われるのはある郊外型スーパーで、週末にビールの箱売りコーナーのそばに特売紙おむつを並べたら双方の売り上げが伸びたというケースである。一見関係のなさそうな両方の商品を、しかし同時に買っていく顧客が非常に多いことが購入履歴から浮かび上がったために実施されたキャンペーンだったのだが、タネを明かせばさほど不思議な話ではない。乳幼児を抱えた若い夫婦が、休日に夫の運転する車で買い出しに来てはかさばる品物をまとめて購入していたというのである。もちろんこのように、わかってしまえばたいしたことのないコンビネーションを、あらかじめ知られたタネなしに、膨大な情報・購入履歴を分析することで見出すのがデータ・マイニングの旨味であり、担当者腕前だ、ということなのだが(だからそれはマイニング=鉱山掘りなのである)。
 だがここではまだ、顧客は集団としてのみ把握されている。これに対しクレジットカード、ポイントカード、あるいは電子マネーが可能にするのは、さらに個別化された個々の顧客の行動分析だろう。集団としての顧客の分析では、あくまで同時に買われた商品のあいだの関連しか見抜くことはできない。だが顧客が番号付けされ・個別化され、その消費履歴が通時的に蓄積されていくとき、ある特定の客の・時間を通じた消費傾向を見抜くことが可能になってくるだろう。新しいプリンタを買った顧客がどのくらいのペースでインクカートリッジを購入しているか。あるいはデジカメは平均してどのくらいの期間で買い換えられているか。これらのデータが蓄積されていけば、それをもとにして販売戦略を立てたり、広告を展開することが可能になるのではないだろうか。たとえば、ある特性を共有する人々の購入意欲が高まる時期があるとすれば、それに合わせてバーゲンを開催すれば効果的だろう。あるいは、ちょうどある品物を欲しがるだろう頃合いの顧客に、その需要に合わせた宣伝広告を送り届けるというのはどうだろうか。
<中略><フーコーも引用していたパプティノコンを説明した後>
 そしてこのパプティノコンが電子的に実現されたものが現代の超監視である。消費者の行動を通じて生み出された情報は、人々の気付かないうちに集計され、総合され、そして個々人の消費者に対する対応が生み出される。我々の気付かないうちに、我々の見る商品のリスト、我々の行為可能な空間が形作られる。そこにあるのは電子的な監視の権力である。
<中略>
 だとすれば、情報技術の発展によって顧客が個別化され、個々人の消費履歴・購入傾向を分析することが可能となったとき、顧客への対応もまた効率化を求めて個別化されるだろう。それこそが「パプティノコン的分類」だ。
 もちろん我々は、そのようなテクノロジーが単なる空想の産物ではなく、すでに実在していることに気付く。たとえばAmazon.comの「おすすめ」機能は、いままでの取引によって蓄積された消費の関連性のデータ、すなわち「書籍Aを買った人が、あとで書籍Bを買っていることが多い」という実績に基づいて、書籍Aを購入した人に「書籍Bもいりませんか?」と推薦してみるというものだ。あるいはさらに積極的に、過去の購入履歴をもとにして、その本を求めているであろう顧客に対して新刊の広告を送ることも、すでに行われている。
 個別化された消費履歴から個別化された広告へ。つまり、そこで目指されているマーケティングは、過去の事実に基づいて未来の行為を予測するというシミュレーションの欲望に基づいている。
 そして我々はそこで、顧客一人ひとり、Amazon.comで消費する我々一人ひとりの行動が、監視可能な事実・属性の束として把握されていることに気付かなくてはならない。いわば我々はそこで、自己決定し判断する主体としてではなく、一定の確率や法則性に基づいてその行動を予測することのできる対象として把握されている。Amazon.comという「偉大なる兄弟」は、我々を見ているのだ。
<中略>
<前略>「パプティノコン的分類」は「類は友を呼ぶ」という一つの極めて単純な仮定に依存していた。その中で人は「類」として把握される。皮肉なことに、個々の顧客は個別化されて把握されることによって逆に、あるグループの中の一員としてのみ認識されるようになっていくのである。「おすすめ」のシステムは、人々の消費の仕方が互いに似ていると判定された小グループのあいだでは共通性が非常に高いという判断に基づいていた。そこにおいて個々人は、監視可能な属性によって分類される集団に基づいて把握されている。
 そしてもう一つ注目すべきなのは、そこで目指されている支配が確率的なことであることだ。当然のことだが、Amazon.comに特定の本を「おすすめ」された全員がその本を購入するわけではない。「おすすめ」の根拠になった本が気に入らなかった消費者もいるだろうし、間違えて買った人だっているかもしれない。「パプティノコン的分類」に基づく処理は、その対象の全員を逃げようのない形で従わせようとするわけではない。その意味でそれは、何らかの属性に該当するもの全員をもれなく対象とする法とは異なっている。たとえば社会全体を対象に広告を流すのではなく、効果の高い集団だけを選んで集中的にアピールすることによって、はるかに安いコストで購入者の数を増やすことができるだろう。対象とされた集団の一部だけにその効果が生じるとしても、コストとの比較・従来のシステムとの比較において優れているのであれば、効果的な支配が可能になる。そこに現われているのは、確率的な支配・柔らかい支配なのだ。」(101~113ページ中を抜粋)

 大屋の示している私が太字で示した部分が最も重要である。しかも氏の指摘はそれだけに留まらず、次の言説へとも繋がってゆく。

「消極的自由も最低限それを実質化できるだけの条件が整備されるという積極的自由の内容を必要とするはずだと、井上達夫が主張したことを思い出そう。紙もインクもない出版の自由など、絵空事である。だが、だとすれば自由が制約されるという場合にも、何かがそれによって不可能となったと個々人が感じること、人々の実質的な喪失の意識が必要になるものではないだろうか。ここでバーリンが積極的自由のはらむ一つの危険として、「内なる砦への退却」と呼ばれる現象を挙げていたことを想起しなくてはならない。
 
 確実に手に入れることができると考えられないものを追い求めることはすまいと心に決める。達成できないものは欲しないと決心するわけである。暴君は、私の財産の破壊、投獄、追放、愛するものの死をもって私を脅かす。しかし、私がもはや財産に愛着を感ぜず、投獄されているか否かを意に介せず、自分のなかの自然的愛情を圧殺してしまっていたとすれば、その暴君も私をその意志に従わせることはできない。なぜなら、私に残されているものは、もはや経験的恐怖ないし欲望に従属するものではないのだから。(バーリン前掲三ニ六ページ)<「二つの自由概念」のこと、河口注加入。>

 井上達夫はこれを現在の環境をもとに「自分が望むもの」を決めてしまう「順応的選択の形成」の問題だと指摘している。(後略)」(120~121ページより)
 
 つまり大屋の言いたいことというのは、現代社会の監視システムを招聘したのは、我々の中のある資質であるということで、その資質がまた一方では権力に必然的に積極的自由を付与してしまうという悪循環である。そしてその元凶として氏は井上達夫の概念であるところの「順応的選択の形成」であると言う。
 この順応選択という作用は、私たちが無意識の内に設定してしまう全ての規範であると同時に、脳科学的な見地に立てば、反応選択性と呼ばれる一定の知覚作用とも重なる。例えばおばあちゃんというイメージそのものは我々の脳のある一定の発火現象によって、ある人物対象に対して脳が示すパターンによって、ある程度決定されている。寧ろその決定された脳の発火パターンに随順しない女性がいたとしたら、その女性に対して我々は「おばあちゃん」というイメージでは接することが出来ないということもあり得るわけだ。
 私たちが自分の脳に中で一定の親縁的なイメージ像、心像のようなものを形成することそのものが、一方ではそれを無意識にしている脳作用そのものに引きずられて、まるで意志として、意識的にしていると自分では思っている多くの決断(だと自分で思っている)を実はそういった無意識の脳作用が我々の意志を支配しているという現実も示している。
 それはだが我々を監視する営利企業側の私たち一人一人の顧客データによる広告戦略そのものにも該当する。つまり一定の消費傾向に対するデータから算出された広告戦略は、「こういう商品を消費する顧客の次の商品選択はこうであろう」という目測自体が、選好性のある「よく見られるパターン」に随順した購買戦略であるからである。
 つまり騙される側を嵌めている積りの騙す側そのものが、既に我々消費者に対して採る購買戦略において順応的選択形成している、ということが言えるからである。それは先述において私が抜粋引用したドーキンスの「自然淘汰は、種内で、体づくりという共同作業において、調和的に協力しあう遺伝子を選り好みすることになる。私はそうした遺伝子を「利己的な協力者」と呼んだ。」という言説と相同のメカニズムを発見することを我々に強いる。遺伝子レヴェルで我々の種を形成する自然淘汰の作用が社会学的な我々消費者と購買促進営業部の戦略との間の奇妙な心的な合致、つまり騙す側と騙される側の奇妙な合意のような経済消費システムの状況が、私たち自身を、そして私たちを巧く乗せている企業の双方を利己的な協力者に仕立てているのもまた、井上達夫の言説であるところの「順応的選択の形成」という脳内の判断において脳科学的に示されている反応選択性と密に連携プレーをしている私たちに意思決定の無意識の意図性である。
 私は実はそれこそが関心という私たちの意識的な心的状態を作り出しているのではないか、と考えているのである。
 つまり関心の質量というものは、実は関心対象に対する愛着それ自体を作り出している我々の脳の作用とも関係があるし、そういった脳作用それ自体を客観的には理解を示しながら、その脳作用そのものを解明しようと科学者たちを追い立てつつ、哲学者たちをある意味では懐疑的な立場の人間に絶えず追い込む私たちの意志というものかも知れない。つまり私たちの意志というものは、一方で脳に助けられながら、他方ではその脳そのものの作用をさえ懐疑の対象としてしまう私たちの止むことのない知りたいと願う欲望である。その証拠に大屋の先ほどの文章は次のように続くのだ。
「典型的な例としてイソップ童話の「すっぱいブドウ」があるだろう。何度とびついても手の届かないブドウについて、キツネは去り際に「あのブドウはきっとすっぱいに決まっているさ」と捨てぜりふをはくのだった。いまの境遇がつらいのは、手に入らないものを望んでいるせいである。だとすれば、手の届かないものなど最初から望まなければ楽になれるのではないか。」(121ページより)

 生粋の哲学者なら、だから次のとある漫画の登場人物の言説を切実なアイロニーとして受け取るかも知れない。
「人間の脳がどのような仕組みになっているかと不思議に思い、脳を調べて脳の正体が解明されるくらいの脳の仕組みの単純さだったなら、我々の脳は我々に脳がどのようになっているかと不思議に思い調べることなどしはすまい。」
 これはある意味では脳科学、あるいは脳科学者全般に対する痛烈な皮肉である。
 ある意味ではドーキンスはダーウィニズムを標榜することを通して、科学では解明つかないことに対する事柄を暗黙の内に科学者自身で気付くことが重要である、と考えているタイプの科学者なのかも知れない。そしてそのことは科学者としてドーキンスが最も現代に対して最重要であると考えているダーウィン本人の科学者としてのタイプにも言えることである。
 ダーウィンにおいて最も重要な概念は進化ではない。これは逆説的に響くかも知れないのだが、実際のところダーウィンは変化してゆくそれ自体を自然の仕業であると考えたが、そのことを進化であるとか進歩であるという判定そのものは大して重要であると考えていたようには私には思えない。寧ろそうであるからこそ彼が最も重要な指針としてきたものが自然淘汰と適応であるという事実が意味を持ってくるのだ。
 つまり彼は私たちが自然という不可思議に対して抱くあらゆる思考傾向性の持つ迷妄と、自然の選択というものは悉く無縁である、ということを一つ一つ私たちの抱くドグマとアポリアを除去して行った先に残る意図のない(それ故哲学者たちが空虚であるとか、無意味であるとか規定することそれ自体が既に哲学的主観であるということを意味するのだが)自然の選択(一定の好みも、贔屓も一切ない)である、ということだけが我々が唯一心に留めておくべき真実(真理ではない)であるということを示した科学者であるからだ。
 要するに自然は非意図的である限り、非倫理であり、非感情であり、非意志であり、非欲求であるということに他ならない。
 しかしそのことについて哲学者はどう捉えていたのかということを、最後にレヴィナスとカントとアンリそして永井均氏から考えてみることで、関心の質量が、実は郡司ペギオ氏の指摘のように、内包と外延の認識における齟齬のようなものであるということが鮮明に浮かび上がってくる。
  
 勿論三者とも全く異なった位相から捉えているのだし、共通性というようなものは見出し得ないし、また見出そうとすること意味はない。ただ私は齟齬をどのように克服しているか、という一点にのみ感心の質量を考えたいということなのである。
 例えばレヴィナスは家族の大半をナチによる迫害で失っているという時代的、民族的特殊状況を掻い潜り抜けてきたその経験から、あるいは彼自身の持って生まれた人間性から他者に対する独自のスタンスの採り方が彼の哲学の中に生じさせられている。それは関心を抱くというような冷めた意識でもなかったかも知れない。
 より彼の哲学の独自性が表出された「時間と他者」において<死と未来>において

「希望は、死の瞬間に、逝かんとする主体に与えられる余白そのもののうちに存在するのだ。(中略)無は不可能なのだ。無であれば、人間に対して、死を引き受け、実存の隷従から至高の支配を奪い取る可能性も残しただろう。《To be or not to be》〔生きるべきか、死すべきか。あるべきか、あらざるべきか〕は、このような自己を無化することの不可能性の自覚なのである。」

と述べている。確かに我々は今こうして生きてしまっている。生まれてきたからこそ、死を当然のこととしては受け容れられない。しかしそのように当然のこととして受け容れるということは、ハイデッガーが最も嫌った「眼の前に既にあること<フォアヘンデンハイト>」であることから何ら疑念を抱かずに生を送ることである。目前に認められる対象も他者も実は、それを認める自己主体の存在によってであるが、自己という想念を抱かせるものとしてもまた対象も他者も存在しているし、その対象と私との距離、他者と私との距離を近いものとしても、遠いものとしても延々と哲学者たちは問うてきたのである。そしてその近さや遠さそのものが生を価値というフィルターで捉え直すことを我々に強いてきた。だから生を死の側から捉えることが出来ない以上、死を容易に受け容れられないという前提で全ての哲学は出発している。実はアポトーシスというような形で生命現象全般に渡る運命として生物学者たちが探求している死のシステムという命題さえも、実は彼らもまた科学者だから特別の物の見方が出来るとふんぞり返っているわけではなく、ただ死に対する恐怖を和らげるために奔走しているに過ぎないのだ。
 永井均氏はテクスト「私、今、そして神」において氏にとって三つの最大に不可知な思念内容をクローズアップさせた。これは今ということに関してはライルも言っていることだし、「私」は殆ど全ての哲学者が言ってきたことであるし、神も有神論的立場の哲学が珍しくなくなってきてからも尚、どこかで厳然と居巣食い続けている思念である。だがレヴィナスは率直に「私」以上に他者が最大に不可知なことであるとする。しかし永井氏が私の存在の比類なさを追い求めているということが仮に氏に考えておられるように独自なことであったとしても尚、私とは他者(私にとって永遠の客観であるところの)ではないということに尽きると考えれば、それは使用する語彙の違いであるということも出来る。あるいはレヴィナスは時間ということの中にやがて訪れる死という非生、非実存に対して抱く不可解を別な形で認識し直す(解明はされ得ないものの)ために他者を考えている、あるいはハイデッガーが、死が生命現象の一部であるにかかわらず、非公共的であることを感じ取っていたことと共通する私にも他の誰とも変わりなく到来する死という他者との共存(生とはまさに死との共存であると言える。)において、「私」という不可解をクローズアップさせようとしたのかも知れない。

「(前略)主体がもはや何かを捉えるいかなる可能性も持つことのない、そのような死という状況から、他者と共にある実存のもうひとつの特徴を引き出すことも可能である。どうやっても捉えきれることのないもの、それは未来である。未来に外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(中略)未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕らえるものなのである。未来とは他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語ることは、われわれには不可能であるように思われる。」(同書、67ページより)
 つまりレヴィナスは時間の中のとりわけ未来というものの他者性を取り上げることを通じて現存在としての他者の深刻さ、重大さというものをより比喩的にクローズアップさせることを試み、そして同時にその重大な他者もまた、私同様死という非私性を不可避的に、生をある日突然中断させられるという命運の只中にあるという意味で重大な時間というものを相補的に二大不可知領域として措定しているのである。
 そのことを端的に次のようにレヴィナスは言述している。

「問題は、永遠を死から引き離すことにあるのではなくて、それを迎え入れること、ある出来事がその身に起きる実存のただ中で、位相転換によって獲得された自由を自我に保存しておくことを可能にする、というところにあるのだ。それは、出来事が起きると同時にまた、それにもかかわらず、事物や対象を迎え入れるようには、それを迎え入れることのない主体が、出来事に正面から立ち向かう死を克服しようとする試み、とでも呼ぶことができるような状況である。(70ページより)
(中略)
 出来事が、それを引き受けることなく、それに対してできることを何もし得ない主体に起きる、というこのような状況、しかしそれにもかかわらず、出来事が何らかのかたちで主体の面前に存在している、というこのような状況、それは他人との関係、他人との向かい合い〔対面〕le face‐to‐face、他人をもたらすと同時にまた他人を遠ざける顔貌<ヴィサージュ>との出会いなのである。「引き受けられた」他者_それが他人である。(71ページより)
(後略)
 死がもたらす未来、出来事の未来は、まだ時間ではない。というのも、誰のものでもないこの未来、人間が引き受けることのできないこの未来は、時間の一要素となるためには、やはり現在との関係に入らなければならないからである。まさしく合間を、現在と死とを隔てるまぎれもない深淵を_取るに足りないものでありながらも、しかしそれと同時に、無限のものでもあり、そこには常に希望のための十分な場所のあるこの余白を_かかえこんだこの二つの瞬間をつなぐ絆とは、どんなものなのだろうか。時間を空間に変換するのは、確かに純粋な隣接関係ではないが、しかしまた、それは呪力(デイナミスム)や持続の飛躍でもない。というのは、現在にとって、それ自身の彼方に存在し、未来を侵蝕するこの力は、まさしく死の神秘そのものによって排除されているように、われわれには思われるからである。
 未来との関係、現在における未来の現前は、やはり他人との向かい合いのなかで実現するように思われる。向かい合いの状況は、時間の実現そのものである、というわけだ。現在による未来に対する侵蝕は、単独の主体の所業ではなくて、間主観的〔相互主観性〕関係なのである。時間の条件は、人間同士の関係のうちにないし歴史のうちに存在するのだ。(72~73ページより)

 レヴィナスは他者が時間同様個としての人間の独在性を構築する要としてある部分では神秘的に、ある部分では自明な存在として立ちはだかっているということを力説する。確かに未来は存在しない。これは中島義道氏の主張するところでもある。その不在の未来、あるいは未来の到来ということそのものの不確実性の前で誰しも抱く不安は、しかし他者との語らいと、相互に私秘的ではあるもののデモーニアックな願望を誰しも携えているということに対する確認において、我々は時間の自明ではあるが残酷な一面に対して相互の共通体験性(つまりその残酷な時間に拮抗して生きているということの共感と、同情)の確認において、他者が最もミステリアスであるにもかかわらず、最も理解し合える存在でもあるという両義性を確認することによって克服することが出来るのだ。
 そのことに関しては永井均氏が最も適切な信頼ということ、信じるということの絶対的命題を他者性と絡めて言述しているので再録しておこう。(「なぜ人を殺してはいけないのか?」87ページ~91ページより、小泉義之共著、河出書房新社刊、第二章 きみは人を殺してもよい、だから私はきみを殺してはいけない)

「3、きみは人を殺してよい
 さて私が、このことを他人に向かって語るとしよう(いま現にそうしているように)。それはどう理解されるだろうか。
 もしこの議論の趣旨が理解されるとすれば、それは「世界の中で、永井は殺されてはならないが、永井だけは人を殺してもよい」という意味には理解されないはずである。それは、それぞれの人にとって「私は殺されてはならないが、私だけは人を殺してもよい」という趣旨に理解されるはずである。だが、このように「私」が一般化されてしまうことこそが、最初に拒否されていたはずではないか。誰もが、あるいは多くの人が、自分だけが人を殺してよくて、人に殺されてはいけない、ような社会は、誰もが、あるいは多くの人が、拒否する社会であるのだから。たしかに、一般的にはそうだ。だから、私はこの議論を他人に向かっては語らないはずなのだ。
 だが、ときに私は、人に向かってそのことを語りたくなる。きみは人を殺しても、何をしてもいいのだと、どうしても言いたくなってしまうのだ。あまりにも図1のような世界像を自明視して、そのような世界で成り立つ規範を金科玉条のごとく信じている人には、そんなものに縛られなくてもいいのだ、なぜならこれはきみの世界なのだから、と言いたくなってしまうのだ。つまり、きみは世界そのものの主体なのだ、という説教(ふつうとは逆向きの説教)をしたくなるのだ。これは、もちろん自己破壊的な説教だし、そもそも事実に反しているはずなのだが。
 ここで直面している問題は、独我論の伝達という問題と同型である。いや独我論の伝達という問題そのものである。夢の喩えで言えば、私が他の人に向かって「この世界はきみの見ている夢だ」と語ることに対応する。そういう可能性はないといま言ったばかりではないか。それでも私は、「これはきみの見ている夢かもしれないではないか」と語りかけることによって、そういう世界理解の可能性があることを人に教えることができる。どうしてそんなことができるのだろうか。
 もし私=永井が小泉に対してそう語りかけるなら、そのとき暗黙のうちに図4(図5)のような世界が想定されていることになる。この世界を「小泉世界」と呼ぼう。私=永井にとって、それは小泉という人物を起点にしてしか構想されないからである(それに対してここでは詳論しなかったが、図2や図3の<私=永井>の結びつきが偶然的であり、私はその世界を永井という人物を起点として構想しない)。これは夢の中に登場する人物が、夢見の主体に対して「これはあなたの見ている夢ですよ」と教えるという構図である。もちろん夢から覚めた「あなた」はもう小泉ではなくてもよいのである。自分(これは誰だ?)が小泉という名のお祈り好きのデカルト学者になっている夢を見ることは可能だからだ。
 その誰からに対して(のみ)私は「きみは人を殺しても(何をしても)よいはずだ」と呼びかけることができる。そのとき私が「きみは人を殺しても(何をしても)よいが、人に殺されてはならない」と言っていることになる。だから、私が他者に向かって、きみは人を殺してもよいのだ、と呼びかけるとき、そのきみだけが、私が殺してはならないものなのである。つまり他者に対して、「これはきみの世界なのだよ」と呼びかけるとき、そのときはじめて、私はきみを殺してはならない立場に立つのだ。私はそのときだけ、その人の生を手放しで肯定している。
きみは何をしてもよい、人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。私はそう言いたいのだ。これがつまり、<魂>に対する態度である。
 つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。逆に言えば、私が人を殺してはならないという社会規範を自らに受け入れることができるとき、私はその社会規範を破壊しているのでなければならない。
 だから人を殺してはならないという社会規範は、じつは社会規範の範囲を超えているのかもしれない。この規範は、じつは不可能な規範、社会空間の中では表現できないことを、あたかもできるかのように語っているのかもしれない。殺人は最も極端な例だとしても、ひょっとすると、同じことがあらゆる社会規範について、言えるのではないだろうか。私はそう疑っている。」(図は省略したが、関心の或る方は原著本を参照されたし。著者注、著者加入。)

 ここで永井氏が主張したいこととは私が太字で選択した部分である。そして氏は哲学が時として危険なものであるということ(それは中島義道氏も常々主張されていることである。)、そしてそのように社会正義とか、社会規範的道徳教育とは無縁の立場で考えること(氏の語彙を借りれば<ふつうとは逆向きの説教>としてしか成立しないようなタイプの考えをも含めて正しいと思うことであるならそれが社会規範と一致していても、逸脱していても差別しないような考えをすること)、そして既成の枠組みで物事を考えることを拒否すること、そしてそれは正しいとされる倫理問題や社会道徳的問題でさえ批判対象とすることを辞さない要するに聖域なき精神の構造改革であり、問題の範囲を拡張し波及する範囲が無限定であることこそが哲学の律儀ではあるが、その律儀さこそが唯一の哲学が保障すべき自由であるという考えが示されている。しかもそのような哲学の語りをしようと考える他者とは氏の考えているように、その者だけは世界で生き延びていって欲しいし、その者からだけなら自分は殺されてさえも惜しくはないとさえ言える、つまり本音を語れる相手であり、かつそのような他者と巡り合いたいという価値論的な自己幸福的なエゴイズムこそが、哲学的問いを語りかけるに足る他者である、永井氏の他者論の神髄がここで示されていると私は考えるのだ。だから結論的に「きみは何をしてもよい、人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。私はそう言いたいのだ。これがつまり、<魂>に対する態度である。」と語る時、きみと氏が語る者とは哲学を理解する者に他ならない。そして続けて「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。逆に言えば、私が人を殺してはならないという社会規範を自らに受け入れることができるとき、私はその社会規範を破壊しているのでなければならない。」と氏が締め括る時、私たちは次のことを考えねばならない。何か法秩序を逸脱したような罪を一切犯さないで社会規範的に善良に生きることというのは、道徳的社会規範に随順した生き方のように一見考えられるものだが、実はそうではない(このこともまた中島義道氏が「悪について」でとくとくと主張されている)。心情倫理的には犯罪者が最も社会規範に随順しているとさえ言える。何故なら彼等はある意味で社会規範に挑戦し、その挑戦が功を奏さない時社会的法の制裁を受けることを選んでもいるからだ。しかし一切法に触れないような生き方をしている者は、逆に法に触れさえしなければ何をしても、一切制裁を受けずに社会規範の側からお咎めなしで生活出来るということであり、それを選んでいるのだから、社会規範に対して随順しているのではなく、寧ろ心情倫理的な意味合いからすれば回避しているさえ言えるのだ。だから社会規範に最も非随順的に生きるとは、端的に一切の社会規範的な法秩序を犯さずに、その制裁から逃れるように法を遵守することなのである。その生き方には社会規範というものの存在理由を自己の幸福以上の価値としては認めないという考えが潜んでいるからである。しかし犯罪者はそれをして見つかれば、法的制裁を受けることを知って尚且つその行為へと赴いている。この行為を心情的に判断すれば、社会規範そのものに挑戦しているわけだから、社会規範というものの存在理由そのものを、法秩序を遵守する者より、自己幸福以上に高く見積もっていることになるのだ。
 だからこそ真に人を信じるという時、我々はその者が犯罪に走ったとしても尚、そのものへの好感情、そして贔屓心、そして応援する立場を崩さないという行為選択を我々が採ることを自然化するのである。それは端的に社会規範に随順ではないこと、つまり社会規範にのみ随順であることは、犯罪者に追われた友人に危険が差し迫るので敢えてその犯罪者から友人が逃げたことを告げることをしないで犯罪者に嘘をつくことを促進する。カント的に言えば、善であることの真たる行為とは、犯罪者に追われた友の居所を犯罪者に尋ねられた時に、友に危険が及ぶ可能性があっても、嘘偽らずに、教える行為選択を意味するのだ。カントはそのことを言いたいために恐らくあのように批判を浴びることを承知であのようなことを「実践理性批判」で言ったのだ。善であることは価値論的なことであり、当然人間的感情として好ましいことを意味しない。善的な心情として(責任ではない)心情倫理的に正しいことをするということは、その正しいことを犯罪者にまで適用せねば完遂し得ないことを意味する。そうでなければ善とは成り立たないからである。しかし重要なこととは、それは信じたいから信じるとか、信じられるから信じるのではなく、他者に対してある者は信じ、ある者は信じないということが贔屓感情からのみ出ているとしたら、それは善ではないだろう。しかし善的な価値規範(それは断じて社会規範とは異なる。これは強調し過ぎてもし過ぎることはない。)から言えばある者の行動や思想が信じられるから信じるという他者信頼のバロメータそのものは間違ってはいないだろう。そこにただその者が好きなタイプだったから思想や行動とは別の問題だ、というようなことを適用していなければ。そして永井氏のこの言述においてきみと呼ぶ者こそ、哲学を理解する徒ということとなるのだ。そしてその信じたい者とは善的に、価値規範的に正しい者とも限らないのだ。だからこそ人間はサルトルが対自と即自に引き裂かれた非法則的一元論的に、両立論的に生きているという現存在ということになるのだ。その自己矛盾、つまり善であることを価値的に認めながら、そういう行動と思想のみで生きる者を信じたくはないということが、必ずしも我々にとってレアールな観念として<善=信じる>が該当しないということと、社会規範的随順であること、あるいは社会規範的に善であり、社会規範非随順であることの両方とも、善ではないという、要するに全てが一致するとは限らない(一致する時もある。)ということから引き起こされるジレンマこそが哲学によって社会規範的に正しい行いとされているものをも含めて全て懐疑と、批判の対象とすることを辞さない自由という論理思考的責任論に追及する必要があるのだ、という主張がこの永井氏の言述には込められているように私は思う。するとこの論述自体は極めてある部分レヴィナス的である。特に他者への信頼ということに内在する善との不一致において。
 レヴィナスは「存在の彼方へ」(405ページより)において次のように述べている。

「呼気と吸気いずれにも属さない瞬間によって分離された、呼気と吸気の隔時性は獣性ではなかろうか。(中略)他人によって息を吹き込まれることで、この息切れは<存在すること>を突き破る。(中略)自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。世界も場所も有さざる自己の開けとしての空間の開けは非場所であり、何ものにも取り囲まれないことである。このような空間の開けは、最後まで息を吹き込んで、ついにはこの吸気が呼気に転じることである。かかる開けないし呼気、それが<他者>の近さであり、この近さは、他者に対する責任、すなわち他者の身代わりになることとしてのみ可能である。」

 ここには善が価値論的に正しいとされることの中にも信じられないことがあり得る(先ほどのカントの例のように)と、価値論的には容認し得ないことでも信じるに足ることはあり得るということ、それは永井氏が自己犠牲してもいいくらいに信じたい他者という想念こそが聖域なき懐疑と批判の必要性(=哲学すること)、そしてそうし合える他者からなら殺されてもよいとさえ感じる瞬間こそが、身代わりになってもいいと思える、そういう者をもって初めて他者と我々は呼ぶという、信じることの可能な価値規範的な善(情動論的、衝動刻印的、扁桃体感情記憶的、感性論的善)とその価値規範とは社会規範的な善とか正しいと考えられる価値規範的善(意志論的、海馬意味記憶的、理性論的善)とも不一致なものである、だからこそ中島義道氏が常々主張されているような意味で、瞬間という想念自体が時間論的に捏造されたものであるという「瞬間という無に対する幻想」が呼気と吸気を隔絶する瞬間を作り出すという我々のアポリアをまずレヴィナスは言っておいて、然る後それを信じることの容易さ、つまり誤謬的なこと、ドグマであること、ドクサであること、しかしそれもまた例外なくそのドグマから出発する他者に対する信頼ということに、我々は本音を語ること、あるいは他者に対して価値論的善さえも相互に懐疑と批判の対象にすることを辞さない聖域を設けない非差別主義、そして意識も自己も空間的延長を持たないものであるから、その非場所性において我々は他者を信頼し、他者に対して犠牲になってもよいとする他者と出会った時初めてその他者を真に哲学的な他者と呼ぶのだという主張もレヴィナスのこの述定から読み取れるのである。レヴィナスのこの述定には明らかに価値論的善に対するアナーキー、つまり衝動論的な価値規範謀反論の趣きがある。これはドーキンスの選好性の遺伝子ということを永井氏もレヴィナスも哲学者なりに直観し得ていることを意味している。(永井氏の衝動論に関しては自著「他者と衝動」別ブログ「決心の構造」で詳述したので、参照されたし。プロフィールにおいてクリック可)
 質量とは内包と外延の齟齬によって生み出されるという郡司ペギオ氏流の概念規定から考えれば、今述べてきた価値規範的正しさという理性論的、意味論的善は必ずしも我々の感情、つまり信じられる、信じたいということと一致するわけではないということからも明白であり、だからこそ関心の質量とは、信じられることと信じたいこととの一致を幻想であると認めつつも、理想論的には志向せざるを得ないということと、その不一致に対する絶望を希望ではないものの、ニヒリズムから少しでも遠ざけることを志向することが、哲学することなのであり、そのために生物学の観念は自然科学の中でも哲学することを可能とする哲学的他者獲得のためにも有用であるということが現在の私の関心の質量の構成要素となっている。
 最後にカントの「実践理性批判」と「判断力批判」中で彼が関心について触れた箇所を粒さに見てゆくことで、関心の質量についてもう一度検証してみよう。

Thursday, October 29, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」5、言語の羞恥

 言語活動の起源は他者の存在への意識であることは容易に想像される。ここで言語活動を有用性の観点から思考実験してみよう。
 言語活動を意思疎通(意味内容の伝達)という面から考えれば、つまり音声発声内的ストレス発散という面から考えることを一方で保留にすれば、情報内容の相互間のずれと内容の違いが、共有への意欲を生じさせ、そこで発話が成立すると考えられる。だから本来言語活動の発生の起源を情報内容の交換のみから考えれば明らかに他者(=他人、つまり同一家族外成員)との物理的接触によって齎された、と言えよう。だから逆に一日を未だ他成員と共同作業(職場の発生)のない家族内結束行動の状況下では、殆ど全成員が所有するのが、同一情報内容なので、語彙発生や複雑な状況説明をするための言語行為発生の可能性を見出し難い。つまり形容的詠嘆表現くらいしか彼等の間では発達しないだろう。
 しかし同一家族内(自分の家族内)で徐々に行動が別々となると(子供が成長して狩猟を手伝い、別の場所で仕事が出来る。)、情報内容は自ずと差異が生じ、その未知の情報内容の相互の(この場合親子の)報告必要性が生じ、少なくとも情報内容の報告文の発生が齎される素地が出来上がる。つまり情報内容報告意図から考えれば、言語活動とは明らかに他者、それがたとえ同一家族内であれ、別行動による別内容の生活の実現が引き起こす、と考えられる。 
 さてここからが重要なのだが、少なくとも言語行為が成立するためには、とりわけ意味内容を伴った情報内容の交換、伝達がなされるのには、意識、しかも明示的意識が先験的に要求されるということになる。勿論言語行為をただ単に音声発声という面からのみ考えるのなら、ある程度の大脳知性を兼ね備えた哺乳類であるなら判断を司る扁桃体の存在によって情動的な意味合いからも既に顕現可能である。しかしそれは語彙選択ではない。語彙選択とは少なくとも語と指示内容の一対一対応という明示性が必要とされる。例えば同一家族内共行動の場合、天候、捕食者からの外部的脅威に対して何らかの形容詠嘆表現的発声(叫びとかの)は常習化し、やがて幾つかの詠嘆発声のケース毎のパターンが誕生し、それが形容詞の誕生にもなったと考えられる。同一家族内であれ、他者であれ同一職場内でも作業分担さえあれば、名詞を派生させる機会には恵まれよう。しかし形容詞はあるいはもっとそれ以前的な共行動による同一外部脅威への反応(そのことによる内的感情表出)によって既に確立されていた可能性はある。
 ホージランドは人間は既に知覚において、とりわけ視覚において倫理が内包されている、と考えている。事象に対する内的意識の表出という反応を発声という形でなす以前的に、つまり発話定着以前に明示意識が視覚的認知においても、私たちの祖先に何らかの形で芽生えておれば、意識の持つ外部からの内容確認不可能性に対する認識の発生を、発声行為による言語行為の前準備段階であると考えることも出来る。
 人間は他者と行動そのものを「合わせる」(ガレーゼとリゾラッティーによるミラー・ニューロンの発見にもかかわる。)という行為への内的心的様相を原羞恥という原生命的他性認識に原音楽とを重ねる時、初めて言語行為の発生的基礎が形作られた、と考えられる。恐らく私の考えるところでは人間のような音韻発声による言語活動を持たない他の高等哺乳類とある程度可能なものとの間には、この原羞恥と原音楽そのもの同士を「合わせる」ことにおける明瞭さ、つまり意識的(明示的)<人間の場合>と無意識的(内示的)の間の等級的差異があるのではないだろうか?つまり意識の輪郭の明確さと曖昧さとの間のクラスが存在するのではないか、ということである。
 要するに他の高等動物にも言語を形作る素地はあるのだろうか?それがある一定のレヴェル以上へ発展しないのは、この原羞恥と原音楽の「合わせ」、つまり照準化作用そのものの不在が、意味内容伝達のための語彙使用(事象認識とその事象の不在時における想像、想起による表象化作用が誘発すると考えられる。)へと終ぞ至らないということではないか?もっと簡単に言えば、明確と曖昧の差に対する認識そのものが人間に言語を持たせたとも言える気がする(動物にはその差が分からない)。
 当然のことながら原羞恥とは原生命秩序としての自己防衛的対他戦略的「構え」でもあるのだから、フロイト的自己保存欲動をも喚起させるものと言えよう。それに対して「合わせる」は同一種内、集団協調、集団同化、信頼を派生させる可能態である。だから対他的羞恥、集団行動における調子外れとは、やはり原羞恥と原音楽の照準化作用によって生じるのだ、と考えられる。してみるとホージランド的知覚倫理とも言うべき想念は、言語活動そしてあらゆる語彙を含む言語は、あるいはそれを意識で支える明示性は羞恥と密接に関わっているということになる。人間の対他的羞恥感情は原羞恥と原音楽の照準化作用によって齎され、照準化作用による意識の明示性こそ言語的想念と羞恥感情を喚起する本源的な作用である。
 情報内容の他者への開示とは、実は集団(この場合最小単位を二人と考えよう。)の利害を一個体の利害よりも優先させる原羞恥の克服過程と期を一にしている。当然のことながらそこには偽情報の報告という裏切り、信頼偽装の可能性も社会学的には発生させる。しかし常習的偽装は長期的に見れば、結果論的に利己的利害においても損失を被る。そこで比較的初期段階に利他的奉仕という実践形態は定着してゆくことだろう。
 J・L・オースティンの言うようなパフォマティヴは実は全てのコンスタティヴ(彼の言う対概念)を含んでいるのだ。というのも事実報告に偽装がないことを長期的に他者へ明示し得るのなら、そのこと自体でコンスタティヴの連鎖のルティン性はそれ自体パフォマティヴであると言えるからだ。事実報告という行為それ自体もその報告者にとって被報告者の存在が事実を告げるに値する存在であるという当たり前の真実に我々を覚醒させる。

Tuesday, October 27, 2009

B論文「信仰心と無神論」第四章 関心の質量(1)

 私たちは「世界」を自分の見たいように見る。それはもともと自分の世界、つまり自分の身体と知覚能力によって世界を構築しているわけだから、それが「世界」であると認識したとしても、尚根幹の自己身体能力、つまり脳内現象と脳‐身体相互作用によってスタートさせてきたその起源に常に立ち戻ろうとするということは必定であるからだ。だから「世界」のそこここで認められる「現れ」とは、実は「世界」を再び自分の世界に引き戻しつつ見たいと潜在的に私たちが望む私たちの心の鏡なのである。
 前章において私はメタ認知の客観性はある種幻想であると言った。しかしだからこそ自然科学では相対的な自分の立ち位置を常に確認しておく必要があるのである。
 例えば脳生理学者のジェラルド・エーデルマンは「脳から心へ」においてマイクロスコピックな(顕微鏡で観察出来る)世界は、観察する主体(自分)の観察対象に対する位置を相対的に理解することが求められるが、逆にもっと壮大なスケールの、例えば宇宙全体を観察する場合、私たちは自分のいる位置をそれほど真剣に考慮に入れなくてもよい、ということを述べている。このことはミクロな世界とマクロな世界との私たちの接し方の違いによって、相対的であることそのものの絶対性を覚醒させる。つまり相対的であることを私たちに覚醒させる全存在といったものは、私たちの意識や幻想全てを発生させる場である。脳内の思惟は、言ってみればこの全存在に私たち自身を内部‐外部の境界を無化すべく「世界」と接しているインターフェイスである。
 何故私たちは「世界」を見たいように見るのだろうか?私たちの思惟自体が、「世界」の存在の認知によって発展的に齎されるとしたら、私たちが「世界」と私たちの接点を、私たち内部に巣食う欲求とか、欲求を覚知する感覚であると理解している、ということの証拠として身体の存在が考えられるのではないだろうか?
 ウィリアム・ジェームスは「純粋経験の哲学」において質量ということに拘っている。彼が使用する「素材」という語彙はこの章で私は質量として規定するものに相当する。質量は多くの哲学者の思惟の中に存在してきた。例えばカントは「目的の質量は意欲である。」と「判断力批判」で述べているし、レヴィナスは「孤独の主体の質量」という表現をする。(「時間と他者」)
 現代の生命科学者の郡司ペギオ‐幸夫は「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」で質量という概念を従来型の物理学からより開放させて、広義で柔軟性のあるものとして認識し直している。
 本章ではまずこの四人(カント、ジェームス、レヴィナス、郡司ペギオ)の主張する質量概念について考え、そこで得た認識をアンリとドーキンスの理論と突き合わせてみようと思う。
 郡司ペギオ氏は<貨幣の質量>においてバーチャルマネーの社会的事実を例にとって考えている。少し長いがそのまま引用しておこう。(講談社現代新書中、125~131ページより)
「Y うん。で、ネット世界や仮想的な計算機内部の世界で、そういった義歯の違和感<35ページ参照。著者注加入>のような、質量発見のための装置があるかってことだよね。
 まず義歯の違和感のような明確な装置はなくても、質量性が効いて、システムの変革が起こるって事例についてはどうかな。うちの大学院がこう言っているんだけど。「ネット世界では、そういったことがあり過ぎるほどある。たとえば、とてもたくさんの人が参加するオンラインゲームがあるんだけど、そのゲーム内の世界でだけ通用する貨幣があるんだ。プレイヤーたちはみんなその通貨を欲しがって、ついにはこれがヤフーオークションで現実に売られちゃった。で、まともにゲームをプレイせず、その通貨を貯めこんだ人が、現実世界でドカーンとものすごい金持ちになる、みたいなことが起こった。ゲームで世界を変えちゃう。だから結局、管理者側から通貨の売買は禁止されちゃうわけだけど。でも貨幣の使われ方が、あらかじめ想定された使い方から大きく逸脱して、システムが機能不全を起こすって意味で、これは質量の問題じゃないか」ってね。
 P いや、違うな。僕たちが議論してきた質量は、可能・実現にしろ、内包・外延にしろ、そういった区別を創り出すものが持っている質量のことだったんだよね。その素材性は区別生成に直接関与していて、その潜在する機能は、決して無関係ではない。まさにそれはマテリアルでつながっているわけだ。
 明示的素材性も潜在する機能も、マテリアルにおいて存在している。その意味で、潜在する機能は、いわゆる事実としての外部なんだ。使う人間が、状況に応じてでっちあげるものではない。描きこめる線は、「マテリアルにおいてつながっている」というところが肝心なんだ。
 そもそも、「線の中に線が描きこめるのはおかしい」なんて、マテリアルの世界に生きている僕たちが言えるはずないんだよ。線には太さがあるから、僕たちは線をこの世界で認識できるわけで、現に描けてしまえるんだ。「線」は純粋に理念的なものじゃない。たとえば実際の壁に認められる線は、太さのある影や埃のたまったヒビだし、ノートの線は太さを持つインクの線だしって具合にね。
 可能性を示すとき、線は幅を持たないと想定され、にもかかわらず、太さが事後において発見される、って言ったよね。ここで注意しなければならないのは、太さという概念が、線という道具のありようとまったく無関係にでっちあげられるんじゃないということ。太い線は、線というものが区別の道具として、この世界で、発見=構成される根底に関わって存在しているんだよ。明示的素材性と潜在する権能という対立に見えるものは、理念と現実の不可避的混同からくる、ある種の倒錯なんだよ。この倒錯は決して避けられないけどね。歯の質量ももちろん、そうさ。
 だから潜在する権能(線の場合は「太さ」)は、明らかに可能・実現や内包・外延の対を創る素材性(線の場合は「太さのない線」)と関連したものでないとあり得ない。関連しているはずなのに、あらかじめその関連は決して見逃せない。ここに顕在化した素材性と潜在するものとの関係を理解する困難さがある。
 で、その線に沿って、オンラインゲームの中の貨幣について考えてみるよ。貨幣は、ゲームの中で流通を実現する道具だよね。ということは、ゲームの中でのマクロな社会と、商品売買で"この"個別な現場と区別し、結びつける道具と言っていい。ミクロ・マクロの区別を、流通という運動を通して創りだしている。で、想定されていなかった貨幣の新しい使い道って、この場合、ゲーム内でのミクロ・マクロの区別の方法と、関わりを持っているだろうか。いないよね。新たな使い道が利用しているのは、ゲーム外部の現実世界との関係だよね。もともとゲーム内部のキャラクターとしての主体と、その外部の現実世界に生き、ゲームキャラを享受する「わたし」という二重性がある。このゲーム内・外の区別と、ゲーム内のミクロ・マクロの区別は、質量に関して関係がない。ゲーム外部の現実世界は、そりゃゲーム自体には関わっているよ。生身の人間や、計算機にエネルギーを供給するって意味での電力や。でも、ミクロ・マクロの区別生成そのものには関わっていない。
 現実の通貨の場合、この、ここという局所にある商品を定量化するから、意味がグローバルになってどこでも価値を持つ。この定量化のための紙幣を使う。だから、ミクロ・マクロの区別を創り出しつなげるエッセンスは、定量化ということにあると言えるんじゃないかな。でもその紙幣が、使ってみるとすぐぼろぼろになる、という場合、通貨はミクロ・マクロを区別し、つなげながら、これを無効化にしてるって思えるよね。グローバルに伝播する時点で擦り切れちゃうから。こういう場合なら、無効にする潜在した機能_疲弊_は潜在した質量で、これと定量化という機能とが、マテリアルにおいてつながってるというのも納得できる。
 いま問われている貨幣の質量は、もっと抽象的だよね。太い線みたいに。で、通貨は、定量の道具という形態において、マクロとつながってる。僕たちが吟味しないといけないのは、ゲーム内の通貨とネットオークションとのつながりが、定量の道具という抽象的な素材性に潜在していたのか、ということだ。
 Y ちょっと慎重に考えてみるよ。定量化という操作は対象を必要とするけど、ゲーム内貨幣では当初、その対象がゲーム内に制限されるよう、前提されていた。でも任意の商品と交換できるという性格は、本来定量化の対象を限定するものではない。ゲーム外部の貨幣を対象にして、これと交換されてもいい。問題の事態はそういうふうにみえる。とすると、それはミクロ・マクロの区別生成の前提が覆された事態、のように思える。
 君が問題にしているのは、「潜在する機能は、予見できないけれど、素材性発見(ここではミクロ・マクロの区別)にさえ直接関わる性格だからこそ、もともとあったとしか言いようがないものだ」という点だよね。ゲーム内貨幣の場合、現実の外部世界との関わりは、定量化という操作に本質的に関わっていた、と言わざるを得ないか?
 ゲーム内のあらゆる操作は、現実世界やプレイヤーを前提にしているんだから、その意味でゲーム内のあらゆる操作は、現実世界と本質的に関わっている。そりゃそうだ。でもこの関わり方は、定量という操作に固有のものではない。質量は、素材として制限を与えながら、開くもの。固有でありながら普遍なんだ。でもゲーム内貨幣が担う、隠蔽された現実との接点は、ゲーム内の任意の操作一般に言えることで固有性がない。ここに質量を見出すことは、固有性とか、質量という概念のインフレを招くだろうね。その意味で、質量じゃない、と言ったほうがいいか。
 P ゲーム内貨幣で質量というのは、たとえば単位が、単位として覆されるような場合じゃないかな。定量化には単位がいる。単位を設定すると、以前問題にした四角いタイルの設定と同じで、それ以上小さい量を扱えないよね。単位がないと数えられないけれど、単位を壊す必要がいずれ生じる。これをここでは単位のディレンマと呼ぶことにするよ。単位であるにはある大きさ持たなくちゃならないけど、ある大きさを持つことは更なる細分化を潜在させる。ただこのディレンマは後にならないと発見されない。数え上げを始めてみようという当初は、決してそんなに悪いことなんて見えない。
 で、流通している貨幣が、その単位を覆されているって例は、たとえば為替に認めることができる。外部に別な貨幣があって、別な単位がある。異なる単位が絶えずつき合わされ、調整される。単位は、他のものによって絶えず疑われ吟味されるわけだ。
 ここで重要な論点は、単位を覆すために、別な貨幣が必要とされるだろう、ってことだよね。物々交換から最も流通する商品として生まれたと貨幣の起源を考えると、徐々にグローバルに使われ安定する商品=貨幣という描像になる。でも貨幣の有する単位のディレンマという論点は、単位の転覆を要請してしまう。せっかく一元化された貨幣に対して、絶えずローカルな別な貨幣が出現し、既存の単位を覆す。僕たちは、そういった発展過程を思い描くことになる。
 つまりヴァーチャルな世界でも認められるような、潜在した貨幣の質量ってのは、単位の調整能であり、その顕在化は、ある地域でだけ有効な通貨、いわゆるローカルマネー、の出現という形をとるんじゃないか。そういった現象なら、そこに質量を見出せると思う。このときグローバルを創り、マクロ・ミクロの区別を創るという運動は、ローカルマネーによって分断され、無効にされるわけだから、まさにシステムは変質しちゃうしね。」
 まず基本的に氏は方法的には意識的か否かは定かでないが、極めて現象学的な認識論を利用している、ということである。本来ギリシャ以来のシェーマという概念に典型的な実相と仮相という区分けそのものが、プラトニズムの実体とその背後性というデコトミー(二項対立)として哲学に採用されてきたが、それは論理実践上の便宜によってなのである。その哲学対話的秩序としてのデコトミーの起源への懐疑として現象学がその拠点を持っているのなら、現代の貨幣流通システムそのものもまた、その便宜性と、その便宜性にもかかわらず、ヴァーチャルマネーにない紙幣の触感、つまり微妙な触覚的クオリアが我々をどこかで誘引している。もしグローバル性だけで貨幣が考えられるのなら、一切紙幣は廃止され、ネット上だけの貨幣になればよいが、カード利用という形に徐々に移行しつつあるものの、煙草や自販機といったものは未だにコインを利用しなければならないという、グローバル交換性と、ミニマルな触覚的クオリアの残存という矛盾を貨幣制度自体が含有していることは確かである。
 例えば企業小説を書いておられる幸田真音氏はテレビの経済番組で指摘されていたが、日本人のバイヤーとは総じて商品そのものではなく、どの店舗で商品を購入するかという、従業員や店舗そのものの信用という規準でショッピングするのに対して、欧米では完全に商品の優劣で、店舗や従業員の接客マナーというような要因は殆ど問題にしないと言う。つまりここで問題なのは三番目の太字部分である。相対規準として当初はその普遍性と合理性を追求するために考案され設定されたある単位が、その単位を利用する民族の行為選択的傾向性を反映し、いつしかその民族的性格と相容れないそれ以外の人々のための新しい規準が要求され、単位毎にその単位の利用者に固有の性格を浮かび上がらせるという事態が現代社会、あるいは古代から延々と繰り返されてきた日本を始め文明諸国の歴史でもある、ということには、ある意味では現代社会に根付く古代的性格、民族的記憶のクオリアの相違を物語ってはいないだろうか?(欧米から見た日本市場の魅力如何とか、日本経済とか円そのものの国際的性格)つまり株式売買に関してでも、恐らく日本人の投資家や投機家たちの行為選択は微妙に欧米流と異なっている可能性が十分にある、ということだ。
 つまり郡司ペギオ氏の考える質量とは、要するに一切の余分なクオリアを排除した積りが、かつて茂木健一郎氏がクオリアという概念に目覚めた理由として挙げておられた電車のガタンゴトンという音と揺れそのものは、かつて騒音の酷かった新幹線だけではなく今日ファジー理論その他によってクッションと緩衝の効いた快適な丁度高層ビルのエレベーターのような音と揺れのクオリアに改良されてきているが、そのエレベーターのような感じさえある意味ではクオリアである、というような意味で便宜性と目的性の前で極力排除した筈の余剰が、例えば郡司ペギオ氏の指摘のように、思わぬところで紙幣の肌触りという質量として温存されてしまう、という物質的触感感知能力が我々にある限り、我々の身体が感知する運命的クオリアを共感‐違和感というレヴェルでの感知能力に還元して考える可能性を群司ペギオ氏は示唆しているし、それこそドーキンスの指摘する選好性の遺伝子(第七章において詳述する。)という命題と同一の主張が垣間見える。
 序に郡司ペギオ氏(氏については再び結論で無神論と信仰心の共通して立つ現代的問題において詳細に取り上げる積りである。)的なものの見方を採用して暫く考えてみよう。例えば人生について。
 人生を「絵を描く行為」に喩えてみよう。
 パレットはあなたの生活を取り巻く空間であるとしよう。するとアトリエは世界となる。勿論本論の言うところの「世界」であり、それはあなたの知る世界である。実際の世界を「世界」と言うと私は言ったが、それは実際にこうある筈だというあなたの知に依存するので、実際の世界に対する「あなたの世界」と言った方がよい。しかしそれを掴む前にあなたはあなたの身体から世界を観察出来るという状態を得ているので、その世界はあなたの世界である。それはあなたの生きる意志、自我の目覚めと共に既に獲得されているが、やがてあなたは公的な世界というものを他者の存在に対する認知と共に自覚する。その世界が「世界」であり、それはあなたの知のありようによってもこれからも変化し続けるので「あなたの世界」、しかも取り敢えず「今のあなたの世界」と言ってもよい。
 さてキャンバスの平面、あるいは画用紙の画面は、あなたにとってあなたの人生の経験である。そしてそこで描くあなたの絵があなたの思想であり、行動であり、対世界に対するあなたの考え、感情、幸福感の全てである。そしてあなたの傍らには常に絵を描き続けるための絵の具が用意されており、それはあなたにとってあなたの人生における未来での可能性である。
 さて絵を描くあなたは一本の線を引く。その線は、定規を使って引く直線かも知れないし、フリーハンドで直線的に引こうとする線かも知れないし、定規で引いた直線の下書きに沿って引くフリーハンドの線かも知れないし、下書きに沿って定規を再び使って引く線かも知れない。同じ線であり、同じ直線的志向であっても、それらは幾分ずつか異なる性質を帯びている。つまりそれがあなたが取る人生の行動、態度、他者へ示される発話といったもの、つまり言動の全ての性質である。
 例えば一枚の絵に引かれた線の性質が微妙に異なれば絵全体のイメージががらりと変わる。そのように<人間の採る些細な行動の一つがその後のある程度人生の方向を決定づける>ことというのはあることである。それは勿論いい意味でもそうだし、悪い意味でもそうである。成功した者はそれをステップにどんどんもっといい人生が開けてくる可能性もあるし、そうではなくまずい結果に陥って生きる気力を失うこともあるかも知れない。しかし成功とそれに続く幸運が凋落の兆しであることもあるし、逆に一回の大失敗がその後の人生に福を齎すこともあるし、いずれもその逆であることもあり得る。
 何かよくないことがあると、いつまでもくよくよ悩む者もいれば、そうではないタイプもあるだろうが、そのいずれが最終的にいい結果を生むかどうかは分からない。と言うのもいつまでもくよくよ悩むタイプは、すぐ次の行動に移らなければいけない場合には逆効果であるが、大望を抱く者にとってある程度長期間悩むことだって必要かも知れないからである。悩んで悩んで悩み抜いたからこそ困難が打開することだってあるし、逆に何も悩まなかったからいい結果を生み出すこともあるだろう。つまりケース毎に異なったその後の展開、あるいは対処するための異なった方法が求められるから、一律にこういう場合の対処法はこうである、と断言出来ないのである。つまり決定とか真理といったものは漠然とした状況理解からはなされ得ない。つまり決定には色々な事態が考えられるが、例えば説明も理解したことに対しての他者に対する理解を求めるためにすることであるし、法則的理解、例えばある事象を何らかの一般化された法則の下に理解することもそうであるが、そういうものに関して「そういう場合には~である。」と説明すること、あるいはそういうものとして自分で理解すること双方とも、実は極めてそのケース毎に固有の事情を考慮しなければそう簡単にそのように理解や説明を行えるようには判断することなど出来ないのである。つまり常に正確な判断(それ自体一つの決定である。)をするためには、あらゆる厳密なその状況下に発生する付帯的条件を考慮しなければならないということである。つまりいい決定、適切な理解、判断といったものはその決定されるべき何らかの問題、理解されるべき対象となる事実、判断すべきミステリアスな状況に対して、より克明な調査、より詳細な手続きを必要とするということである。もし瞬時にいい判断が出来たのだとしたら、それは日頃の注意とか、配慮が功を奏したと言える。
 それは推論において何らかの結論を下す時にも適用出来る。つまりある推定を下す時、かなり綿密に必要とされるのは詳細なデータである。詳細なデータそのものが条件づけられるということであり、そのような詳細なデータのないところでは「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」という判断しか下せないということである。
 例えば水商売の店で遊ぶ時、私たちは果たしてその店で出されるメニューそのものの価格だけで全ての店の価値判断を下して良いものだろうか?例えば水商売の店では何らかの世間話をすることが多く、要するにそういう話相手をするということもまた勘定の際に重要な価格決定の要因になっているのだ。しかも私たちがそういう店に行く時、明らかにメニューとか味といったことだけを行く気持ちになる基準として設定しているだろうか?ある意味ではその店のマスターの気性とか切符といったものをどこかで判断基準にしていると言えないだろうか?それは何らかの行動を意思決定させる判断の際の合理化が一律なものではなく、もっと複雑な人間心理に根差したものであることを物語っている。
 それは友人を選ぶ基準、よく買い物をする店を選ぶ基準、よく買う服のタイプを選ぶ基準といった全てに適用出来る価値判断の問題である。
 そもそもある行動を採る時、その行動を採ったとしてもそれまでの人生の何も変えることには繋がらないだろうというような場合、我々は一々その行動の意味について思案したりしない。例えば卑近な例であるが、それまで買ったことのない色調の服を買う時、それなりの決心というものが要る。つまりそれは日常の中で慣れきった日常的惰性を打破しようという試みがある。例えば友人を選ぶ時、こういうタイプの人であるなら大丈夫である、つまり間違いはないと確信出来ないタイプの人を友人に選ぶ時、それなりの決心というものが必要であろう。あるいは行き慣れた水商売の店を今日は行くのを止して、一度も来たことのない店に入店するということもある意味ではある程度の決心が必要である。つまりそれは日常的な慣れに随順した行動パターンを変えてみようという試みであり、その際にはある程度のギャンブル的感性が要求される。未知なことに対する挑戦がある。
 しかし新しい発見をしながら、それを日常的な慣用性に転化することを可能性として認識することが人間に出来るのは、ある意味では先験的に人間の脳にそのような新しいものの中に今まで見たことがあり、その見たものが実に印象的であった、ということを再発見し、記憶から蘇らせることが出来るからであり、それはある価値判断的な意味でも、クオリア的な感受という意味でも、印象的であるということを自己に決定的なものにする作用が脳にある証拠でもある。
 アンリは印象という言葉を「受肉」において多く使用している。これはドーキンスが「ブラインド・ウォッチメーカー」におい8章の爆発と螺旋で述べている選好性の遺伝子という考え方と極めて共通性が多いと思われる。そのことを触れるためにまずアンリの述べる印象というものがどういうことを指すのか踏まえておこう。
 アンリは「現出の本質」(このテクストは他では「顕現の本質」と訳されていることが多いが、本論では翻訳本のタイトル通りこのタイトルで示すことにする。)において印象という語彙を使用していない。しかしその後カンディンスキー論として「見えないものを見る」を書いているので、その時期にあるいは印象という言葉を後期の哲学で使用する素地が作られたのかも知れないが、今は未だデータ不足なので、本論を書きながらその真偽を確かめられるようにしたい、と思う。(メルロ・ポンティーも印象という語彙を使用しているが、彼については第五章で詳しく論じる。)
 ともあれアンリが印象という言葉を使用することになるその起源として私が直観したその「見えないものを見る」における論述は現代脳科学の最前線から顧みる人間の言語能力と、絵画芸術理解能力が極めて類似した人間の脳活動であることを示唆するアンリの記述を引用しておこう。
「何年かのち、1914年の「或る講演のための草稿より〔ケルンでの講演〕」(ただしこの講演は実際に行われたものではまったくない)でなされた言明には、いかなる疑問の余地もない。「何を欲するかということのほうがそのために必要な『いかに』という方法を見出すよりは、はるかによくわかるものである。」したがって、絵の内容とその諸方法(内容との関係からは、カンディンスキーが内容の「具体化」ないしは「フォルム」と呼んでいる諸方法)との間の分離がはっきりと定着したとき、諸方法に対する内容の優位がすこぶる鮮明になる。こうした優位が歴史的な意味を持つ場合があるのは、その射程が存在論のレベルに属するということにもっぱら由来している。「それゆえ作品は、人間の感覚に利用できるようにする、精神による具体化以前には、抽象的に存在するものである」と、同じテキストの少し先のほうでいいそえられている。もともと、「抽象的」な作品の内容の「具体化」とは、「人間の感覚に作品を利用できるようにすること」であり、すなわちあらゆる絵画の諸方法を構成する色やフォルムであるということ、このことによって、ずっと以前から目に見えるものの領域、感覚の領域となっていた領域における目に見えないものの先行性がはっきりと確立されるのである。_このことによってカンディンスキーの抽象に固有の意味が与えられるのだ。」(「見えないものを見る」青木研二訳、法政大学出版局刊、24ページより)
 つまりこのアンリの記述の示すところは、私たちが絵画が「素晴らしい」とか「美しい」とか感じることが出来るのは、言語が一体何なのかが説明出来なくても、言語を利用して他者とコミュニケーションをする能力が人間の脳には備わっているのと同様、それを言葉で説明することは出来ないが、何故かそのような感情を誘発し、惹かれるという、つまり絵画そのものの色彩論的な、形態論的なクオリアを感受する能力が人間の脳には備わっており、その能力を引き出し、「こういう領域にまで人間は絵画を通したクオリア的な感受をすることが出来る」ということを証明するために画家は新たな美の領域に挑むのだ、ということが理解出来るからだ。しかもカンディンスキーはその絵画という「世界」を通した新たな美の領域、と言うよりも今までそれを美しいと感受することが出来た筈なのに、気がつかないできていた領域を再発見させるような、つまりその人間の「絵画的クオリア感受の未知の可能性」そのものをその絵画理念、そういう<「見えない領域」を「見せさせる」ようにする>ことで作品を提示し実践したという解釈として読むことが出来る。
 ミシェル・アンリはメルロ・ポンティーが発表し、一世を風靡した「知覚の現象学」と違って、最初に「身体の哲学と現象学‐ビラン存在論の試論」を発表した時、あまりにも時代を先取りし過ぎていて、殆ど理解者を得ることが出来なかったという「現象学と見えないもの」の著者である庭田茂吉氏の指摘になるほどと頷ける気がしたのだ。
 何故ポンティーには理解しやすさがあり、アンリにはそうでなさが感じられるのか、というと、それは端的にキリスト教倫理と、神の存在論的視点である。
 日本人にメルロ・ポンティーがどこか理解しやすいと感じられたこととは、端的にその論理的相互依存性の故である。そのことに関して山形頼洋氏は「フッサールを学ぶ人のために」(新田義弘編)の中の「V現象学の今後の課題と新たな展開方法」における3ミシェル・アンリ‐メルロ・ポンティーの知覚の身体を超えて‐において、そのポンティー流の(可換性が氏に言わせると)運動のない知覚本位の身体によって語られているという問題点をアンリは克服しようとしていると考えている。
 そのアンリの考えていた方向を示す前に西欧哲学がどのような日本人にとっての理解し難さを携えているかを少し述べてみよう。
 現代脳科学者の中では茂木健一郎氏は明らかに認知‐感情というレヴェルで脳を捉えている。だからこそ氏がよく使用するベルグソンの言うエラン・ヴィタールの持つニュアンスに意味が出てくるのだ。
 しかし一方脳とは身体あっての脳でもある。脳は脳だけで進化してきたわけではない。その点において同じ脳科学者の中でも池谷裕二氏は出色である。氏は寧ろ身体‐欲望というレヴェルから脳を捉えている。すると当然運動という観念も重要なものとして取り扱われる。そして運動機能という考え方には当然進化論的な視点も必要となる。
 動物にも意識を認めるような発言をされている茂木氏と対極にあって池谷氏や前野隆司氏は明らかに動物に意識を認めていない。私はと言うと動物には言語がないから(人間が使用するようなタイプのレファレンス機能を有する言語は動物にはない。)、当然人間の意識の持つ明示性は動物にはないだろう。しかし内示的な意味でなら、動物にも意識を認めてもよいと考えている。ここら辺はジョセフ・ルドゥーの「シナプスは人格を作る」(紀伊国屋書店刊)にも詳しく触れられている。
 さてそれ以外の点では私は池谷氏の身体‐欲望的脳解釈に大きな魅力を感じている。と言うのも私自身はフランスには行ったことがないのだが、実際ゴチック建築などに見られる教会における光の摂取の仕方が、神の視点=光という観念が日本人には理解し難いところがあることもまた確かである。そして身体‐欲望の図式の中で身体運動というものを捉える時、西欧人と日本人との間には明らかに生活様式、建築様式、都市像形式が異なる以上、異なった部分が出てくることもまた確かである。
 建築的には壁と開閉扉と床と天井の文化である「椅子に腰掛ける文化」である西欧と、畳、襖、障子、引き戸といった衝立文化である「座る文化」である日本、そしてそれら全ては実は一神教的な神と人間の距離、そしてそれは向こうでは絶対的距離を形成し、絶対空間を構成するからこそそれが建築にも反映されている。それは心理的にもそうだし、それが身体表現であるところの建築空間、都市空間においてもそうである。つまり身体論を考える時我々は精神文化としての宗教倫理と宗教都市文化と、建築構造や都市構造が人間に与える影響、つまり生活様式の差が生じさせる習慣から来る身体構造という観点から、脳科学において分化されている認知‐感情というレヴェルと身体‐欲望というレヴェルをどこかで密接に絡み合っているものとして認識する必要がある、と思われるのである。
 つまり壁と扉の遮蔽空間とは、日本式の衝立掛け軸空間の持つ(美術様式でも壁画、天井画と襖絵、あるいは掛け軸という違いとなって現れる。最も伽藍の天井画というものも例外的には存在するが、絵画空間が他の空間と独立していることをモットーとしている作品世界では概ね日本の絵画はそのような傾向にはない。)自他認識は当然異なる。例えばレヴィナス哲学に顕著なように、他者性というものは自他認識が明確に示される西欧文化では明らかに畏怖の対象としての他性というものが考えられる。しかし翻って日本では親しみのある者と疎遠な者という二項対立が用意されている。
 少なくとも責任倫理が社会制度と密接にかかわってきている西欧文化では親しい者と疎遠な者という二項は成立し難いであろう。それは恐らくもっと直截な自己と他者(たとえ家族であっても他者である。)の差というものは歴然としている。これは大勢の論客が主張していることだが、日本では赤ん坊に対してスキンシップを重視するが、アメリカでは特にそれ以上に対話を重視すると言う。ここにも対峙、対自という観念の確固とした西欧と日本の精神文化の違いが横たわっている。
 つまり端的に日本文化とは同居的共存であり、自然は親しむべきものである。これは鈴木大拙的に言えば平安の安泰的生活が生み出した精神文化かも知れない。それに対して西欧では自然とは対峙すべきものなのだ。だからこそ自然は客体であり、対象なのだ。日本人は死んで自然に還ると捉えるところがある(尤もそれはある程度年配にならないと理解出来ない心理かも知れないし、事実私には今は未だそこまでの心境にはなれない。)が、西欧では死後の世界は有神論的にはあるとされるし、無神論では絶対無である。何故なら西欧では自然は親しむべきものではなく、克服すべき対象だからである。それは身体論的な観念が自然の脅威と共に成立してきたということと、人的な災害、つまり犯罪や暴力、殺戮の民族国家史に見られるということの双方に起因している。要するに自然環境の性質の違いが、自然と人間の境界を曖昧化する日本と、自然と人間を対立させる西欧との文化に差を齎し、その結果死生観にも差が生じるということなのだろう。
 纏めよう。
 西欧倫理には自他区別が明確にされる。しかし日本文化では自他の区別は曖昧であり、他者との絶対距離もなければ、神との絶対距離もなく、神がそもそも非在で、他者との距離は相対である。そして自然とは一体である。それは絵画空間が水墨画の世界のように山水画の世界のように茫漠としていることからも歴然としている。それは視覚芸術においてだけではなく、精神的にそうである。美術の視覚的顕現とは、実は精神的差異が現出しやすい場でもあるのだ。恐らくそれは食文化でもそうだし、性のあり方(あるいは性行為の仕方)でもそうなのだ、と私は考えている。
 尤も昨今の日本人にとってプライヴァシーとか個人主義とかの考えは確かに変化してきており、西欧的家屋も増え、以前のような意味での西欧社会と日本の相違とはかなり様相が異なってきているということも確かである。つまり身体‐行動論的である意味と精神‐自我論的な意味での西欧社会と日本社会の相違は徐々に薄れつつあるかも知れない。しかし恐らくその薄れつつあるという現実に対して「尤もである」という考えと「仕方ない」という考えと「不安だ」という考えが入り混じっているという事実において、それは西欧社会と決然と異なると言えるのではないだろうか?つまり日本人にとってキリスト教もそれなりに最早異分子の考えではない。しかし形だけクリスマスをすることにどれほどの私たちの精神に根差したキリスト教文化が介在しているだろうか?本質的に日本人に西欧流の神の概念や宗教倫理が理解されているとは言い難いと私は考えている。
 しかしそれでも他者に対する怖れというものは羞恥と関係がある(と言うより表裏一体のものである。)という点において、私は究極の人間としての存在認識において西欧と日本の他者観というものはどこかで通底していると考えているのだ。確かに日本人は世界を、風景を対象化することをし始めたのは、西欧哲学的な意味合いからは明治期以降である。しかし対象化の方法が西欧絵画の遠近法に見られるような意味で一点透視図法的、ユークリッド幾何空間、デカルト座標空間的ではなかっただけのことであり、日本人なりに独自の対象化方法があったのだろう、と私は考えている。しかしそのことを主軸には本論では展開させない。そのことに関してはいずれ取り組みたいと考えている。そしてその将来の課題に関する伏線として本論でも時々そのことについては触れることとしよう。
 つまり何故アンリの哲学がポンティーに比べると理解が遅れたかという理由は一重にこの精神文化としての西欧宗教倫理とクロスする部分から哲学を考えることへと到達したアンリの資質にもある。日本人にとっても理解しやすい自然と人間の交換の図式=相互補完性というポンティーの哲学的解決法がどこかでかつて「日本人に理解しやすいという幻想」を与えていたのだろう。しかしそれはある面では幻想である。何故ならメルロ・ポンティーはことあるごとに受肉という観念を使用しているし、解決法として相互補完性という観念に到達したとしても、そのプロセスは日本人的世俗意識とは根底から異なっている。勿論ポンティーは決して有神論的な立場を鮮明にしているということはないが、かと言って明確に無神論を宣言していもしない。いや精神文化として恐らく無神論を標榜しているリチャード・ドーキンスとも同じようにキリスト教文化的幼児体験の持ち主であることには変わりない。 
 例えばフランス哲学者であるポール・リクールは欲求と断念という図式で生を捉えている節がある。そしてこの欲求ということに関してベルグソンの純粋持続もその起源に控えているが、それ以前にはメーヌ・ド・ビランがいる。彼はカントよりも四十二歳若いが、ショーペンハウエルより四十二歳年長者である。要するに世代的にはカントから影響を受け、ショーペンハウエルに影響を与えるくらいの人である。そしてアンリのテクストである「身体の哲学と現象学」こそこの人に対するオマージュである。ビランに対する認識は未だ初期論文である「現出の本質」では触れられていない。しかし恐らく「現出の本質」のテクスト的性格上、そのビランとの出会いそのものは必然的な性質として決定されていたようにも私には思われる。(ビランとアンリのことに関しては第六章で詳しく触れる。)
 しかし私は断念という心的作用は無意識のレヴェルでも、決意のレヴェルでも、一定の未来に対する実現可能性に対する受容である気がするのだ。と言うのも何かをなすということはあらゆる行為可能性の中から一つの選び出すことであり、決心とはそのようなある行為を選択し、他の全ての実現可能な行為に対する断念だからである。例えば便意を催したら、一も二もなくトイレへと駆け込む、というような意味で、あるいはトラックが前方より走ってきている時、横断歩道が赤なのに車が来ないと思って悠々と歩いていた時、咄嗟に身をよけるようにして向こう側に渡りきるか、途中で引き返してさっきまでいた歩道に戻るかというようなものは決意のレヴェルではない。それは条件反射的身体行動である。
 しかし明日行こうと思っていた野球が雨天で中止となり、翌日予定を変更して近場の温泉に行こうと決意したはよいが、家族中で候補に上がっている二箇所のどちらかに行くことに決めた時、他の家族の意見を尊重して選択したが、本当は自分が行きたかったもう一箇所の候補地に行くことを断念することであるような意味で、日常の諸々の経験的事実から、人生全体の親しく交流する友人の選択に至るまで私たちの人生は、ある意味では選択してそれを実行したり、交流したり、仕事をしたりしながら、実は裏を返せば選び取られなかった幾多の行為を断念し、選ばれなかった数多くの人々と疎遠になり、別れを告げ、就かなかった多くの仕事においてひょっとしたらその職業に就いていたら成功したかも知れない(あるいは今よりももっと悲惨であったかも知れない、あるいは今とそう変わりなかったかも知れない)幾多の別の職業に就いていたらなっていたであろう自分の人生との別れと断念でもあるのである。
 しかしそういったものの中では明らかに自分でも納得のいく説明が自分に対しては勿論、人から聞かれても答えられるものもあるかと思えば、どんなに真剣に考えたり、思い出したりしても、未だにその理由がよく分からないもの(ただがむしゃらに生きてきたような感じが自分の人生に対しての印象として抱かれる人にとっては、全てを説明することが難しい。そして今の自分が大きな挫折を味わった時、人間はこうでよかったのだろうか、などと思ったりする。)、つまり自分に対しても、人に聞かれても説明出来ず、正確に返答することが難しい人生の出来事というものはあるだろう。そしてその中でも「あの時の決断は正しかった。」と心底思えることから、「こういうやり方もあったかも知れない。」と多少未練が残るものもあるかと思えば、そう人生全体に後悔していない人には多くはないかも知れないが、「ああしておくべきだったと今でも悔やまれる。」ということも多少あるかも知れない。
 しかしそれはある程度自分の努力とか心掛け次第でどうにかなる筈だったと思えることに対する後悔であり、過去に対して後悔出来る精神状態というのは、ある意味では未だ将来に対して可能性を残しているという条件でしか成り立ちようもない思惟である。例えば自分の心掛けだけではどうしようもない不可抗力というものが人生には多々ある。そこで外部からの圧力のような出来事に対しては、その事態にどのように対処したのか、という事実関係において初めて後悔が成立するから、ある程度、それがかなり悲惨な体験的事実であってさえ、後悔の念というものは限定される。また自分にとって愛する家族や友人を失ったことが自分のしたことを契機となっているような場合、我々はそれが仮に自分の過失ではない場合でさえ自分を責めることに繋がることはある。そのように自分の過失として結びつけることをするのが脳である。
 関心の質量とはそのようにある出来事や事実関係に対してどのように振り返るかという様相を決定する力がある。自分に対して自信が持てるような精神状態の時には自分を責めるようなことはすまいと決意しているから、自分の過失の範囲を拡張するようなことはしないだろう。しかし何か自分に対して負い目がある時には悲観的に考えることで自分に中の負い目を振り払おうとするから、そのことをつい意識してしまい、欝的傾向の性格の人は当然自虐的になる傾向にある。
 しかし人間が後悔の念を持つことが出来るのは、実は私たちが自分自身の可能性を常に信じているからである。例えば何かが起きた時、巧く対処しきれなかった自分を責めるのは、ある意味では本来自分にはもっとこういういい方法が今なら思いつくのに、それがその時には精神的に狼狽して出来なかった、自分としたことが、と考えるわけだ。その時にだって本来なら出来た筈だ、と。しかし実際その時にそのように狼狽して冷静な判断が下せなかったというのは事実であり、それはある意味ではその時点ではそのように出来ない、それだけの判断力としての技量が備わっていなかったのである。しかし人間は本来の自分というものをどこかで想定する。もっと出来る筈だ、と。
 そしてそのような認識は自分の中の可能性に対して諦めていないということを意味する。つまり人間が後悔するという心的状態を持つのは、その後悔してしまう自分というものがしくじった自分よりも高次の判断の出来る自分であるという認識が無意識の内にでも介在しているからである。しかし実際そうすることがその時には出来なかったということは、その時の実力はそこまで行っていなかったのだが、例えばフィギュアの選手が何回転半とかが出来なかった時、練習では巧く出来たのに、と後悔するが、実際ある技術をこなすことが数回してその内一二回だけ練習の時出来るくらいでは、その一回か二回の成功体験を自分の実力であると見做すただの楽観主義からくる判断でしかないのに。
 例えばある青年が生まれて初めてラスヴェガスでルーレットやスロットマシーンをやって大儲けをしたとしよう。それは何の気なしにカジノに入って儲ける積りなど一切持たずに試して得た一生に一回の偶然的な幸運であるビギナーズラックでしかなかったのだ。しかし彼はギャンブルとはいつもそういう風に巧くいくものだ、と考えてしまい、もう一度行ってその時得た全財産を賭けて、結局全て有り金を摩ってしまったとしよう。そういうことというのはよくあることである。つまり人間はある偶然的な成功体験に釘付けになるそういう生き物なのだ。例えばある少年が一枚絵を描いてとても先生によく褒められたり、皆に才能があると言われたりしたとしよう。しかし彼はそのことで勢いづきプロの画家を目指したとしよう。しかし彼に待ち受けているのは過酷な修練の日々であろう。つまり趣味として描いた絵を褒められるのと、プロの画家として生計を立てることとの間にはおもいっきり厚い壁があるからである。つまり偶然巧くいったということがあるからこそ、それで食えるのではないかと誰しも考えるし、だからプロを目指す。しかしその試みが巧くいく者は、そうやってプロを目指した者の内ほんの一握りでしかない。偶然的な成功は成功した人を勇気づけるが、同時に、それはあくまで偶然的なことでしかない。その偶然を生み出すことを常習化するためには猛烈な訓練が必要である。だからどんなに才能溢れる者でも一日たりとも訓練を怠ったら、すぐに実力は半減する。
 纏めると人間は成功体験を糧に何かにトライする時には楽観的な気分を作り上げ、大胆なことにチャレンジ出来るが、それは「本来の自分」というものを「現実の自分」より願望的には上位に置き、それを糧に実力以上のことをトライし、だからこそ日々修練するような努力を可能にするのであるが(現状に満足すればそれ以上を目指さなくなる。)、そのような試みを可能にするのは、今以上の実力を、以前偶然にでもそのことが出来たのだから、もう一度、いや何回でも出来る筈だ、とそのように自己の可能性を信じることが出来るからなのである。それを可能性認識の能力と呼ぶことにしよう。
 しかしこの可能性認識という心的作用を我々は殆ど無意識の内に履行している。例えばそのことを哲学者の永井均氏は次のように語っている。
「自分(たち)が識別できない違いを識別できないのにもかかわらず理解できることには、だから必然性がある。自分(たち)が識別できることによって獲得した概念の適用範囲を拡張し、とりわけそれを自分(たち)自身にも遡及的に適用すること、これがわれわれの世界把握の基本的なあり方でだからである。」(「私・今・そして神」55ページより)
 この永井氏の指摘はある意味では私が第一章で自分の世界を「世界」として認識することの心的力学と全く関係のあることである。ことのことと、何故氏が自分のあとに(たち)としているか、ということについては次章で詳しく触れることとする。
 さて自分に今現在出来ること以外にも、自分には出来ることがあると考える、そしてそれを過去の偶然的な成功体験を糧に、その巧くいったことを必然化すること、常習化することの努力は、歴史上全ての科学上の発明をしてきた人間の持つ可能性認識によるものである。そしてそれは関心の質量を常に一点に収斂させてきた、という事実によって我々は理解することが出来る。そのことをエマニュエル・レヴィナスは次のように述べている。(「時間と他者」原田佳彦訳、法政大学出版局)
「孤独を主体の質量_主体の自己自身への拘束である質量性_に再び結びつけることによって、われわれは、世界とその世界のなかでのわれわれの実存とが、いかなる意味で、主体が自分自身に対して重みとなっているその重みを乗り越えるための、その質量性を乗り越えるための、すなわち、自己と自我とのあいだの羈絆を断ち切るための、主体の基本的な態度となるのか、ということを理解し得るのである。」(日常生活と救済より41ページ)
「日常的実存のなかで、世界のなかで、主体の物質的構造は、ある程度、乗り越えられている。自我と自己のあいだに、隔たりが生じるのである。自己同一的な主体は、直接的に〔無媒介的に〕自己へと回帰するわけではない。(中略)世界は道具の体系である以前に糧の体系である、ということである。世界の内での人間の生は、世界を満たしている対象〔事物〕の彼方に到るということはない。われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的性はまさにその匂いに限定されるのである。散歩することは、健康のためにではなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存_自己の外にあること_ということであり、しかも、それは対象によって限定される。
 享受〔享楽〕ということによって特徴づけることができる、対象との関係。あらゆる享受は、存在することのその仕方〔様態〕であるが、しかしまた、感覚、すなわち、光と認識でもある。対象の吸収であり、しかも、対象に対する隔たり〔距離〕。享受することには、本質的に、知が、明るさが属している。そのことによって、差し出された糧を前にした主体は、空間〔世界〕の内に、その主体にとって実存するために必要なあらゆる対象から距離をおいて、存在するのである。位相転換〔基体〕の純然たる自己同一性のうちでは、主体はそれ自身のなかで足掻いているのにひきかえ、世界のうちでは、自己への回帰ではなくして、そこには「存在するために必要なあらゆるものとの関係」があるのだ。主体は、それ自身から切り離されている。光とは、そのような可能性の条件なのである。その意味では、われわれの日常的な生はすでに、主体がそれを通して自己を実現するところの当初の質量性から開放されるそのあり方〔様態〕なのだ。それはすでに、自己の忘却ということを含んでいる。「地の糧」なる道徳は、最初の〔最高の〕道徳である。最初の自己犠牲。最後の、ではないにしても、しかし、そこを通過しなければならないのである。」(世界のよる救済_糧より43~44ページ)
「空間の超越は、それが出発点へと立ち戻ることのない超越に基づいているのでない限り、現実的なものとして確保されることはあり得ないだろう。生は、質量との闘いのなかで、その日常的超越がある一点に、常に同じ一点に立ち戻ることを妨げるような出来事に出会うのでない限り、贖いへの道となることはあり得ないだろう。光の超越を支え、外的世界に現実的な外在性を付与するような超越を見出すためには、享受のなかに光が与えられる具体的な状況に、すなわち、物質的実存に再び立ち戻らなければならないのである。」(光と理性の超越より47ページ)
 レヴィナスの哲学は含蓄も深いし、色々に解釈出来るような豊饒性を有しているが、とりわけ光とか超越という概念ではアンリより先に多くを語っている。そしてここで質量が問題とされているが、章の題ともなっている糧が質量と対応してもいる。最初の引用箇所のものはまさに本章のテーマに相応しい。と言うのも自己とは「現実の自分」であり、自我とは「本来の自分」という欲求的自我による理想的「こうであらねばならない自分」である。三番目の引用の前でレヴィナスは「すべてをその普遍性のうちに包括することによって、理性は再び孤独のうちに自分自身を見出すのである。独我論〔唯我論〕は、錯誤でも詭弁でもない。」と述べているが、実際まず「自分」というこの固有のあり方から出発しない哲学というものはない。私はそこに一般的な自然科学と哲学の相違を見るのであるが、これは結論で詳しく述べるが、実際自然科学でさえある意味では「自分」のあり方への疑問なしには追求出来ないと、私は考えている。
 郡司ペギオは私たちがものを食べる時殆ど歯というものの質量を意識する必要がないからこそ、ある意味では食を文化として享受出来るし、また味わうことが出来るのだが、例えば歯を悪くして歯を抜いて義歯を使用する時、それに慣れない内は、まさに歯そのものの存在感という質量に悩まされるという例を挙げて、質量というものが意外と生活上の多くの場面で発見出来るのに、日常的には忘れ去っているものが多いことを指摘しているが、食べる時我々は一々歯に感謝しないが、実際は私たちは歯によって多くを救われている。何かに耐える時私たちは歯を食い縛ると言うが、まさに歯で咀嚼することによって食物を栄養に変えている胃や肝臓を助けているのだ。そして食そのものが文化であるような意味で、花の香りに引き寄せられる心地良さというものを脳に作り出すクオリア的な認知そのものが私たちの文化を作り上げてきた当のものである。それは色々なものを同時に見ることが出来、色々なものを同時に嗅ぐことが出来るのに、特に必要なものを選び取り、それだけに意識を集中させることが出来るという能力こそが私たちを文明を構築する高次の知性を持った生命へと押し上げたのだ。
 人間は脳生理学者である池谷裕二氏の指摘(「進化しすぎた脳」朝日出版局刊)によれば、何もかも瞬時に正確に記憶出来ないからこそ、進化を遂げたと考えている。と言うのもよくテレビで放映されるが、数字を大きさ順に瞬時に押したりすることは、チンパンジーの方がずっと人間より仕込めば得意である。しかしそういうことを人間が瞬時に出来ないという欠落こそが、「何故瞬時に出来ないのだろうか」と疑問を抱くことを強い、やがて数学や論理学、あるいは瞬時に何もかも記憶させるコンピュータを発明させることに繋がったのだ。瞬時にそのことを何もかも正確に記憶出来たとしたら、寧ろその他多くの不測の事態に対処することを阻むこととなるだろう。つまり人間はチンパンジーのように容易に瞬時の記憶力、反射神経を喪失したからこそ、努力すること、他の方策を「考える」能力を得たのだ。
 瞬時に何もかも正確に他の哺乳類よりも記憶出来ないという欠落は、ある意味ではその場面において瞬時に自分にとって必要なことだけをピックアップして記憶するという習性を我々に齎したのだろう。つまり印象に残ったこと(印象という概念はレヴィナスには出てこないが、アンリにとっては中期以降重要な概念である。そのことは詳述する。)のみを記憶するような(それは夢によっても齎されているのだが)習性を本能的に身に付けたという事実の意味するところは大きい。これは「喪失と獲得」で心理学者であるニコラス・ハンフリー(ドーキンスの友人で、社会生物学の考えを汲んだ学者。)も指摘しているが、正確な記憶を阻まれたからこそ人間はその対象の意味を範疇的に、あるいはレファレンス機能を発現させながら、体系化する能力を進化させたのだ。このことをハンフリーは自閉症の少女ナディア(ノッティンガム生まれ。)が、瞬時にその場面を正確に記憶する能力が卓抜なために、芸術的才能(とりわけ具象的技術)、とりわけ形態的把握を瞬時にデッサンする特異な能力があるにもかかわらず、その事実とのトレードオフ(何かの形質とか能力の獲得が、別の形質とか能力の喪失を意味することをトレードオフと言う。)として文字を記憶することが通常よりも困難だったことを例に挙げて示している。
 レヴィナスが「世界の内でわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。」と述べていることとは、記憶力の曖昧さを補強する意味合いから全ての事象(事物や現象)を把握するために、対象化するというカテゴリー化とレファレンス対応能力が人間に備わっているという事実を日常的実存の場面から抜き出して語っていると捉えることが出来る。対象に対する隔たり〔距離〕までも「考えること」のための糧とすること、つまり世界を自分の生を意味づけるための道具とするという発想こそが、レヴィナスが多くの受難を得てきたユダヤ民族の一人である哲学者としての受苦克服方法だったのかも知れない。
 <主体はそれ自身のなかで足掻いているのにひきかえ、世界のうちでは、自己への回帰ではなくして、そこには「存在するために必要なあらゆるものとの関係」があ>り、<主体が自分自身に対して重みとなっているその重みを乗り越えるための、その質量性を乗り越えるための、すなわち、自己と自我とのあいだの羈絆を断ち切る>ために質量という概念が、言い換えれば糧という概念が我々には必要なのである。それは不可避的に私たちが「現実の自分」と「本来の自分」を持つ、寧ろ前者をある場面では蔑ろに出来るからこそ思い切ったことも出来るのであり、かつそのことで自惚れ、驕るからこそその事実に向き合い自らを戒めるのだが、その戒める心的作用さえ、「本来の自分」という道を踏み外した状態の人間が正常だった頃のことを、まさに脳科学で成功体験への追慕が精神的にいい状態を作り出す(このことは茂木健一郎氏の著作「感動する脳」で詳述されている。)ような無意識の脳作用的意味合いで思い出すからこそ我々は向上出来るし、物事を反省し得るのである。
 三番目の引用においてレヴィナスが「生は、質量との闘いのなかで、その日常的超越がある一点に、常に同じ一点に立ち戻ることを妨げるような出来事に出会うのでない限り、贖いへの道となることはあり得ない」と述べているのは、私の解釈ではある出来事(事件)や他者との出会いといったことである。それは是非両面に言えることである。つまり素晴らしいことをなし得た時、「どうしてもっと早くこういうことが出来なかったのだろう、もっと早くこういうことがで出来ることが分かっていたのなら、していたのに。」とよく我々は考える。しかし実際それは幾つかの回り道や失敗を繰り返したから達成し得たのかも知れないのだ。後悔をすることというのはある幸運に見舞われた時も今の例で分かるが、当然不運に見舞われた時も同じである。「こんな悲惨な事故に遭うのが分かっていれば、無理して今日雨天なのに旅行に来るんじゃなかった。」と高速道路でのスリップ事故に遭いバスに同乗した家族を一人失った人はそう嘆くだろう。つまり人生は同じことの反復であるのなら、こんなに楽なことはないのに、実際には酷く紆余曲折している上、決して同じことは起こらない。先述の賭博で勝った青年が二度同じ幸運に見舞われないようにである。
 レヴィナスと郡司ペギオに関する質量の問題は少しこの章をお読みになられる読者にも理解してこられたのではないだろうか?私はアンリの捉える印象というものが質量によってなされている、と考えているのだ。そこで今度はウィリアム・ジェームスの言う質量に関して少し詳しく考えてみよう。そしてジェームスの考える質量は、ある意味ではドーキンスが「ブラインド・ウォッチメーカー」(前章で少し触れた。)で述べている選好性の遺伝子(同書中、爆発と螺旋より)という考え方と結びつくと思うのだ。そのことを念頭に入れてこれから先の記述をお読み頂きたい。
 まず河口ミカルの次の文(「理屈っぽいあなたに贈る言葉集」中結論より)を引用するので、読んで頂きたい。

(前略)フランスの哲学者で文学者でもあったジャン・ポール・サルトルは1945年終戦の年に「実存主義はヒューマニズムである」で、ペーパーナイフを例に取り、道具という実存が、本質に先立つと言った。それはキリスト教世界観と倫理観に裏打ちされた社会に対してどのような衝撃であったかというようなことを阿刀田高は著作「旧約聖書を知っていますか」の中の8話<アダムと肋骨>で述べている。しかしサルトルがそういうことを初めて言った張本人ではない。それ以前ニーチェも同じようなことを言っていたし、その後ウィリアム・ジェームスも同じようなことを言っている。ニーチェよりジェームスの方が二歳年長者であるから、同世代のニーチェに刺激された、ということもあったかも知れないが、ニーチェより十二歳若い世代であるフロイトもまた、私たち人類が神の恩寵であったと思っていた(西欧人にとってだが。日本人は神様仏様と言うように、自然一般という思念が支配的であるが。)のを、無意識がある種の閃きを齎しているのだろう、と言うような考えを現代人に持たせた張本人であるし、そのフロイトにジェームスは感化された部分もあったのかも知れない。彼が「プラグマティズム」を著したのは六十五歳の時である。(1904年)そこには次のように述べられている。
「(先述)神は世界を現にあるとおりに造ることのできた存在者である、このことにたいしてわれわれはおおいに神に感謝するが、しかしそれだけのことである。ところで今度は、反対の仮説をとって、微細な物質が自己の法則にしたがってこの世界を神の創造と寸分違わず造りえたものと考えてみると、われわれは物質にたいして神へと同じに感謝すべきではないだろうか。そこでわれわれがどこに損失をまねくことになるであろうか。どこに格別な生気なさもしくは粗雑さが入り込んでくるであろうか。また経験は現にあるとおりのものであるから、この世界に神がいまそうとも、いかにしていっそう生気あらしめ、いっそう豊かにすることができようか。」(桝田啓三郎訳、76~77ページ、岩波文庫)
 ジェームスからサルトルが啓示を受けたかどうかは分からない。しかしベルグソンと親しかったジェームスの影響を、ベルグソンを引用したり、参考にしたりすることの多いサルトルが間接的にでも影響を受けているということは確かであるが、問題なのはそのような哲学者間の関係ではない。関心のある方はこの記述の先をどうか文庫本で読んで頂きたいのだが、完全にこれは神の否定である。しかし問題はそのことでもない。一番私に強く訴えかけてくることというのは、ジェームス、ニーチェ、フロイト、サルトルと立て続けに出現する哲学者や思想家たちが挙って何回も時を置いて、神を否定しなければならなかった彼等の立たされた文化的土壌の凄まじさである。つまり西欧社会とはキリスト教世界観と、倫理観が支配する王国であるという前提に立たなければ、この執拗なまでの彼等の哲学的主張の意味は理解出来ない。
 
 河口の言うようにジェームスは「純粋経験の哲学」の最終章<多元的宇宙>において明確に無意識の世界の重要性と、そのためにそれまでの西欧哲学史を呪縛してきた神の一元論、神の無限の能力に対する否定から今後の哲学、心理学の将来を展望している。それは例えば次のような文からも明白である。
「(前略)経験の一切の厚み、具体性、個別性は、その直接的でほとんど名づけえない段階のうちにあるのであり、まさにベルグソン教授があれほど強調してわれわれに注意を促しているのは、この経験がいかに豊かであるかということであり、またわれわれの概念作用がそれにつり合うにはいかに驚くほど不十分であるか、ということなのである。」(<経験の連続性>172~173ページより)
 ジェームスは経験論と合理論を結託させるためのロールモデルとしてベルグソンとフェヒナーを指針として掲げている。そして西欧哲学が一神教的一元論、そして観念的合理論に支配されてきたという事実に対して、私たち日本人には馴染みのある観念を逆に利用しようと試みていることが興味深い。つまり私たち日本人は「あんた方どこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、洗馬さ、洗馬山には狸がおってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ」の世界、つまり郷土共同体の内側と外側を区別する思考から、責任論的な公共性へと、つまり西欧合理性へと意識的に転換してきた歴史であるのに対して、西欧ではジェームスが次のように言っているように、逆のベクトルを志向しようとしていたのである。
「おそらく、わたしが強調したい区別を表現するためには、「合理性」と「非合理性」という言葉よりも、わたしが第一回の講演で用いた、「よそよそしさ」と「親密さ」という言葉の方が適切であろう_それゆえ、ここでもこれらの言葉を使って考えることにしよう。わたしは今や、「一」という概念がよそよそしさを増大させ、「多」という概念が親密さを増大させるのだ、といいたいと思う。(後略)」(<多元的宇宙>212~213ページより)
 多神教、八百万の神の国の仕来りに学ぶと言っていいほどの接近振りを、あるいは日本的なものを志向するかの如き錯覚を私たちに与えるくらいの精神的傾斜がジェームスの言辞の多くに読み取れる。

 今度は河口の同論文から再び次の文を引用するので、そこから発展させて考えてみよう。

(前略)ご存知のように三角形には対角線はない。対角線は四角形から存在するのである。そして角数が増加するに従ってその形態は円に近づく。しかし偶数角は円に近づく面積の中心点(円の中心点と重なる。)を通るが、奇数角は中心点を避ける。そこで例えば百角形は限りなく円に近い形態となるが、偶数角なので、中心は対角線の交差によって埋め尽くされているが、九十九角は奇数角なので、中心点は空白である。そして角数が減少するに従って奇数角の中心を避ける面積は拡大されてゆく。逆に言えば角数が増加するに連れて中心点を避ける空白は中心点(面積がない。)に限りなく近づく。しかも百角形は一つの角につき九十七の角と対角線を作るので、殆ど中心点以外の面積は線で黒く埋め尽くされている。しかし点という面積のないもの(原理的には線も面積がないのだから黒く埋め尽くされるというのも概念上のことである。)とは概念上は成立するが、実際にはマイクロスコピックには存在し得ない。(後略)(同論文中、第二章怠惰なあなたへ より)

 この仮説はある意味では一定の枠が与えられて初めて成立するものである。つまりある円に接する多角形ということである。だから当然一辺の長さは角数が増加するに従って短くなる。つまり数学原理を理解するために恣意的に選ばれたある円を前提に、全ての過程が成立している。つまり概念的理解を誘引するために恣意的に前提が与えられるという事態そのものに私たちは慣れっこになっている、ということを私はここで提示したかったのだ。そして同じ文章の中で明らかに点には面積がない、そして線も黒く塗り重ねられることは原理上はあり得ないのにもかかわらず、数学では概念的理解のためにそれをやる、というこの文章の主張を通して、私は数学的理解をはじめとする概念的理解の世界では、無意識的な行為とか、自動的な行為が自動的になされるのではなく、あくまで意識的な「構え」が自動的になされる、という不文律が私たちの日常では支配しているということが言いたいのである。中心点とはマイクロスコピックに存在しないということは、つまり概念上でしか存在せず、実際の物理的空間では点というものを指定することが出来ない、あくまで点とは物理的現実においては、その全体を見るという視点の中から概念的に理解する、あるいは「見えるものの中から明らかにあると感じられる仕方で示す」ことでしかないということを意味する。中心点も二点を結ぶ最短の線である直線は存在し得るが、示し得ないのだ。そして一点において接するという数学的理解もまた、概念上は理解出来るが、物理的実際空間では示し得ないし、あり得ないのである。線にも点にも面積がないからである。しかしその数学的言辞の言わんとすることを我々は理解出来る。これは実は極めて不思議なことである。それは図式的には次のような理解の仕方である。

客観的真理に対する納得→主観的に理解しようとする

しかし私たちの日常的生活において私たちがする会話で、自らの主観を述べようとする時には数学的規約を前提とした概念的理解とは反対のベクトルになる。

主観的に納得し得ることを客観的に説明しようとする
 
 この主観的納得が他者には容易に理解されることがないということを我々は知っているにもかかわらず、それでも敢えてそれを告白する場合、私たちは主観的納得という私的言語をどこかで自己欺瞞を承知で、一般的真理に拡張しようとする。この際のディレンマを切々と訴えている哲学者こそ永井均氏氏ではなかろうか?そして永井氏のテーマを郡司ペギオは言葉を換えて次のように述べている。(「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」)

 Y 部分から全体へ。無限概念を介してイメージされるのは、様々な主観的視野から、客観的視野へ、という操作だよね。でもそういう言い方をすると、(中略)客観・主観と逆になるんじゃないかな。
(中略)様々な属性のコレクション、つまり外延を、客観的描像と呼んだよね。逆に様々な属性を一つにまとめあげること、もしくは一つの選ぶこと、つまり内包を、主観的描像と呼んだんだよね。ちょうど逆になっちゃう。
 P いや(中略・以前の議論のことを言っている。河口注加入)と極限=客観を集める全体という議論との間に捩れがあるのは、寧ろ自然なんだよ。(上と同)は、内包と外延を一致させられない観測者=わたし、というところで考えている。神様のようにすべてを見渡す者はいない、という、いわば地べたに這いつくばった私という立場しか、想定していないんだよ。すべての属性を見渡すことは原理的にできなくて、無理に仮想しているだけなんだよ。だから外延は、途中までいくつかの属性を列挙して、あとは「⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅」みたいな無際限さに言及するだけ。逆に、全体としてのあり方を一個に決めるという規定のしかた(内包)は、すべてを網羅して決めるわけじゃないから、勝手に、恣意的に決めてる、という性格を免れない。だから主観的になるんだよね。
 この捩れはとても重要な論点を含んでいる。数学的な形式は、超越的視点しか用意していなくて、主観は限定的知識、不完全な知識によってしか規定できない。このとき部分=主観、全体(超越者)=客観、となっている。他方、経験世界では、観測者は有限の立場にあって、外延(部分の総和)=客観、内包(全体としての規定)=主観となっている。
 僕たちの扱っている問題は、経験世界の描像を、いかにして形式的に表現するかということなんだ。ところが経験的な主観っていうのは、勝手に決められた個物であって、これをまた数学の中で考えると、外延ということになる。つまり数学的形式によって経験的主観・客観を構成しようとすると、それは数学的な客観=内部構造、を見出すといった展開になる。点の中の点、こうしてオープンリミットの意議が再確認されるわけだ。(201~202ページより)

 郡司ペギオ氏が永井氏と異なる点は永井氏が主観の側から客観の立場を考えているのに対して、郡司ペギオ氏は明らかに客観の側、つまり数学的認識の側から主観の立場を導入しようと試みているということである。
 郡司ペギオ氏の全体と部分の反芻的なアプローチはジェームスにも多く見られる。彼の<多元的宇宙>はまさにそれだけによって成立している論であると言える。しかしそのアプローチはダーウィンが創造説を克服しようとしたり、もっと遡ればカントが「道徳形而上学原論」において神の完全性に対して懐疑的立場を採ったりしたことの系譜学としても認可出来るような心理的傾向とも言えるが、次の一節にはそのことが顕著である。
「したがって、神学においても哲学においても、もっとも抵抗の少ない考え方は、超人的意識を認めるとともに、それが一切の包含するものではないという考え方を認めることである。いいかえれば、神が存在し、しかもその神は能力と知力のどちらかにおいて、有限であると認めることである。いうまでもないことであるが、ふつうの人々が神との能動的な交流をもつのは、一般にこうした了解のもとにおいてである。これにたいして、神を完全者にする一方で、その概念を実際的にも道徳的にもあまりにも逆説的なものにしてしまう一元論者の考えのようなものは、彼にとってのみ存在する概念的代用品にたいして遠隔的に働きかけるような、よそよそしい専門家の精神が生み出す冷たい添加物にすぎないのである。」(<多元的宇宙>202~203ページより)
 ジェームスの記述心理学と宗教心理学としての認識論は、「純粋経験の哲学」の翻訳者である伊藤邦武氏の次の指摘において現代的視座を持つことを認められよう。
「認識論における伝統的な問題設定は、「精神に内在する観念や表象がいかにして外的で客観的な対象へと妥当するのか」という形で表現され、この問題設定のもとで懐疑論や「認識の自己超越」等の考え方が提起されてきたのであるが、この認識関係はもっぱら無時間的な出来事として理解されてきた。これにたいしてジェームスの根本経験論では、認識関係はそれ自体がひとつの時間過程であり、認識するものと認識されるものとの結びつきが、認識と行為というより大きな過程の内に組み込まれて理解されている。「機能主義」という言葉は、今日では、1960年代以降のいわゆる「心の哲学」において、人間とコンピュータの認知機能の類比的関係をひとつのきっかけとして提案され、主流となってきた考え方をさしており、当然のことながらジェームスのなかには、こうした人間と機械の類比という考えはない。しかしながら、認識が人間精神の果たす機能であるという考えそのものは、ジェームスや(その盟友であった)パースによる伝統的な認識論の格闘のなかで初めて生み出されたアイデアであり、その意義は現在においても決して失われていないのである。」(解説、281~282ページより)
 人間が宗教的心理になることの発端は、恐らく私の考えでは願望が満たされないということに対する極端な現実そのもののシニシズムが我々に齎す不安と、苦悩であろう。勿論その場合の願望とは最低限の人間生活の幸福を保証するものであり、それさえ手中に収められないという状態に起因する不安が宗教的心理を自然に招く。しかし願望とはそれが些細なことであってさえ実はデモーニアックなことである。つまり精神の合理主義を考えれば、それは無意味な心的作用である。何故なら全てはなるようにしかならないのであるからであり、そして何かを望むという心理は全て神頼み型の心理であるからだ。しかしそれを克服出来る人間はいない。全ての行動を誘引するものは何らかの欲望であり、それは実現されていないという何らかの形での欠乏感に端を発している。そして行動とか決意といったものは全て何らかの形で野心と関わっている。野心とは上昇志向である。その上昇志向を支えるものは、他者に対して遅れを取りたくはないということであると同時に、何もせずにいることで無為に時間が経過してゆくことで生じる不安を招聘しないようにすることである。幸福もまた何か行動を起こすことでしか実現され得ないということを我々は知っている。
 ジェームスが心理機能主義的な認識論に到達したことの背景には自分自身の極度の生に対する不安があったものと考えられるが、不安を招くことそれ自体もまた、人間が願望という不条理な思念を抱かずには生活出来ないという事実に起因するのだ。だから仏教では解脱という心的作用を常に志向してきたのだし、西欧哲学もまた、近代以降多く意志とか、欲求という問題に翻弄されてきもしたのだ。願望とは欲求であるし、それは意志的な志向性と不可分である。しかし意志することが願望によって誘引されるにしても尚、私たちは願望が肥大化すると、空虚感を味わうようになる。つまり欲求が実現されると欲求が実現される事態そのものに倦怠感を抱き始めるのである。願望が肥大化されるという事態は、ある意味で願望が実現されることに纏わる空虚感という、精神的充実の喪失が、欲求実現によって齎されることによって空無として実感されるが、もっと充実した達成感を得るということ、例えば金銭的なことではなく精神的なことを求めるということでさえ、願望の肥大化であるとも言えるのだ。
 関心の質量とは欲求(あるいはその内容)が一定の認識によって理性的に昇華されたものに他ならない。だからそれは満たされないという不条理を前提しているのだ。あるいはこうも言える。願望を抱くという心的作用を払拭することが出来ないでいる生の実存に向き合うということから、その事実に対する客観的視点を獲得することが関心を行動の意欲として用意するのである。
 郡司ペギオ氏の次の一節(「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」はその私の考えをよく説明してくれる。
「翻って質量って何だったか。マテリアルって何だったか。可能・実現態の区別を創りだすため、その素材性を規定したときには、決して窺い知れなかった機能が潜在するもの、だった。ボールペンの場合、インクがあるから筆記用具と理解されていたものが、インクがなくなってただのモノになったとき、尖った先で紙に傷をつけて何か書けるという機能がはじめて発見されたんだった。水道管をつなぐための、太いレンチを考えてみよう。この道具は、水道管という太いパイプをつなぐために特化していて、だから結構大きくて、長さがあり、ずんぐりと重い。質量性とは、まさにこの大きくてずんぐりと重いって、性格が担う事態だよ。この性格ゆえに、レンチは、水道管なんてないような場面でも、壁を壊す大きなハンマーのように使うことができる。ハンマーとしての使用が潜在している、これこそが質量性だった。」(231ページより)
 ある道具がその道具が作られた機能と目的を発揮しなくなった時に初めて発見出来る別の用途への転換可能性とは、災い転じて福となす式の発想転換を私たちに教えてくれる。シュールレアリスムやダダズム、あるいはポップアートのオブジェという考え方は、本来の目的と機能を剥奪して発見し得る別用途、あるいは美感受の可能性からの引き出されたものである。そしてそれは道具に対する感謝の念をも私たちに教えてくれる。
 水道から水が出なくなった時私たちは初めて水の有り難味を知るし、停電した時に初めて電気の有り難味を知る。しかし感謝の念を得る時にも神を感じるが、巧くゆかず怨念めいた気持ちになる時にも神を感じるのが私たちだ。それは即ち願望の充足という快の原理を基軸に私たちが幸福状態に対する判定を行っている証拠だ。願望が充足されるということは、ある意味では日常的な努力によってであることを我々は知るが、願望は常に私たちの努力によって得る当然の報酬よりも先を行っている。そしてそれが意欲に繋がってもいる。しかし問題なのはそのような実現されること、達成されることの青写真というものが選好性の判断によって成り立っていることを我々はつい見過ごしがちである。
 例えばスポーツが不得手な人間はそもそもオリンピックに出場する夢を抱くことなどないだろうし、音楽的才能のない者がカーネギーホールで演奏会を開くことを夢想することなどないだろう。願望は実現可能なものと、そうではないまさに妄想と言っても過言ではないレヴェルのものとでは、その願望充足へと向けた行動は変わってくる。例えば音楽的才能のない者でも、プロの音楽家のCDを鑑賞することで願望を充足し、スポーツの苦手な者でも大リーグやワールドカップを観戦して代理感情として贔屓のチームや選手を応援し、彼らが勝利することを見届け欲求を充足する。そしてそういう場合贔屓のチームとか選手を選ぶ理由に、特定の規準とか、説明可能な合理的理由というものがあるとすれば、それは真にファンである心理からはほど遠いと言ってよいだろう。そしてもし合理的説明が可能となったとしても、それは非合理的理由を正当化するという目論みが成功していると言うに過ぎない。
 人間は社会的に理性的判断が出来る人であるというクレディビリティーを有する人間も、その内実においては子どものような夢を持っていたりするものであり、要するにそれを公の場で表明することを憚るということにおいて信任出来ると一般には考えるのであり、常識的な見解を論文で述べる人が即ち理性的判断だけで生活しているとは限らない。寧ろ非常識なことを言いふらす人の方が日常的にはずっと常識的な考えを脳内で抱いているということはよくあることである。
 つまり願望とか想像とか空想といったものに枷のようなものは一切なく、全てどう想像しようが自由である。だから人間は内的には非合理的思念の動物である、と言い切ってよい。常識的見解を主張すればするほど逆に日常的に非常識な思念に支配されているということを暗に認めているようなものである。しかし日常的で個人の内面で思念することが自由と違って表立って何かを真理であるか如く吹聴することとは、それだけで責任倫理に抵触するので、ドーキンスが非科学的発想を真理の如く扱うマスコミに対して批判を加えていることそれ自体には意味がある行為であると我々は裁定してよいだろう。ただ人間はどんなに公平な視点でものを見ていると表明しても、内実的にどうしても受け容れられないタイプの考え方とか、あるいは受け容れられないタイプの人間といったことの無意識の嗜好というものを払拭することなど出来ない。それは公では認められていることに関してもそうなのである。それは偏見であるというよりも、寧ろ性格的な相性の問題である。だから人間とはそういう傾向があるのだ、ということを踏まえて公平を期する必要のある時に、その都度対処してゆかねばならないだろう。
 このどうしても相性的な判断でしか切り抜けないことというのを、ドーキンスは選好性の遺伝子と捉えている。これはもともとサー・ロナルド・フィッシャーの考案した概念である。しかしそれをより分かりやすく私たちに伝えたという意味でドーキンスに功績がある、と言ってよい。この選好性の遺伝子については結論の<私の採る立場>でも詳しく論じるが、その前に「ブラインド・ウォッチメーカー」で彼が示している選好性の遺伝子に纏わる内容をテクストから抜粋引用することを通して理解しておこう。(つづく)

A論文「原羞恥と原音楽」4、科学者の考える世界にも息衝く哲学者の世界と宗教倫理

 私たちは基本的に長い年月の間にこれこれこういうことが起こり得るとは予測出来るが、明日どういうことが起こるかということは予測不可能である。例えば私はそちらの専門家ではないが、数万年、数十万年単位での地球環境の変化を仮に予測することが現在の地球物理学で可能だったとしても尚、短い単位でどのような出来事が地球に起こり得るかを正確に予測することは不可能である。そういった意味では全ての人類は、基本的には不確実性の中を生き、またその事実を暗黙の内に認めているのである。
 哲学者ウィトゲンシュタインの論理とその主張にはどこかそういう不確実な世界(そういう枠組みで我々は自分の住む環境を規定してゆくものなのだが)に生きることそれ自体を描像として我々に提出したと言える。そのスタンスは恐らく精神的には進化論者にも影響を与え続けている、と言える。例えばそれは「進化とゲーム理論」の著者、ジョン・メイナード・スミスもそうであるし、「利己的遺伝子」の著者リチャード・ドーキンスもそうである。彼等は基本的にはダーウィニストたちである。しかしダーウィニズムの基本的な考え方は、自然という暗黙のルールはごく一歩一歩偶然の変化を累積していったその果てに待ち構える必然のように見える変化は、しかしあくまで小さな偶然の集積であるという確信がある。例えばドーキンスが述べている(「ブラインド・ウォッチメーカー」の中の<小さな変化を累積する>より)累積淘汰と一段階淘汰ということについて少し考えてみよう。
 彼の考えによると一段階淘汰というものでは、その様相的差異は偶然だが、それが累積淘汰へと発展することそれ自体は必然である。しかし同時に累積淘汰の様相そのものは、つまりそれへと至る道筋は偶然である、ということである。これはある意味ではトートロジーであるが、極めて重要である。簡単に言えば偶然に起こり得ることそれ自体は必然であり、必然的展開とは必ず小さな偶然の集積であるということ、それは言い換えれば、変化とか変化の様相とかそういう事態それ自体は必然的に存在し得るのだが、その存在の必然性は全て詳細では偶然の産物であるということである。
 このような論理的な同語反復性を自然科学者は数式によって表したり、それは確率論的に論じるが、ウィトゲンシュタインは所謂技術者出身であるが、基本的に哲学の徒であった。その事態自体に少しセンチメンタルな言い方を許して貰えれば、もののあわれを感じ取っていたと言ってもいいのだ。そういう観点に倫理の心的メカニズムを主張したようなカントのような存在とは異なって、今日多くの論客が東洋思想との接点を見出しているような独自の性質を我々は容易に発見することが出来るのだ(尤もカントはカントで実はかなり深遠な意味で東洋的である可能性もあるのだが)。
 そしてそれは茂木健一郎が指摘する(「「脳」整理法」)ようなディタッチメント的論理提示法ではない、彼の言うパフォマティヴ的論理提示法としてウィトゲンシュタインの哲学の存在の仕方を考えることが出来るのだ。それは論理自体の論理提出者からの独立ではない、論理と論理提出者との一体性である。
 茂木の言うディタッチメントとは方法的には、あるいは実用的な意味では極めて重要であるし、科学とはそういうものでなければならないだろう。しかし人間は冷徹な自然科学的な視座に依拠してのみ生活することにある種の充足感を得ることが出来ない、ある種の不条理性を兼ね備えている。しかしそれではそういうもののあわれへの言及それ自体は進化論者たちと対極ではないかという意見が聞こえてきそうだが、実はそうではないと私は思うのだ。つまりこういうことである。もののあわれをウィトゲンシュタインが訴えているからこそ、進化論はそういう視座を捨てて冷厳に進化を論じることが出来るのだ、と私は思うのである。カントの哲学的価値とはそれ以前の哲学者とかそれ以後の哲学者との相関性によって決定されてゆく。そういう意味ではウィトゲンシュタインもカント同様であるし、グールドたちによってウルトラ・ダーウィニストと呼ばれた人々もまた例外ではない。つまり茂木的に言えばディタッチメントはパフォマティヴが支えているとさえ言えるのだ。これは単純に考えれば自由経済主義者と統制経済主義者、保守と革新、新人と先輩といった人間社会全般に言えることでもある。なぜそんな分かりきったことをここで態々述べているのかという声が聞こえてきそうだが、それがそうではないのだ。
 例えば私は先にウィトゲンシュタインとダライ・ラマを考察したのだが、このように西欧哲学と東洋思想を比較すること自体もまた相対的な思想や哲学の在り方自体を提示したかったからなのだが、こういう試みを暴挙と捉える向きの方が学界では現在も多いというのが私の感想だからである。「それは学者のする仕事ではない。作家に任せておけばよい。」というわけである。本当にそうなのだろうか?私にはそうは思えないのである。
 というのももしそういう作業全般を全て作家にのみ任せていたならば、我々は思想相対性について、哲学論理の相対性についての視点を常に宙ぶらりんにしたままにして、部分考察に終始しなければならないからである。私は文学創作としての仕事も引き受けている者だが、実際論文というものの存在を文学テクストとはどこかで切り離している。またそうすることで、我々は相互の存在意義を見出すことが出来、私はそれを信じてそうしているのだ。
 文学創作上のテクストは「世界」である。しかし論文テクストは「世界について」なのだ。それはメタ・テクストなのだ。確かに宗教倫理テクストとしてのダライ・ラマと哲学テクストとしてのウィトゲンシュタインには全く相同ではない部分がある。しかしそれは少なくとも西欧社会と東洋社会そのものの生活とテクストの存在の仕方の違いに起因することであり、つまりその文化の違いを乗り越えれば、宗教倫理テクストと哲学テクストの相違はとどのつまりメタ・テクストの様相の差でしかない。
 例えばマルチン・ルターやカルヴァンを宗教テクストであり、カントやショーペンハウエルを哲学とするものとは、彼等個々のテクストの側からの事情である。しかしその他一切のテクスト、例えば自然科学テクストとか、それ以外の一切のテクストを含めた存在の仕方全般からその二つを見れば、その差とは然程歴然としたものではないだろう。それはドーキンスの言う一段階淘汰の横の進化と言ってもいい関係である。
 世界中の過去から現在までの全てのテクストからすれば、その全体を累積淘汰の存在それ自体であり、その存在様相であるとすれば、我々は哲学と宗教との相違がそれほど大きなものではないということに気付く。それは何もウィトゲンシュタインを宗教哲学者として規定するような考え方が存在するから言っているのではなく、仮にゲーデルのような数理論学者をここに引き合いに出してもそうだし、それこそ進化論者を出しても同様である。それは恐らく進化上の表現系の僅かな相違でしかない。
 だから我々を気象予報士になるためのマニュアルと哲学書を分かつものとは、文字言語による表現の累積淘汰による文字形態の違いであるというよりは、社会自体がその文字の配列に与えてきた習慣の差でしかないのだ。ある文字言語に対するカテゴリー認識の採用といった事態は実は累積淘汰それ自体の存在の容認でしかなく、それはそのカテゴリー同士の隣接とか距離を認めることによって寧ろ文字言語であることの類縁性をも主張する存在論的主張以外の何物でもないのである。そしてまさにウィトゲンシュイタンが主張したことというのは、その認可のシステムそれ自体のことだったのである。それを彼は世界と呼んだ。人間は哲学的に言えば世界の中で意思疎通する。
 ところで意思疎通とは情報の共有と個人が所有する情報内容の差異の確認のことである。他者は自己との異において意味を有する。韓流ドラマ「冬のソナタ」の主人公、及び登場人物たちは一挙に同じ内容の情報を所有することが出来ない。その情報内容の一致に至る時間的ずれを描くことで恋人たちの運命を描いたのだ。しかしそれはその登場人物にとってのその時々の情報内容自体が彼らの「世界」であることの表現であり、意味内容である。
 私たちにとって「世界」とは自らに固有の情報内容による他者の見え方に他ならない。自然科学においてはそもそも世界などという認識はしない。例えば生物学的には生物における生存と、そのための資源という捉え方しかしないだろう。これは自然科学が方法的に機能主義を採るからである。科学者たちにとっての世界とは彼等が仕事や研究が出来る環境のことを意味するであろう。しかしそこにもやはり哲学者たちが考える摂理は息衝いていることであろう。
 そもそも科学者が「世界について」提示する時、世界は彼の中にある。それに対して哲学者が「世界」を提示する時、世界は彼自身である。その点では彼等は明らかに芸術家に近い。世界とは彼の存在そのものである。尤も芸術家には彼自身から切り離された世界を作品に投入する必要があるし、その点では文学も同様である。しかし彼等は哲学者が自分自身に世界を引き受ける姿勢そのもののにおいて多分に共通している。しかし科学者たちは世界はあくまで世界であり、彼自身からは切り離されている。
 ここに茂木健一郎が言う科学=ディタッチメント、哲学=パフォマティヴという表出回路の質的差異が生じてくる。しかしこの二つは先述の通り、互いが互いを必要としているのだ。
 その点宗教倫理はディタッチメントとパフォマティヴが分化し難く、説話に結び付けられている。それは説話論者の「語り」の中にディタッチメントが見出されること自体がパフォマティヴであるという政治性(啓蒙)に意味がある、ということである。
 今後私たちの社会という一つの世界で宗教倫理が哲学的思考と協力し得る可能性とは、政治そのものが論議することの出来ない仮想世界をも含む思考であろう。例えば年間に多数の交通事故死者を出す我々の社会に本当に自動車以外の移動手段はないのだろうか、という問いは科学者が原発以外の発電方法、石油以外の資源活用術を模索することと同じ問いではないだろうか?
 それはだから社会学的問い、人類学的問いへも発展する。例えば日頃我々は何の疑問もなく、お金を使い生活しているが、本当に競争社会自体が貨幣経済のみによって顕現されるものなのだろうか?それは恐らくありとあらゆる共産主義、格差、人間間の憎しみ、復讐心といった不幸の連鎖を生んでいることは事実である。そのこと自体を人類に覚醒させることが出来るのは社会学的問いであり、人類学的問いである。そして貨幣に代わり得る競争社会を健全に維持する方法を見出せ、それを普及し得た者は仏陀やイエス・キリスト以来の人類の救世主と呼ぶべき存在となるかも知れない。

 話は変わるが、人生というものを少し感慨的に捉えてみよう。かつてジョン・レノンは「大金持ちと無一文の貧乏人だけが真に自由である。」というような発言をしていたことがある。要するに小金持ちとか少々貧乏であるくらいでは未だ社会的に不自由で、常に社会に束縛されているということだが、思い切り金持ちであるか、超度級に貧乏であれば、極端な話ホームレスであるなら、精神的には自由であるということは一面では真理であろう。そのことは社会的成功者と挫折者(失敗者)との間での関係に言えるのではないだろうか?例えば政治家のトップ・リーダーは首相とか大統領であろう。そういう人は逆に最も駆け出しの政治家に立候補者とどこか共通した心理があるかも知れない。尤も孔子は昔「成功した人が挫折した人を思いやるよりも、挫折した人が成功をした人を思いやることの方がよほど大変である。」というようなことを述べているが、事実もし真に挫折して社会的惨敗者がいたとして、その人間がトップ・リーダーに対してある種のシンパシーを抱けるとしたら、その人間はなかなかの大物であるかも知れない。しかし本当の挫折者だけが実は、トップの成功者の孤独とか空虚感とか虚脱感を知ることが出来るのかも知れない。トップ成功者にはそれ以上極められないという挫折感のようなものが漂うということは容易に想像されるからだ。それは宴の後の空しさのような胸中に支配された心情であろう。つまりそれ以外の中間のレヴェルの人間は常に上を目指している。しかし天辺の人間はそれ以上上がないのだから、却って意識上では原点回帰するのだ。従って天辺の人間が最下層の人間にシンパシーを持つことは容易にあり得るが、最下層の人間が天辺の人間にシンパシーを持つとしたら、それはある種のアイドリズムからである場合も多いかも知れない。しかしホームレスとかにまでなってしまうと、逆に天辺に対して共感を得るような心になる場合もあるだろう。それは希少者の胸中に対する理解である。
 私の考える原羞恥があらゆる対他的な意識を生じさせるとしたら、あらゆる成功者の対外的、対社会的な意識のあり方とか態度の採り方とかは明らかに原音楽的な秩序の高次の思考と高次の行為の決断の末に訪れる洗練の極致であると言えよう。それは組み上げ、完成した後にはそれが崩され、元に戻る恐怖が押し寄せるだけである。再編という事態の前には、前政権の終焉期の政治家のように後はリタイヤするだけである、ある空しさがついて回るのだ。そしてそれは原音楽が再び原羞恥に回帰するような循環心理があるのかも知れない。
 哲学者が「世界」と言う時、明らかにこのような諦念に近い心理があると思われる。宗教倫理はこの時虚無主義へと陥らせないように肯定的に捉える仕方を教えるだろう。しかし哲学ならそうはいかないかも知れない。なぜならその部分では哲学は自然が決して人情味溢れた思いやりを全ての生物にかけはしないような意味で残酷な無表情を晒すように、人間の存在を見つめるからだ。しかし科学もまたそのような意味では確かに思いやりは全くない。しかし哲学は少なくともそういう風に残酷に実存を見据えるが、その見据え方には透徹しているが同時に熱い眼差しがある。科学はその眼差し自体を冷徹にしていかなくてはならない部分が多分にあるのだ。しかしそういう態度を採り続ける科学者には、彼固有の暖かさとか対社会観というものはあるだろう。そしてそういったものが形成される時に彼等にはどこかで哲学者や宗教倫理家の考えというものに対する共鳴という事態は容易に考えられる。
 ホームレスになってさえ私たちは必ずどこかで持っているそうなる前の仕事如何では、通常の生活者に対してあまり汚い姿を晒したくはないというプライドは最低限の対他的羞恥の現れである。これは自らの裸を晒す職業の生活者にとって肌の手入れを怠りたくはないとか、娼婦は体を売っても愛は売らず、唇だけは相手に触れさせたくはないということなどにも現れている。しかしこれらもあるいは次章で考えている原羞恥と原音楽を一致させること、照準合わせによってなされてきたとも言えると思うのだ。つまり原羞恥というものは人間にだけ備わっているわけではないし、原音楽もそうなのだが、と私は思うのである。そしてそれは人間の羞恥が言語と大きく関わりがあるということである。

Sunday, October 25, 2009

B論文「信仰心と無神論」第三章 メタ認知の必要性と不可能性

 私たちが何気なく観察する日常の現実は、そういうことがよく起こることであるなら、明らかにその生起する現実を支える因果関係というものが想定される。これは物事が生起する前後関係とか先後関係によって理解することが出来る必然的な展開をそこに見出すということである。このことはプラトン的な哲学観を私たちに想起させる。つまりある出来事をそのことそれ自体としてだけではなく、先にあった事例多くに共通する生起事実一般例の一つとして、その必然的な展開として理解するという見方を我々に齎す。例えば栽培植物を育てていた植木鉢がその植物が枯れた後、そのままベランダに放置しておくと、どこからともなく雑草の種子が運ばれてきて、その植木鉢に生息することとなる。これはある意味では必然的な展開である。
 例えば私たちの身体の各生理学的作用の一つ一つをそのような因果関係で捉えることはメタ認知レヴェルでは可能である。元来メタ認知とは、ある生起した出来事が何らかの自然界における因果関係を有していて、その法則通りにことが運ぶということから、その生起事実を前例によって理解すること、解釈することであるから、当然どこかで概略的記憶というものを通して因果関係的理解に依拠していることになる。大概そういう記憶とは大筋のものであって、詳細ではない。従ってそのような理解の仕方を常習していると、つい初めて起こることを見逃しがちになる。そのものをそのものとして「初めて生起する固有の出来事である」と理解する必要性は、実は前例のある一般的ケースとして理解することと同じくらいに重要な物の見方である。
 しかし身体的な生理作用の全ては何らかの形で身体的な反応の記憶を踏襲したものである。
 例えばフランシス・クリックの
「認識という点では、脳が認識するのは外界もしくは脳以外の身体部分についての情報である。このことは、視覚を司るニューロンは私たちの頭のなかにあるにもかかわらず、私たちが見るものは体の外にあるように見えるという理由でもある。(改行)たいていの人にとって、これは大変奇妙な考え方に思えるはずだ。「世界」は体の外にあるのであるが、ある意味では、それはそっくり頭のなかにあるのだから。同じことは、あなたの体についてもいえる。あなたが自分の体について知っていることは、あなたの頭のなかにあるのだから。(改行)もちろん、頭蓋骨を開けて、あるニューロンが送り出している信号を取り出し、そのニューロンがどこにあるかを言うことは、第三者には可能である。しかし私たちが研究しようとしている脳は、その情報_ニューロンの位置に関する情報_は持っていない。これは、人間の認識や思考が頭のなかのどこで行われているかを私たちが知らない理由でもある。つまり、そのような_位置の_情報を信号化するようなニューロンは、ないのである。」(「DNAに魂はあるか驚異の仮説」150ページより、中原英臣、佐川峻訳、講談社刊)
 という叙述からも明白であるが、我々は我々の身体のメカニズムそのものを頭で理解するようには作られてはいない。つまり身体の能力が顕現されるという意味では、肢を動かしたり、瞳をしばたたかせたりすることが容易に可能であるが、その身体能力そのものを司るメカニズムそのものはブラックボックスに仕舞い込まれたままなのである。
 しかしこのことは一面では我々の精神的安寧という観点からはメリットもある。何らかの身体生理的トラブルに見舞われた時、その身体生理的メカニズム自体の不調を即座に認知し得ないということが、逆に楽天的な行動意志決定の合理化を促進するからだ。しかしじきに我々は体調の不良を訴えることになる。そしてその時には医師に診察して貰う必要があるのだ。
 この身体生理的機能のメタ認知の不可能性は、ミシェル・アンリが特筆している。最晩年のテクストの一つである「受肉」においてアンリは
「かつて誰が自分自身の視覚を見たことがあるだろうか。」
 と言っている。これは私が例えば海岸において水平線を見ている時に感じたことである。
 例えば私は夕日が沈み水平線が紅に染まっているそのさまを見ることは出来るが、その時水平線というもの一般を眼にしているわけではない。それはその時固有の空気、天候に左右されたその時だけの水平線の描く風景である。しかしその時のことを時間がたって想起する時、私はどこかで既に曖昧になりかけた記憶を頼りに、思い出す時、明らかに水平線一般のさまを引き出しつつ想起していることに気がつく。つまり何かが「存在すること」とは想起においては認識可能であるが、何か存在するものを見ている時には、私たちは「存在すること」そのものを見ているわけではない。そこに存在するものの物質的なクオリアとか、その存在する物質と周囲の物質が醸し出す状況的なクオリアそのものを見ているのであり、その状況が存在することを見るという意識にはなれない。しかし一旦その状況から別の状況に転換している時、我々はその前の状況全般に対して想起するわけだが、その時我々は前状況の存在を意識することが出来る。(実際アンリが影響を受けたメーヌ・ド・ビランが同じ主張をしているが、そのことは第五章と第七章で詳述する。)
 つまりメタ認知とは端的に現実生活においては記憶作用においてより容易である、ということである。
 ところで賢明なる読者諸氏は、私のこの論文が第一章から既に我々「考える主体」が自己‐他者の相関性において不可避的に「世界」の一部として生活することそれ自体に内在する競争の論理に晒されているということに対する認識に基づいて書かれているということにお気づきになられているのではないだろうか?実はそうなのだ。しかしそれは意図的なものからではない。私たちは実は自己‐他者という相関性において自分の世界を「世界」一般へと同化している時、明らかに既に他者との間で交わされる競争の鳥羽口に立たされているのである。そのことをリチャード・ドーキンスの「ブラインド・ウォッチメーカー」(下巻)において示された論述から幾つか引用しながら考えてみよう。そしてその後で現象学者間のある種の競争の実態について触れてみることとしよう。
「たとえば、森の樹木はどうしてあんなに高いのだろうか?簡単に答えれば、他の樹木がみな高いので、どの樹木も高くないわけにはいかない、ということになる。そうしなければ、覆われて日陰になってしまう。これは本質的に正しいけれども、経済観念の発達した人間の気分を損ねるものである。どうにも無駄だし、浪費なのだから。(中略)すべての樹木がそれより低ければどうだろうか?森林の樹冠部として承認を受けた高さを低くしようという一種の労働組合の協定のようなものがありさえすれば、すべての樹木が利益を受けるだろう。相変わらず、ちょうど同じだけの太陽光をめぐって樹冠部で競い合っているのにしても、どの樹木もはるかに低い成長コストを「支払う」だけで樹冠部に届く。だが、残念ながら、自然淘汰は全体の経済に気遣いを支払わないし、カルテルや協定をとり結ぶ余地はない。森の樹木が世代を経るにつれて大きくなったのは、軍拡競争があったからである。軍拡競争のどの段階にあっても、高くなることそれ自体は何の内的利益もない。どの段階にあっても、高くなることの唯一の要点は、隣接する樹木それ自体よりも相対的に大きくなることだった。
 軍拡競争がどんどん進むにつれて、森林の樹冠部における平均樹高は高くなった。しかし、樹木が高くなることによって得た利益は大きくならなかった。現実には成長のためのコストが増したために、利益は減ってしまっている。樹木は何世代にもわたってたえず高くなってきたが、ある意味では高くなりはじめる前のままでとどまっていた方がましだったかもしれない。(中略)誰もがエスカレートしなければ、全員の暮らし向きはいっそう楽になるのに、誰かが一人でもエスカレートしだすと、もはや誰もそうしないわけにはいかない。これが人間のばあいも含めて軍拡競争の一般的特徴なのだ。ところで、ここでも私は話を単純に語りすぎたと、強調しておくべきだろう。どの世代の樹木でも、前世代の同じ樹木よりも高くなっているとか、軍拡競争はもちろんいまもなお進行しているとか、言おうとしているのではない。
 樹木の例で示されているもう一つの点は、軍拡競争が必ずしも異種のメンバー間ではなくとも生じるということだ。一本一本の樹木は同種のメンバーによっても、異種のメンバーによるのと同じように日陰にされて被害を受けるだろう。おそらく、実際にはそうしたばあいの方が多いはずである。というのも、すべての生物は異種よりも同種との競争によってより厳しい脅威にさらされているのだから。同種のメンバーは同じ資源をめぐる競争者だが、その程度は、異種のメンバーに比べてはるかにきめ細かな点にまで及んでいる。種内では、雄の役割と雌の役割のあいだでも、また親の役割と子の役割のあいだでも、軍拡競争がある。(中略)
 樹木の話によって、対称軍拡競争と呼ばれる二種類の軍拡競争のあいだにある重要な一般的相違点を紹介することもできる。対称軍拡競争はお互いにおおむね同じことをしようとする競争者間のものである。光を求めて争っている森林の樹木が演じている軍拡競争はその一例だ。異なった樹種のそのすべてが正確に同じ方法で生計を立てているわけではないけれども、いまわれわれが語っている特定の競争、つまり樹冠部の太陽光をめぐる競争に関するかぎり、それらは同じ資源をめぐる競争者である。これらの樹木は、一方の側の成功は他方の側にとって失敗になる、そういった軍拡競争に参加している。そして、それが対称軍拡競争だというのは、両方の側にとって成功と失敗の性質が同じだからだ。つまりどちら側にとっても成功とは太陽光の獲得であり、失敗は日陰になることである。
 しかしチーターとガゼルの軍拡競争は非対称的である。それはどちらか一方が成功すれば他方は失敗したことになるという点では本物の軍拡競争なのだが、成功と失敗の性質がその両者で大変異なっている。それぞれの側はきわめて異なったことを「しようとしている」のだ。チーターはガゼルを食べようとしている。ガゼルはといえば、チーターを食べようとしているのではなく、チーターに食べられるのを避けようとしている。進化的な観点からは、非対称軍拡競争の方がずっと興味深い。というのは、高度に複雑な兵器体系をつくりあげやすいからである。その理由は人間の軍事技術から例をとってもわかるだろう。
 例としてアメリカとソ連を使ってもいいのだが、特定の国に触れる必要はさらさらない。どこかの工業先進国の会社で製造された兵器は、最終的にはさまざまな国のどこかに買われていく。海面すれすれを飛んでいくエグゾゼ型のミサイルのように、成功をおさめた攻撃用兵器の存在は、たとえばミサイルのコントロール・システムを「混乱」させる電波妨害装置のような効果的な対抗技術の発明を「招く」ことになるだろう。その対抗装置は、おそらくは敵国によって製造されるのだろうが、同じ国、いや同じ会社によって製造されることさえあるのだ!それというのも、結局、あるミサイルを最初につくった会社以上にそのミサイルに対する妨害装置をデザインできる能力をもった会社はないからである。同じ会社がその両方を製造して、それらを戦争で敵対する両陣営に売りつけるというのは、はなからありそうもない話ではないだろう。それくらいのことはいかにも起こっているのではないかと疑う程度には私はシニカルだし、この例は実質的な有効性が変わらないまま装備が改善される(そしてコストは増加している)という点をまざまざと描いている。」(「ブラインド・ウォッチメーカー」[下]7章建設的な進化、29~32ページより)
 要するにドーキンスが指摘していることとは軍拡競争だけが、それによってどちらかが勝利するとか敗北するということがないまま進展するような状況が自然淘汰(私は自然選択と言っているが、ドーキンスの訳者に合わせてこう言っている。)では行われ得るということだ。しかし先述の樹木の例ではある樹高の臨界点のようなものが見出され、我々は一定の高さの水準というものをある程度樹木に関しては知っている。しかし冷戦構造とかデ・タントといった構造は現在でも未だ何らかの形で残っていると世界情勢を鑑みて結論するということは間違いではないだろう。しかし最もこの記述の中で興味深いこととは、最後の兵器製造とそれに対抗する妨害装置の開発を同じ会社が行うという発想である。
 例えば、現代社会を象徴することとして、実際にそういうことがあったなら、驚愕の真実として考えられることとして、あるコンピューター・ウィルスを除去するソフト開発者として最も相応しい者とは、そのウィルス作成者である、と言える。つまり彼が何故適任なのかとは、実はドーキンスの言う発明と対抗発明の軍拡競争が、ある意味では双方の勝敗のアップには繋がらないが、何の進歩も、そのための努力もない状態だけは双方で回避出来るという、最低のラインだけは守ることが出来るし、その成果を上げることが同一者であるということが最も効率的には好ましいということによる。今の例で言えばウィルス除去システムの作成者と、そのウィルスを発明する者が結託したら、双方にとって多大な利益を望めるという意味では、考えただけでも空恐ろしい気さえする。
 つまり重要なこととは、自然界での自然選択的法則性というものの前では、敵対する者同士がいがみ合っているのかそうではないのか、ということよりも、そもそもルティンワークというものが成立し得るのか否かということなのである。それは与党と野党の政治家の論争を見ていてもよく分かる。重要なこととは、論争することによってより改善された結論を導き出すことなのである。だからこそドーキンスは発明者と対抗発明者(最初の発明の効力阻止者)が同一であっても何の不都合もないとまで言い切るのである。それどころか、そのような矛盾の同一性があったとしても、軍拡競争をルティンワーク化することを維持することそれ自体は、全ての生物種に「生きる目的」を与える。「生きる目的」とは行為の遂行であり、行為の遂行は一々その行為に意味があると意識する必要がなく行えるような状態をこそ望む。そのような疑問なく何かを行うことが可能となるためにこそ「目的」とは作られる。そしてその目的を最も順当に遂行出来る手段として軍拡競争が存在理由を持つのだ。つまり軍拡競争はそれ自体が目的である、と言うよりは、寧ろそれが平和であれ、実力向上であれ、目的が何であっても、その目的へ向けて何の疑問もなく邁進することが出来るような状態を作り出すというところに最大の効用があるのである。私は何もドーキンス同様世界でそのような軍拡競争があることが好ましいと言っているわけではない。寧ろそれは憂えるべきことである。しかし少なくとも自然科学的認識というものの前では対する相手が自然であれ、人間であれ性悪説的なことを見て見ぬ振りをすることが許されないということを言いたいのと、その認識可能性の推進者としてドーキンスのスタンスを科学者としては正しいと考えていると言いたいだけである。
 そして重要なこととは、無意識の内に私たちは多くの現実に対して何の疑問も抱かずに、それを当たり前のこととして受け容れているということである。そしてその多くはそう容易くは(それが間違ったことであってさえ)変更が利かないということである。例えばパソコンのキー配列の変更もそうだし、個人的な移動手段を自動車以外の手段に求めることもそうだし、資本主義以外の社会システム構築とか、貨幣経済以外の手段を講じることなどもそうである。(しかし哲学者も科学者もそれを考える必要はある、と私は考えているが、そのことは結論において詳述する。)
 そう考えると、私たちは日常における理想の多くを、実は目的意識よりも、その目的へ向けて何の疑問も差し挟むことなく邁進するその姿にこそ、心の中に描いていると言うことが出来る。それは実際私たちが背後の意味よりも、実際に確認出来る「現れ」をこそ重視する心的傾向があることが分かる。
 このことが実は私たち人類が哲学論争を延々と繰り替えてきた理由でもあるのだ。
 「現れ」に背後性を付与して認識するか、「現れ」そのものが全てで、背後そのものが幻想であると認識するか、ということに関して言えば、明らかに現象学は後者の立場を採っている。ある意味では現代に生きる我々が確認出来る「現れ」をこそ重視する心的傾向があるとしたら、それは現象学のお陰であるとも言える。つまり現象学では「現れ」こそが最もその中味(中身)を表している、と言うより中味が現れと違うということなど通常はあり得ない(全くあり得ないとも言い切れないが、そういうことはよくよくのことでなければ滅多に起こり得ない)という立場で考えている。
 それは最も理解しやすいものとして我々が例として出し得るのが、スポーツであろう。スポーツ選手たちはその競技上で上げる成績こそが実力のバロメータである。実力とはどんなに日頃練習中に高記録を出せたとしても、本番の競技で十二分にその日頃の実力を発揮しなければ何の意味もない。つまり彼らにとって本番の競技こそが彼らの実力を公式に示し得る最良の舞台なのだ。だから実力とはスポーツ選手にとって隠すものではない。よく「能ある鷹は爪を隠す」と言うが、彼ら鷹とて重要な時にはその狩猟本能を発揮して爪を十二分に利用するだろう。だから仮に日頃は実力があるのに本番では金銭授受目的から八百長をする選手がいたとしたら、そういう選手たちのことを我々は真の実力者とは呼ばないだろう。そういう者たちはそもそもスポーツマンシップを理解していないのだから、卑劣漢なのである。
 ここら辺はギルバート・ライルの行動主義哲学の考えを持ち出しても説得力がある。つまりある人間の行動とは最もその人間の心の真意を表しているという主張がそこにはあるからである。つまりその人間の真意の「現れ」とはその人間の外面的に確認出来る行動である、と言えるだろう。
 「現れ」そのものの本質とは、現象や背後に存在するのではなく、本質というものはそのまま「現れ」るものだ、「現れ」出るものなのだ、ということこそが現象学が掴んだ真理である、と言ってよい。
 そのことは次のように言い換えてもよい。私たちは何かが「現れ」た時、その出来事の本質を理解しようとする。しかしその出来事を誘引したこととは、その出来事が起きる以前に何らかの伏線があり、その原因となって作用することが事後的に位置づけられよう。しかし実際その原因が持ち出された事実とは、実はある結果が、つまりこの場合にはその出来事が起きたという事実によって誘引されたものなのであって、要するに原因とは何らかの結果として認識された出来事があったから、と言うより何らかの事実を「出来事」として認識した、という我々が<事実に対して意味を付与する>という行為があったからであり、それなしには原因となる事態そのものは終ぞ認識され得ずに終わったことであろう。
 例えばそれは私たちが利用する言葉に関しても言える。言葉とは私たちのその言葉を吐く度に心に思い描いていたことに対する表明のための道具である。だから何かを述べている時、私たちの脳は既にその吐かれる言葉(つまり身体的に発声される)が言葉によって示されるべき内容よりも先に考えが行っている。
 しかし言葉とは保守的であり、その直前に考えていたことをなぞる。そしてその自分の寸前の脳内での考えの表明に適した言葉とは、自分の心の中にその考えをしまって置くことにおいてとは必ず異なった様相で立ち現れる。何故ならある言葉を吐くこととは、その言葉を通してその言葉を聴いた他者が何らかの言葉から得る理解というものを既に想定しているからだ。その想定とは、どのような言葉を、つまり文章とか、語彙とか、ニュアンス表現とかを選択して今述べるべきかという考えの下に、その都度文章の形態や語彙や、表現を採用しているのだ。
 例えば我々は物質や肉体というものに対する対立項として精神という語彙を想定している。何故そのような対立項を設けるかと言えば、それは我々が物質や肉体という言葉をより理解しやすくするために精神という概念を利用しているからだ。勿論それは物質や肉体という語彙に関しても言える。それは精神とか生命とかいった言葉をより理解しやすくするために存在する概念である。勿論我々はそれらの対立項を意識して設定しているわけではない。しかし会話とか陳述とか、記述の際に我々は内的にはそのような我々自身の発話や書記を巡る自分の考えに対する理解を滞りなく捗らせるために、対立項を相互に保有する概念を使用するのだ。だから逆に「では精神とは一体何なのか」と問われれば途端に我々は返答に窮するのだ。つまり我々が精神と言う語彙を使用する時、明らかに我々は精神というものが肉体に宿ったり、物質には通常我々が精神と呼ぶものは存在しなかったりといった、そういう想定の下でその語彙を使用するからだ。それは要するに言語行為というものが、その発話行為を通して何らかの感情のニュアンスを他者に伝える際に我々が、語彙間の関係、つまりこの例で言えば、精神と肉体と物質の関係(例えば肉体そのものも物質の一部であるが、それは同時にただの物質とは違って精神を宿すというような)を前提にして、何らかの内的感情を他者に理解しやすいように概念使用とその概念使用を滞りなく遂行させる論理(統語秩序)を利用しているからである。
 近代以降の多くの言語学が欠落させてきたものとは、実はこの語彙間の関係性(そのことはソシュールが考えていた。)のことではなく、この語彙間の関係性を利用しようとする人間の内的感情であった。この内的感情に関しては寧ろ言語学よりも、社会学の方に多く論究されてきたし、脳科学が現代になってようやく取り入れ出した。
 私はこのような体たらくが、実は宗教的戒律とか、宗教的モラルにあったのではないか、と考えている。そのことに関して西欧も東洋も違いなどないように思われる。
 そのことの論究の入る前に本論文の主役の二人ミシェル・アンリとリチャード・ドーキンスの宗教的位置について少し考えを纏めておこう。
 ところで我々日本人とは無神論者である、と言えるのだろうか?私は「それは違う」のではないか、と考えている。勿論中には無神論者と言える人もいることだろう。しかし通常民族的な一般的傾向からすれば、それは違うのではないか、と私は思うのだ。つまり無神論という立場を表明し得ることとは、まず神とはどういうものであるか、ということの理解を実感として体得していて、然る後その神を否定するのでなくてはならないだろう。そういう意味では日本人とはそもそも否定すべき神なる確たる宗教心とか宗教文化を有していないというのが実態ではないだろうか?つまり躍起となって否定する対象としての神というものを我々は持たない。だから我々日本人は無神論者であると言うよりは、寧ろ非神論者であると言った方がよいかも知れないし、敢えて位置づけるとすれば日本人の中で無宗教論者とは、無・カミ論者、それも無・カミガミ論者であり、無仏論者なのではないか?
 そういった観点から言えばリチャード・ドーキンスをこそ無神論者であるとすることはまさに定義づけとしても呼称としても相応しい。彼は西欧人(イギリス人)として自国の宗教文化を熟知しているし、西欧全体の宗教事情にも精通している。そして彼の考えでは西欧のみならず、殆ど地球上の全ての宗教が神を志向し、その事実に対して妄想であるとしている。と言うことは我々日本人もその中に含まれるということになるが、そのことは後に詳述することにして、ドーキンス自身は、私たちが志向する神、つまりカミガミではない文化圏の人であるし、その立場からまず一神教を否定し、その延長線上で、仏教その他の宗教心を否定するのだ。
 さてミシェル・アンリはどうだろう?彼は確かに有神論者である。しかし彼をもし一言で定義づけるのなら(それがいささか強引であるということを承知で敢えてそうすれば)寧ろ神学論者である。
 つまりアンリにとって神とは、ユダヤ神でもないし、ましてやそれ以外のカミガミでもない。それは端的にイエス・キリストその人一人であり、その人の人性=神性そのもののことである。この点では彼をイギリスにおけるC・S・ルイスと同じような立場にある「フランス人」であると考えてもよいだろう。そしてアンリの考えではキリスト教倫理全体の尊崇というものがまず前提としてあり(少なくとも生涯を通して確認出来る資質としては)、彼の哲学の骨子には、明らかに現象学の普及と、キリスト教倫理世界との融合が確認出来る。それは初期著作から晩年のものにまで通底している。
 ドーキンスは、飯田隆が「ウィトゲンシュタイン」で『ソクラテスが、皆が知っていると思っていることが、本当は知らないことなのであるということを伝えようとしたとすれば、明らかにウィトゲンシュタインは皆が知らないと思っていることの多くが、実は皆がよく知っているのに、何らかの障害によって知らないこと、つまり神秘的なことと思えてしまうということを問題とした』ということが正しいとすれば、アンリはキリスト教倫理の持つ説得力を曲解から開放して論説し、ドーキンスはその説得力を認めた上で、神そのものの存在を否定した、と言うことが出来る。
 哲学者であるアンリが仮に自分では神を信じていたとしても(実際はそうなのだが)、そうでなかったとしても(事実彼は無神論者に自分のテクストを読んで欲しくないという風には書いていない。)神の存在証明、不在証明(つまり神の存在証明の反証可能性を証明するということ)如何が最も大きな命題ではなかったように私には思える。
 その点ドーキンスは一生物学者であり、それ故科学者としての職業的使命から神の不在証明をする必要があった。ここに哲学者と科学者のライトモティーフの違いが横たわっている。
 しかしだからと言ってアンリに科学的洞察力が欠如していたとか、ドーキンスに哲学的洞察力が欠如していたとは決して言えない。
 例えば「受肉」(法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス868中敬夫訳)中第一部、第四、第五節においてアンリは次のように述べている。
 「存在を引き渡すのは現象性である。」(73ページより)
 「しかし、まず、こう自問することにしよう。かくもありそうもない状況に、存在と現れることとのこのような相互排除に、われわれを現前せしめるようなただひとつの事例、ただひとつの実例でも、ひとは引証することができるだろうか?」(73~74ページより)
 「現れることと同じだけ、それだけ非実在がある。」(78ページより)
 「たとえあらゆる見‐させることを可能にする現われることの欠如を言語が再生しているとしても何を驚くことがあろうか。」(79ページより)
 最後の二つでは言語は語られ、指示されるものを通して、語られない(意志)、語られ得ない(可能)もの、及び指示されない(意志)、指示され得ない(可能)ものを自ずと(好むと好まざるとにかかわらず)語る、ということを述べているのだ。このことはレヴィナスの「存在の彼方へ」中に幾つか共通する主張が読み取れる。例えば次のような言説と比較してみよう。
 ①「<語ること>は<語られたこと>の肯定であると共に<語られたこと>の撤回でもあるのだ。還元は括弧入れによってなされるものではありえない。むしろ逆に、括弧のほうがエクリチュールの所産であり、還元は存在することを倫理的に中断するエネルギーによってつちかわれているのだ。」(115ページより)
 ②「語りえない<語ること>さえ<語られたこと>にゆだねられている。」(116ページより)
 ③「還元をつうじて、<語ること>の意味にも溯行することができるのは、現出するもの、言い換えるなら、存在すること、ならびに主題化されたエオンを起点とすることによってのみであり、_存在すること、ないし主題化されたエオンについてのみ、現出は存在しうる。だが、現出に問いかける視線は一つに集約しえないものの不可能な共時化、メルロ・ポンティーのいう根源的歴史性にすぎない。近さの隔時性は、この根源的歴史性からすでにこぼれ落ちているのだ。」(117ページより)
 ④「<語ること>、それは剥きだしにされた皮膚の呼吸そのものであり、この呼吸はどんな志向にも先だっているのだ。」(126ページより)
 ⑤「(前略)<語られたこと>はそれに先だつ知に付加されるものではない。<語られたこと>は知のもっとも奥深い能動性であり、知の象徴性そのものである。」(155ページより)
 ⑥「主体性は感受性であり、他人たちへの曝露であり、他人たちへの近さゆえの可傷性と責任であり、他人のために身代わりになる一者、言い換えるなら意味である。質量とは「他のために」同時性の体系‐言語学的体系‐のうちで<語られたこと>として現出するに先だって、意味が意味する仕方である。だからこそ主体は血肉をそなえた主体として、飢えを覚える人間として、自分の口にくわえられたパンを贈与し、自分の皮膚を贈与することができるのだ。」(187ページより)
 ⑦「語られた主体性が現れる場としての普遍性にとどまることなく、哲学者は隣人によって強迫される主体性でありつづける。(後略)」(201ページより)
 ⑧「ある存在を意識するとき、私たちはつねに、一個の理念性を媒介とし、<語られたこと>を起点として、この存在を把握していることになろう。個的な経験的存在への接近でさえ、ロゴスの理念性を介してなされるのだ。」(233ページより)
 
 取り敢えずこれくらいに留めて、少し検証してみよう。(またレヴィナスの<語ること>についての記述は詳述する。)
 それにしても今レヴィナスを読み返してみると、アンリの方がより「存在の彼方へ」を意識して書いてのではないかとさえ⑥においてより私たちにその共通性を感じさせる。アンリは「受肉」の冒頭で、「テーブルのうえに置かれた茶碗は、自らを私に示す。それでも、テーブルも茶碗も、それら自身によっては、「諸現象」というそれらの条件のうちに自らをもたらす力量を、有していない」として人間としての存在者たちが物質と異なるのが肉によって存在を覚知することに他ならないと考えている。
 レヴィナスが言う「語ること」とは主体の語りであると同時に神の語りであり、神との語らいである。しかも「書かれたもの」とは自らの意志を綴るものと同時に聖書である。そして彼にとってそれらは他者、隣人に纏わる思惟と一体化したものなのである。そしてそれは神との契約を果たすべく生を生きる存在者にとっての語りという位相から捉えなくてはならないだろう。そして彼にとってそれは隣人にとっても、他者にとってもそうあるべきであるという視点から語られる隣人であり、他者である。
 その点アンリにおいて他者は自己との壁をレヴィナスほど大きく感じさせはしない。そういうところはメルロ・ポンティーにとっての他者と近い。それはレヴィナスがディアスポラを経験したユダヤ人であったということから来る特殊な青春から紡ぎ出された思想であるということだけに起因するのでもないだろう。哲学者は自ら自らの信条と神を選び取る。そういう意味ではレジスタンスの経験を持つアンリがキリストに原体験として邂逅することの意味は、恐らくレヴィナス同様体験としての会得という面だけではなく、自らが出会ったテクストや哲学的思惟との折り合いから決定されていったものであろう。アンリもまたある意味では神をキリストだけに限定しているわけではないものの、その神とはより現実社会において私たちの日常において語りかけてくる筈のものであっただろう。そういう点ではレヴィナスの語る神と相同のものを持っている。つまり私たちが目撃し得るこの二人の哲学者間の共通性と異質性とは、哲学者としての資質と、同時代の同テクストから受けた洗礼と、これが大切なことであるが、私たち自身の彼らに対する眼差しによって理解されるのだ。確かに「受肉」の翻訳者である中敬夫氏のご指摘されるようにレヴィナスほどの他者哲学的ニュアンスはアンリにはない。しかしアンリの哲学には自己‐他者という位相からではない、人間と自然との出会いという観点からの洞察がよく表されている。例えば次の一説にそれを読み取ることが出来る。
 「(前略)つまり神は、自らを顕現するために、世界を創造したのである。このような顕現がもつ現象学的構造は、明晰に指摘される。この構造は、ひとつの客観化のうちに、世界の客観化のうちに存しているのであって、したがって_ギリシャにおいてと同様、ルネサンスのこの終末においても_顕現を出現せしめるのは、自己の外へ自己を立てることなのである。この場合、問題とされているのは、神の顕現_ベーメが神の<知恵>(<言>の別名)と呼ぶ顕現_であるからには、してみると神の<知恵>が産出されるのは、或る第一次的な<外>の客観化としてなのである。」(「受肉」79ページより)

 ところでリチャード・ドーキンスは「神は妄想である」において、欧米では多神論は原始的であるとされているとし、更に
「汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論である。」
 と述べている。
 そしてアンリの指摘(「受肉」72ページより)、
「『聖書』の語っている光、義人たちのうえにも悪人たちのうえにも光り輝く光のように、世界の現れることは、それが照らし出すあらゆるものを、諸事物や諸人格を特別扱いすることなく、或る恐るべき中立性のうちに照らし出す。犠牲者たちや死刑執行人たちが、慈善行為や大虐殺が、諸規則や諸例外が、そして権力の濫用、風、水、地が、「有る(Il y a)」と言うことによってわれわれが表現している究極的な有り様において、われわれのまえに位置しているのである。」(同書、72ページより)
 これは明らかに有神論の矛盾である。神は完璧である筈である。しかしそれは人間にとって完全であるという意味においてだけではないだろう。そこに私たちにとって神を信じることの苦悩がある。
 ところで私たちはアンリが「現出の本質」で主張しているように、全てのメタ認知に関して、そのメタ認知そのものを支えている感情までをメタ認知することは出来ない。つまりもしそれが出来るとしたら、今現在の感情ではなく、少し過去に遡ったそれである。つまりこのすこしずつ感情そのものの方が、感情そのものをメタ認知しようと試みる我々に対して先んじているということそのものの支配から我々は決して自由にはなれない。
 脳科学者の茂木健一郎氏は自著「脳と創造性」(PHP研究所刊)において現代では脳において感情はそれが表立って際立った感情ではない冷静な場合でも、尚感情そのものが思考を支えているという考えにおいて脳を理解する方向に来ていると言う。
 つまり脳が感情という原始的な脳幹、小脳といったより基本的ホメオスタシスにかかわる部位によって行動を誘引しているとしたら、その意志決定の合理化において意識レヴェルで我々にその決定を納得させるものとして前頭葉が存在しているのではないだろうか?このことは多くの脳科学者たちの指摘しているところである。つまり認識や思考や理性以前に無意識レヴェルでの脳の感情コントロール機能がまずあって、その後前頭葉が理性とか意識の味付けをしている(それは進化論的順序で言っているのであり、現在の人間の脳作用で言っているのではない)というわけである。
 すると我々はその「感情が我々の思考を支えている」という事実を認知しようとしても、その認知そのものを支える感情を更に認知する必要が生じ、つまり意識の志向性を意識することは、その意識すること自体を意識する志向性を意識する必要性を生じさせるように、無限後退をきたすこととなる。つまり意識の志向性はそれ自体が意識内容に転化した瞬間から、その意識志向性を意識内容と化すもう一つの意識が立ち現れ、といった無限後退を余儀なくさせるのだ。だから我々は認知そのものもまで感情に支えられているという事実を知ると、茂木氏が常々主張されているように、脳の作用を認知しようとする我々の思考もまた脳によって行われているという認知を我々に呼び戻し、そこでも無限後退をすることと相同のメカニズムがあるということが了解される。
 アンリが示した「存在を引き渡すのは現象性である。」(73ページより)と「しかし、まず、こう自問することにしよう。かくもありそうもない状況に、存在と現れることとのこのような相互排除に、われわれを現前せしめるようなただひとつの事例、ただひとつの実例でも、ひとは引証することができるだろうか?」(73~74ページより)という二つの言説は、その前に諸事物と諸事物が自ら示す仕様、諸現象と純粋諸現象性との区別を、ハイデッガーが「世界‐内‐存在」として無効化する認識以前的には矛盾として立ちはだかっているということをアンリは指摘している。(第四節)
 アンリの言う存在とは存在してしまっているその事実のことであり、現れることとはそのような状態になりつつあるその動的事態のことである。しかし後者の言説によってその二つを容易に峻別する術は我々にはないと彼は示している。つまりそれが示すこととは私たちがある一つの事実、出来事に対して異なった二つの認識から証明を当てて、その際に出来る影を利用して言説しているだけだということなのである。「存在」は事実や出来事を必然化作用として解釈すること、そして名詞的に静止画像として捉えること、そして「現れる」ことは、端的に事実や出来事を生起しつつあるその状態として、つまり偶然的にその事実の観察者からすれば捉えること、そして動詞的に再生することである。
 全ての事実を偶然と必然双方の見方から一つの言説の中に閉じ込める手法そのものは既に龍樹の編纂とされる「中論」に顕著に見られる態度である。そして恐らくその認識に洋の東西はない。
 このことはメタ認知そのもののあるレヴェル、つまり感情そのものを客観的に認識するその認識そのものを客観視した時、陥る無限後退という現実を直ちに我々に想起させずにはおかない。と言うのも「今起きつつある出来事」とは、即座に過去に後退してゆくが、未来も常に我々の現在には押し寄せてきており、その二つは常に交差的であり、決して区別出来るものではない。今起きたことが既に過去になった時、さきほどまで未来であったことが現在になり、更に未来に対して我々が思いを馳せる時、そこに立ち現れるのは過去に起きたことの想起である。
 つまり私たちは何ものかに対してメタ認知を行う時、必ずそのメタ認知をしようと思う自我を払拭することが出来ずにいる。そういう意味ではドーキンスが宗教自体を批判し、神の不在を証明しようと試みる時、不可避的に立ちはだかる自分自身の幼児期の宗教体験抜きに語ることが出来ないと自覚していた筈であるが、その反宗教、反有神論的スタンスそれ自体を支える自らの感情から彼もまた自由ではない。
 ここにラッセルのパラドックスを持ち出すことは無意味ではあるまい。(注釈及び結論<私の採る立場>を参照されたし。)

 この章では私はアンリの中にある科学者的認識力と、ドーキンスの中にある哲学者的視点について考えようと当初思っていたのだが、ドーキンスに関しては性悪説的な哲学系譜からの水脈として位置づけられるような軍拡競争進化論に重きを置いて考えてみたが、これとて哲学者とか科学者といった位置づけを無効にするようなもっと普遍的な認識方法からのものである。そういった意味で現代ほど哲学、論理学、倫理学、生物学といった分野が合流したり、融合したりしやすい時代はないのかも知れない。
 その最も基本的な認識方法として主観と客観の問題がアンリにも「現出の本質」期以降晩年に至るまでネックになっていた。例えば「受肉」80ページの
 「このような状況を、われわれは、世界の現れることの実在論的赤貧(この現れることが、そこにおいて現れるものについて、釈明することができないという無能)として記述したわけなのだが、一方では可視化の一地平の客観化という、他方ではこの地平のうちで可視的になるべく要請されている具体的内容の創造という、まったく異なる二つの力能が、同じひとつの神学的‐形而上学的審級に帰属せしめられ、かくして混同されているのである。しかしながら、世界が或る差異化されない空虚な場とは別のものであるためには、或る「自然」、或る「物体[身体]」_或る存在者_が世界の現れることに付加されねばならない、ということを示すことによって、ベーメは、それ自身に引き渡されたこのような現れることの欠乏を、同時に告発しているのである。ここでは神の権能は、客観化としての客観化の無力を包み隠すことにしか、役だ立たないのである。」
 という記述から了解されるように、彼は明らかに神学的論理性を、知覚生理学的視点と一致させることを試みている。可視化の一地平を取り敢えずデカルト座標と、ユークリッド幾何随順的遠近感といったものと考えてみよう。するとその可視空間上での生成的事実が、具体的な主体にとっての関心事となるという「世界」の事実が、私たちがアンリの記述から読み取れる関係であり、それは恐らく一方が主体となれば他方が脇役となり、その逆も成り立つという客観化と主観性の問題を誘発するが、実際メタ認知のメタ認知としての定義上、我々は自分の世界の「世界」化しか方法を持たない。しかし現代の脳科学その他の自然科学分野によるさまざまな証明によって徐々に従来型の客観が陳腐な幻想であるということが明確化してきたので、その発端を作った一人であるドーキンスの利己的遺伝子説も、アンリの言う空虚ならざる意味化された場であり得るために、主体の欲求を、生物学的に言えば適応的進化として捉えることが求められている。その際に客観化の無力を知ることがまず手始めとなるという主張としてアンリの神学‐自然科学一致志向の考え方を理解することが出来る。
 そしてアンリの現代脳科学を先取りしていたかの感もある次の記述から、我々は次章から存在者の主体的欲求と感覚の関係の問題により切り込むこととなろう。
 「(前略)われわれにとって重要なもの、『批判』が繰り返し述べているテーゼとは、これら多様な見させることの、結合された整合的な行為において、世界を現象学的に形成する働きは、それ自身によっては永遠に、この世界の具体的内容を構成する実在を、立てることができないということである_カントはこの実在を、感覚に求めなければならなかったのである。」(82ページより)
 「(前略)フッサールの言語でいうなら、一方で対象のうえに統握され、見えない色彩(Emprifindungsfarbe [感覚色彩])とを、区別すべきなのである。ところで、色彩の実在性はもっぱら、色彩がわれわれのうちで感じ取られるところ、印象的ないし感覚的な色彩のうち、感覚色彩(Emprifindungsfarbe)のうちにのみ位置している。カントにおいてと同様に逆説的な、しかし等しく明示的な仕方で、感性的世界[感覚界]の実在的内容は、感性的世界の現象学的構造_一方[カント]においては表‐象、他方[フッサール]においては志向性_の管轄に属しているのではなく、印象の管轄にのみ属しているのである。」(83ページより)
 

Friday, October 23, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」3、ダライ・ラマとウィトゲンシュタインの相関性とドーパミン

 私はかつてダライ・ラマ十四世<テンジン・ギャムツウォ>のテクストを文庫本で読み(「ダライ・ラマの仏教入門心は死を超えて存続する」)感動したことがある。そのことを思い出すのに多少時間がかかったのは、私が当時そのテクストを読む前に既に読んでいた幾つかのウィトゲンシュタイン(哲学者)のテクストとの私に感じられた大いなる共通性をテーマとした「ウィトゲンシュタインとダライ・ラマ」という短い論文を書いていたことがあるのだが、当時黒崎宏氏の論文に「竜樹とウィトゲンシュタイン」というものがあり、つまり西欧哲学と東洋哲学の邂逅というテーマのものは既に多くの著作が世に出ていて私がその当時「これはなかなかいい着眼だぞ。」という考えが直ぐに無残に打ち砕かれて、論文を発表することをやめることにして、その後ウィトゲンシュタイン以外の多くの哲学テクストを読み(その中にはその当時読んではいなかったカントとか西田幾多郎とか大勢の巨匠たちがいる。)それから再びその当時抱いた感想についてもう一度振り返ってみようという思いが私にあったからである。
 ウィトゲンシュタインが近代以降の哲学者として歴史的な文脈で語られる時、彼固有の世界像という捉え方があるように思われる。例えばそれは世界の限界といった「論理哲学論考」期の捉え方から、中期の言語ゲーム理論とか、後期の私的言語理論とかの生涯を通した彼のライトモティーフからも読み取れる。彼は写像という概念を初期の段階で捨て去り、それ以降はあまり使用しなくなったが、この写像という概念の初期使用は私の考えでは後期になってその語彙を使用しなくなっても尚どこかに資質的には濃厚に彩られていると今では感じられる。それは一体どういうことなのだろうか?そして私が始めてダライ・ラマのテクストに接した時に抱いたウィトゲンシュタインとの共通性とは一体何だったのだろうか、ということを考えながら今日の脳生理学とか脳神経学が注目する考えの幾つかの例を挙げながら、私の考える原羞恥と原音楽という考え方に結び付けてみようと思う。
 まず私たちの時代に近い、つまり現存者であるところのダライ・ラマ十四世の生年から辿る時代背景を探り、その後ウィトゲンシュタインの生年から辿り、その両者の相違と共通性を考えていってみよう。
 ダライ・ラマ十四世(以後ダライ・ラマとだけ省略する。)は1935年7月6日にチベット北東部タクツウェルに生まれた。因みにこの同じ年には色々な人が誕生している。この年は日本の年号からすれば昭和十年である。まず出色な天才から言えば同年の1月8日にエルヴィス・プレスリーが誕生している。音楽畑では小沢征邇(9/1)が誕生しているし、思想界からはエドワード・サイード(11/1)が、また文学者あるいは作家系列からは大勢同年生まれにいる。例えば阿刀田高(1/13)、大江健三郎(1/3)、大藪春彦(2/22)、畑正憲(4/17)、園山俊二(4/23)、久世光彦(4/17)、ジェームズ三木(6/10)、フランソワーズ・サガン(6/21)、赤塚不二夫(91/14)、倉橋由美子(10/10)、マイケル・ウィナー(10/30)、ウッディー・アレン(12/1)、寺山修司(12/10)といったところ。あるいはスポーツ界からは仰木彬(4/29)、野村克也(6/23)、杉浦忠(9/17)、土橋正幸(12/5)といったところである。芸能界、放送界からは三輪明宏(5/29)、筑紫哲也(6/23)、吉行和子(8/9)、八名信夫<元野球選手>(8/19)、田宮二郎(8/25)、浜木綿子(10/31)といったところである。政治界からは羽田孜元首相が誕生している。
 この時代は第二次世界大戦が幼少期にあり、彼等は終戦の年に皆10歳を迎えている。そういう意味では極めて戦後世界の秩序が再編された時代の空気を肌で感じ取っていた世代と言える。
 それに対してルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年4月26日~1951年4月29日)(因みに彼と同年に亡くなった著名人もいるのだろうが没年というのはその人にとってプライヴェートなだけであり、公的なその人の時代的性格には関係ないものと見做し一切記載しなかった。)と同年には次のような人々がいる。
 作家、思想家、芸術家系列では夢野久作(1/4)、ヴィクター・フレミング(2/23)、岡本かの子(3/1)、和辻哲郎(3/1)、柳宗悦(3/21)、アーノルド・J・トインビー(4/14)、チャーリー・チャップリン(4/16)、内田百閒(5/29)、室生犀星(8/1)、国吉康雄(9/1)、マルチン・ハイデガー(9/26)、そして政治界、実業界、その他では石原莞爾(1/18)、堤康次郎(3/7)、木戸幸一(7/18)、熊沢寛道<熊沢天皇>(12/8)、そして科学者では山本一清<天文学者>が(5/27)というラインナップである。
 ここに列挙したリストは全てインターネット上のウィキペディアによるものである。しかし私自身の個人的な調べにおいても半数以上私はウィキペディアを見る以前からデータとしては知っていた。つまりある年には枚挙に暇がないくらいに著名人が誕生しているかと思えば、全くそういうことのない年もあるということはあるのだ。そしてこの二人に共通しているところは、同じ年に傑出した天才が多く生まれている、ということである。尤もそのことを述べるのがこの章の目的ではないので先を急ごう。
 生年月日の順から言えば、ウィトゲンシュタインという哲学者は、哲学界からも、それ以外の思想界、言語学界からも、科学者からも絶大な影響力を戦後に齎したが、彼自身は天才であるという自覚を持っていたが、哲学者としての正当な順序を踏んだ、要するに順当な道筋を踏んだ天才ではなかった。事実彼は彼を先輩と仰ぐ俊才ギルバート・ライルにとっては、尊敬すべき先達であるものの、その異端性において「自分は哲学者の名前を殆ど知らない。」という正当的手続きを踏まないでも尚天才的閃きの人間であることをことある毎に強調するような取り巻き連中に対する教祖的態度にいささか業を煮やしたという逸話も残っている。つまりライルはウィトゲンシュタインほどの天才ではないが、かと言ってどうでもいい哲学者ではない。寧ろある意味ではウィトゲンシュタイン以上の正当的な手続きを踏んだ哲学者であり、とりわけデカルト的な視座においては遥かウィトゲンシュタインを凌駕するものがある。つまりウィトゲンシュタインは異端的でありながら普遍的なことをメッセージとして残した天才であるということである。
 一方ダライ・ラマは正当的な評価と尊敬心を集める偉大な思想家と現代では目されている。彼についてのデータに関しても実はかなり詳細に発見出来るのだけれど、ここではダライ・ラマの歴史的事実を探求する政治的目的があるわけではないので、最小限に留め、ネット検索で主だったものだけを記載しておこう。
 1989年にノーベル平和賞を受賞したチベットのゲルク派の最高位、仏教博士号(ゲシェ・ラランバ)を持つ僧侶で、チベット仏教全宗派の教えを継承し、研鑽を積む。教え・実践両面に渡り、最高権威者(チューム・ギャルポ、法王)として広く認められている。チベット亡命政府指導者。チベット亡命政府とは1949年中国人民解放軍がチベットへ侵攻、1956年勃発した「チベット動乱」を経、1959年3月17日隣国インドへ政治亡命する。(23歳の時)彼は出自としては士族の農家に生まれ、2歳で13世ダライ・ラマ、トプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンベル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。現在インドにチベット亡命政府樹立、チベットの高度の自治権を主張、度々日、米、欧州諸国各地へと世界平和、チベット国家の平和樹立に関する講演、運動のため訪問、その度に中国政府からその国々に外交ルートを通して横槍が入り、外交問題化してきている。然し中国と国交を結ぶ各国指導者や著名人の中にも支持者多く、それが評価され1989年ノーベル平和賞を受賞したが、「ダライ・ラマ14世」は中国政府ネット検閲に掛る禁止ワードであり、ノーベル平和賞受賞に対して完全無視を決込んだだけでなく、関連図書の持込さえ禁止されている。チベット人たちは中国政府によるネット検閲に利得優先で加担した米企業googleを批判している。
 私たちは単にウィトゲンシュタインを哲学、ダライ・ラマを宗教思想と類別して見る癖がついている。しかし今私たちをある危機的状況に立たされているゲーム・プレイヤーだとしよう。(それはしかし現代という時代に立たされている我々にとって昨今特にだが、ある程度事実であるのだが)我々にはオッズが知らされている。そしてそれぞれが賭け金を提示する。その時私たちは負けて全てを失う可能性が高いことを知っていてさえ、私たちにとって長年の相棒であるゲーム・プレイヤー(彼の差し手は他のプレイヤーからここのところ悪評を買ってきている。)にとって得策となる手を打つことを選択することもあるだろう。つまりそのような利他的行動を敢えて選択することで、どこか本能的に好結果を福音として享受することを無意識に待ち望んでいるかのように。それはある意味では自分の愛を失ってしまうことを承知でユジンやチュンサンに互いの愛を貫くように諭すチェリンや自らの愛と真実の告白をせずに一人沈黙したまま渡米しようとするチュンサンの行動をも想起させる。今ウィトゲンシュタインとダライ・ラマをもし仮に同一のフィールドで見極めようとするなら、明らかに二人は利他的自己犠牲に邁進せんと欲するゲーム・プレイヤー理論の推奨者とさえ言えると私は思う。
 そのことを理解するためにまずウィトゲンシュタインのテクストから続いてダライ・ラマのテクストから断章を抜粋しながら、その言わんとする真意について探ってみよう。

「論理哲学論考」

1、1世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。
1、13論理的空間の中にある事実が世界である。
1、2世界は事実へと解体する。
1、21どのことがらも、成立することがらができ、あるいは成立しないことからできる。そしてその余のことがらはすべて同じままでありうる。
2、0271対象とは、不動のもの、存続するものである。対象の配列は、変動するもの、移ろいやすいものである。
2、0272対象の配列が事態を構成する。
2、031事態のうちで対象は特定の仕方で交互に関係する。(ゲームの規則。以後斜字は全てKawaguchiの加筆)
2、032事態のうちで対象が結合する仕方が、事態の構造である。(友情)
2、033事態の形式はその構造の可能性である。(ゲームの展開)
2、13映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。
2、141映像は一つの事実である。(茂木健一郎の視点との共通性)
2、223映像が真であるか偽であるかを知るためには、映像を事実と比較せねばならぬ。(国際情勢の把握)
4、112哲学の目的は、思想の論理的な浄化にある。哲学とは論理ではなく、行動である。
5、135ある状況がなりたつことから、それとまったく異なる他の状況がなりたつことは、いかにしても推理できない。(一回性の原理)
5、1361現在のできごとから未来のできごとを推理することはできない。(確率論)
5、1362未来の行動を現在知りえぬところに、意思の自由が存在する。因果関係が論理的な推論の必然性と同じ内的必然性であるなら、そのときはじめて、われわれは未来の行動を知りうるであろうが。_知る行為と知られたことがらとの関係は、論理的な必然性にもとづく関係である。(AはPがなりたつことを知っている)という命題は、Pが同語反復命題であるとき、意味を欠く。)
5、5421(前略)今日の軽薄な心理学が理解するごとき魂とか主題とかは妄想であることがわかる。じっさい合成された魂などといものは、もはや魂ではあるまい。(全体性の主張)
5、55いまやわれわれは、要素命題の、あらゆる可能な形式についての問いに対して、経験によることなく答えなければならない。
5、6わたくしの言語の限界はわたくしの世界の限界を意味する。(彼の後の独我論や言語ゲーム理論の萌芽。私は「論考」に殆ど全て後の彼の軌跡を兆候させるものがあると考えている。)
5、63私とはわたくしの世界にほかならぬ。(つまり小宇宙)
5、632主体は世界には属さない。それは世界の限界なのだ。
5、634(前略)われわれが見るすべてのものは、それとは別の仕方であってもよかった。事物には、先天的な秩序は存在しない。
5、64ここにおいて、独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致することがわかる。独我論の自我は延長をもたぬ点へと萎縮し、残るものはそれに対応していた実在のみとなる。
5、641だから、心理学とは異なる方法で哲学が問題とすることができる。自我の意味はたしかにある。「世界とは私の世界にほかならぬ」という宣言を通じて、自我な自我。それは人間ではなく、人間の肉体ではなく、心理学のあつかう人間の心ではない。それは形而上学の一郭を形作るものではないのだ。
6、362記述されるものはまた、生起しうる。因果法則が容認せぬものはまた、記述されない。
6、363われわれの経験と調和しうるもっとも単純な法則の存在を認めるところに帰納の手続きがなりたつ。
6、3631しかしこの手続きは論理的な根拠にもとづくものではない。それはたんに心理的な根拠に由来する。
6、37ある事件が起こったからといって、それにともない別のある事件が起こらなければならぬ筋合いはない。必然性は論理的な必然性にかぎられる。
6、372(前略)すべての問題が解明されたごとく思いなすのに比べ、昔の世界観は解明の限界を明瞭に承認していた点、はるかに透徹していた。(現代認知科学のある人々に聞かせたい)
6、373世界はわたしの意志から独立している。
6、4311死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は永遠に終りがない。われわれの視野に限りがないように。
6、4312人間の魂が死後永遠に存続するということ、これにはどんな保証もないし、それどころかこれを仮定したところで、ひとがそこに託した希望はけっして満たされない。そもそも、わたくしが永遠に生き続けることによって、謎が解けるというのか。そのとき、この永遠の生命もまた、現在の生命にひとしく、謎と化さぬか。時間、空間のうちに生きる生の謎の解決は時間、空間のかなたに求められるのだ。
6、44世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。
6、5いい表わすすべのない答えに対しては、また、問いをいい表すすべを知らぬ。
6、52科学上のありとあらゆる問題はいささかも片付かないことをわれわれは感じている。もちろんそのとき、すでにいかなる問いも残っていない。まさにこれこそが解答なのだ。(諦念)
6、521ひとは人生の問題が消滅したとき、その問題が解決したことに気づく。(死だけが問題を解決する。生とは死すまで問題が解決しないことを意味する。)
6、522いい表せぬことが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。それは神秘である。
6、53哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外になにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外になにも語らぬこと。_そして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意識をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はそのひとの意にそわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそ唯一の厳正な方法であると思われる。
6、54(前略)語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(リスク回避としての原羞恥)

「ダライ・ラマの仏教入門」(Meaning of Life)
<数字表記はページ数によるものとする。>

50、(前略)それを探し求めたとき見出すことができないという事実は、ある特定の要素の集合体に基づいて名前が付けられているもの以外には「私」は存在していないということを示しているのです。それでもなお「私」というものは、具体的に指し示すことができるようなもの、非常に具体的なものであるかのように私たちの心に現れてきます。そしてこのような誤った現われに屈するとき、私たちは困難に陥っていくのです。
 「私」が具体的なものであるかのように現れるということと、考察したときにそれを見出すことができないという、この相容れない二つの事実は、「私」というものの現れ方とその実際のあり方の間に食い違いがあることを示しています。(ウィトゲンシュタインの項、2、223と比較せよ。)
51、対象は実体として存在しているように見えるものの、実際にはそのような実体性はないのです。(同じく5、6と5、63と比較せよ。)
86、確かに「全体」なるものは存在しているのです。しかし、それはそれを構成する部分に依存して名付けられたものであり、それ以外のあり方では存在しないのです。(同じく5、5421と比較せよ。)
88~89、たとえば、ダライ・ラマたる「私」は、この体によって区切られた領域の境界内に存在しているものには違いありません。ここ以外のどこにも見出せるはずはありません。これは確かなことで疑う余地はありません。しかしながら、あなたが、本当のダライ・ラマを、本当のテンジン・ギャムツウォを探し求めたとき、この体の中にも心の中にも「私」という実体は存在しないことに気づくはずです。それにもかかわらず、ダライ・ラマの存在は事実であり、それは人間であり、僧侶であり、チベット人であり、言葉をしゃべるものであり、飲み物を飲むものであり、眠るものであり、何かを楽しむことのできるものであるのです。そうではありませんか。このことが「それが見出すことができないにもかかわらず、そのものが存在している」ということを十分に論証しています。
 このことは、「私」という名前の付けられる基礎となっているもののなかには、「私」という観念に対応する実体、あるいはそのように名付けられる具体的な存在はない、ということを意味しているのです。「私」という実体は、その名前を付けられている複数の諸存在の複合体の上に、意識の上に仮に設定されただけの存在なのです。
 しかしこれは、「私」というものが存在しない、ということを意味しているのではありません。「私」は明らかに存在しています。しかし、それが存在しているにもかかわらず、それが占めている空間を構成しているもろもろももの_それに対して「私」という名前が付けられているのですが、それら_のどこを探しても「私」という実体は見出すことができないとき、私たちは次のように考えねばなりません。
 すなわち、その「私」はそれ自身の力によって成立しているのではなく、他の諸条件の力によって成立しているものにすぎない、というように。「私」は、それ以外のどのような仕方でも規定することはできないのです。(同じく5、641と比較せよ。)
90、「私」というものが存在するために依拠しているもろもろの条件のうち、もっとも重要な要素の一つに「概念的思考」があります。それゆえ、「私」あるいは、ほかのさまざまな事物は概念化の力によって存在している、と言われています。(同じく5、64と比較せよ。)
92、(前略)行為の因果関係も可能となり、その行為の基本たる「私」もまた存在することができるようになるのです。それ以外の仕方は「私」は存在することができません。人はこのことを理解したときに、物事が実在しないというニヒリズムに陥るのを免れることができるのです。
94、(前略)仏教は宗教にも純粋な科学にも属しません。しかしこのような状況は、私たち仏教者にとって、信仰と科学の間に橋を架ける絶好の機会を提供していると考えることができるのです。このために、私は、将来、私たちが、宗教と科学というこの二つの勢力を、現在よりももっと密接に関係させるために働かなければならならなくなるだろうと考えています。
98、事物が単に「名前だけの存在」であるということは、それらがまったく存在しないということを意味していません。そうではなく、事物は存在しているものの、それ自身の力で、それ自身の本質によって、それ自身の実体によって存在しているのではないという意味であることに注意してください。(中略)何もないということではなく、また何もないということによって起こる困難もない(後略)(西田哲学との接点)
134、「利他の心」(菩提心)を発現させるもう一つの方法は「自分と他人を同等とみなす利他心」(自他平等心利他行)と呼ばれます。ここであなたは自分と他人とどちらが大切か考えねばなりません。選んでください。他には選択肢はありません。この二つだけです。自分と他人とどちらを大切に感じますか。他のものは数から言えばあなたよりずっと多くて数えきれません。しかし、あなたはたった一人です。あなたも他人も苦しみを望んでいません。幸福を望んでいます。またあなたも他人も生き物であるので、等しく幸福を獲得し、苦しみを乗り越えるべきあらゆる権利を持っています。
 「なぜ私には幸福になる権利があるのか」と問うなら、その究極的な理由は「私が幸福を望んでいる」ことにあります。それ以外の理由はありません。私たちには「私」という生まれながらの強力な感覚があり、「私」という基礎に基づいて幸福を求めています。単にこの感覚だけが私たちが幸福を求める基盤なのです。それは人間の権利でもあり、あらゆる命あるものの権利でもあります。あなたがもしこのような苦しみを克服する権利を持っているのなら、当然あなた以外のすべての命あるものも同じ権利を持っていることになります。加えて、あらゆる命あるものは基本的に苦しみ克服する同様の可能性を与えられています。
 唯一の違いは、あなたは一人で他のものは多数であるという点です。したがって結論はおのずから明らかになります。たとえ一つのささいな問題、一つの小さな苦しみが他のものに起きたとしても、それは無限なのです。
 一方、何かがあなたに起きるときにはそれはあなた一人だけの問題に限られています。このように他のものを同じ命あるものであると見るとき、自分自身というのは大して重要なものではなくなるのです。
174、(前略)他空説は、究極的真実はそれ自身の性質によって存在するものであると主張し、すべての事物は実体として空であるとする中観派をニヒリズムとして蔑視します。チベット仏教のさまざまな学派_ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派_から輩出した優れた学者たちは、このような他空説をとりわけ強く否定します。
194、仏教において修道と同時に存在論が非常に重要な要因なのです。

 この二人の論説には明らかに自己犠牲的な原羞恥的呼び声による賭けという人間の精神が主張されている。まずウィトゲンシュタインが世界が物の寄せ集めではなく、事実の寄せ集めであるとする考えには私たちの存在が私たちを世界に投企する行為性によって世界を変えることの可能性に満ちていることを示している。それは私もそうだし、あなたもそうだし、私たち以外の全ての存在にも言えることである。存在することが私たちによって世界と認識されるものの中にあって尚参加すること、参加することで世界は刻々変わりつつあることの現実を言っているのだ。
 また映像が一つの事実であるなら、私の映像(茂木健一郎的に言えば、私のニューラル・ネットワークの中の私の脳が作り出した世界)も一つの事実であるなら、あなたの映像も、他の全ての人々の、他の全ての生物、生命体にとっての映像(それは視覚知覚能力のない存在者にとっても触角、聴覚、その他で触知し得ることとしての)もまた、全て等しく事実であるということ、それはある皆に共通して見える事象でさえも、その見る位置によって全て異なった様相であることの主張である。だからこそ逆に西田幾多郎が言う次のような言葉が意味あるものとなる。

「知る」ということは「構成する」ということである。
 内容を得るということは必ずしも内容に合うということを意味しておらぬ、我々が意識内容に合うと考える時、既にその内容を構成しているのではなかろうか。例えば「火が熱い」ということは直に経験の内容に一致しているように考えられるが、これは既に構成せられた客観的事実に合うのである、厳密なる直接経験の上では「火が」ということすらもいい得ないであろう。(「自然科学と歴史学」より)
 
 この視点は明らかに脳科学者の茂木健一郎が啓示を受けている。彼は脳内現象として理解すること(彼によればアハ体験)とかセレンデヒピティーを捉えているが、これは西田のこの部分の主張と多く重なる。西田にとって知ることとは、知るような脳内作用を発現すること、つまりニューラル・ネットワークの作用を得ることなのだ。そしてそれはウィトゲンシュイタンが世界を事実と捉えた視点が、丁度世界を認識する脳内現象であるような意味でセレンディピティーを体得することであるとも言える。また興味深いことには西田のライヴァルでもあった鈴木大拙は「日本的霊性」において次にように言っているが、彼の主張にもまた西田の構成するということの意味と共通する考えが見出せるのだ。
 
 神道は惰性的世界にいながら霊性的世界を概念で現出させようとする。そこに物足らぬところが感ぜられるのである。それは絶対愛の動きが日本的霊性の上で感じられるという経験的事実が、まだそこにないからである。
 大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。
 絶対的愛の霊性的直覚はかくの如き観念性の下地からは芽生えぬ。ことに日本的霊性は具体的事実のうえに育てられているであるから、その事実の動かぬところでは働き出ないのである。日本人の霊性的直覚は文字や記録の詮索ではない、それから生まれるものは知性的である。知性に大いに大事であることは、もとより疑いを容れないのであるが、知性は霊性的直覚のなかから出てほしいのである。(中略)惰性的直覚を説くものも知性の言挙げを忌むが、それは霊性からするものと同一系列には属さないということを、深く記憶しておかなくてはならぬ。
 
 鈴木の言う霊性とは西田の言う構成することに他ならない。西田の言う客観的事実とは鈴木の言う経験的事実と相同であり、それは科学的認識である。次章で詳しく論じるがテクスト論的に言えば、哲学は「世界」であり、科学は「世界について」である。そして霊性も構成することも、共に世界を持つことである。鈴木は惰性を霊性を獲得するための下地であると捉えている。そしてそれを概念で現出させようとするところに姑息さを感じている。これはウィトゲンシュタインが世界を事実と受け取り、事実を構成する我々が主体的に行動することの意味を訴えていることと相通じる。そしてそれは134ページのダライ・ラマの格言にも通じる自己犠牲精神の原点とも言える。滅私奉公ということには、奉仕ということには幾分そういう面があり、それはルソーが「社会契約論」で述べた一般意志(彼によれば特殊意志と対立する。特殊意志とは個人の欲望的なエゴイズムであるのに対して、これは自己利益優先主義の放棄から得られる。)の発現と捉えることが出来る。
 しかし人間はなぜ自己滅却的に奉仕するのだろうか?私はここに人間固有のギャンブル的感性の発露を見るのだ。このことについては茂木健一郎の諸著作において述べられているペンギンの例をまず挙げるのがいいだろう。ペンギンは氷の上から海中に飛び込むべきか、未だ猶予すべきか常に他個体のペンギンに先へ行けと促しているように見えるが、これはもし海中に飛び込み海豹に捕食されるかも知れない可能性と、そのためにいつまでも氷上にいれば飢えてしまうという必然性との間で常に揺れ動き、決心がつかないでいるということを茂木は繰り返し述べている。このことは脳科学的見地からも重要なキーが隠されているのだろう。つまりこういうことである。躊躇とはそれが正しいと判っていながら、そのことで得る報酬以前に損害を被ることに対する失敗可能性に対する着眼が齎す恐怖に起因するのだ。それは文化とか歴史全般にも言える。鈴木大拙は日本は平安時代には未だ本格的な日本的霊性には突入しておらず、鎌倉時代以降初めて真に普遍的なるが故に真に日本的でもあるところの霊性を獲得したと捉えた。これはそれ以前の時代を前哨戦として、つまり躊躇が払拭されていない時代として捉えていることを意味する。
茂木健一郎は著書「脳と創造性この「この私」というクオリアへ」でかつて西田幾多郎が毎日散歩していた「哲学の道」を自分で歩いた時、あまり哲学的思考に至らなかったことを告白し、そのことを後日自分にとって珍しい観光地でもあるそこでさまざまな余計な新奇さに対する目移りという事態が日常性を非日常性へと転換させ、哲学的思考を阻んでいたと述べている。つまり日常的に見慣れた景色でこそ我々はジャ・メ・ヴュを得ることが出来るというわけである。これはもう一つのセレンディピティーである。セレンディピティーとは偶然の発見をなす人間の能力であり、脳科学で昨今注目を集めているという。
 しかし海中に先に飛び込むペンギン個体がいればこそ、先鞭をつけてくれる個体に付き従う従者を呼ぶわけだが、実際人間社会でも先鞭を付けた者は尊敬され、それに付き従う者は先鞭者の追随者であると言われる。勿論偉大な弟子というものはいつの世にもいるが、やはり先鞭を付けた者の方が大体高く評価される。しかし先に飛び込むペンギンのような者は傷を負うかも知れないし、殺されるかも知れない危険と隣り合わせである。そういう万が一の可能性に賭けて飛び込む勇気は、それに伴うリスクを承知でことを始めるわけだから、リスクの可能性を考慮に入れると躊躇せざるを得ない。しかしその躊躇を打破するものがギャンブル的感性による快楽授受の選択である。
 しかしそれではウィトゲンシュタインは最後の章で述べているようにリスク回避主義者ではないかと思われる向きもあろうかと思うが、実はそうではないのだ。というのも彼はこの6、54の最後文の前でこう述べているのだから。
 
 読者はこの書物を乗り越えねばならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。

 つまり我々はウィトゲンシュタインを哲学者として考える時、そこに行動をすることを主張した論者の姿を見つけることが出来る。知ることが構成することである西田の論理も、このウィトゲンシュタインの論理も、そしてダライ・ラマの利他的行動の薦めも実は皆同一線上の主張であることが分かる。私は私以外の全てとの相関性で私であり得るという彼の主張(88~89ページ)は脳内の神経作用であるところのあるニューロンの発火現象は、脳内全体のニューロンの状態との相関性においてある作用の意味を持つことであり、それは丁度ドーキンスが遺伝子の遺伝子座による遺伝子全体におけるある遺伝子の組み合わせの相対的在り方によって発現するという認識と相同のメカニズム認識を見ることが出来る。それは自己が自己を取り巻く自然環境や社会環境の中で自己という位置を認識し、外界との関係において自己の在り方全般を知ることと論理的に相同である。その意味では人間であろうと動物であろうと自と他、自と世界全体という関係の存在論(まさに194ページの言うように)においては変わりないということを示している。ただ我々人間は言語的にそれを認識し得るのみである。
 しかし思い切って飛び込むペンギンのような行動はある安定をぶち破る時ギャンブル的感性を呼ぶが、それを行為選択における意志決定合理化として後押しするものは、ギャンブルの際に脳内に放出するドーパミンの作用である。それはある種の快楽的作用を伴うのではないだろうか?ここで三つばかりの例を挙げることは無意味ではないだろう。
 英国の動物学者のマット・リドレーは次のように述べている。
「雌のマウスに子を与えると、初めは無視するが、次第に母親らしく接するようになる。この反応が起きる速さは、マウスによって大きく違い、やはり赤ん坊のころによく舐められたマウスほどすばやく反応する。マイケル・ミーニーによるこの研究結果は、これにかかわる遺伝子がオキシトシン受容体の遺伝子である可能性を示唆している。赤ん坊のときによく舐められたマウスは、この遺伝子のスイッチがオンになりやすくなっているのだ。幼いころ舐められると、なぜかこの遺伝子のエストロゲンに対する感度が変化する。実際の仕組みはわからないが、脳内のドーパミン系が関係しているのかもしれない。ドーパミンはエスロゲンとそっくりの働きをするのだ。すると話は一層込み入ってくる。幼いころ母親の愛情を受けないと、ドーパミン系の発達にかかわる遺伝子の発現が変化すると考えれば、恵まれない環境で育った動物がある種の薬物に依存しやくすくなるのもわかる。薬物が、ドーパミン系を通じて精神に影響を与えているのである。」
 このことから我々はドーパミンが通常のレヴェルで放出されると逆にそれほど大きな逸脱をすることなく、精神は安定していると捉えることが可能である。オキシトシン(平滑筋<主に内臓、血管を構成する不随筋で、単核の細胞からなる。縦(横紋構造)が見られないのでそう呼ばれる。>の収縮を引き起こす。九個のアミン酸による環状ペプチドホルモン。下垂体後葉から分泌される。ОTと略。)がエストロゲンに対して感度よく作用することそれ自体をドーパミンが請け負っていると考えることが出来る。つまりドーパミンという物質は、よく言われる報酬に対する期待によって放出されるという一般的通念を遥かに超える作用を有しているということになる。
 ドーパミンとはカテコール・アミンの一種でジヒドロキシフェニルアミン、あるいはヒドロキシチラミン、L―ドーパの脱炭酸(有機酸のカルボキシル基<カルボン酸基の_CООH基>からCО2が脱離すること。アミノ酸が脱炭酸によりアミンとCО2生成するのがその例)で形成される神経伝達物質である。ドーパミンの欠失はパーキンソン病の特徴の一つである。ドーパミンはチロシン代謝における中間体(中間<代謝物>物、反応に関与し、反応の出発物質と最終生成物の間に生ずる化合物。代謝では、中間物は一方で栄養物質との間で、他方で細胞成分や老廃物との間で生ずる。)である。そしてやはり英国のライター、ローワン・フーパーは次のように語る。
「スイスのフライブルグ大学のクリストファー・フィリオら実験によれば、報酬への期待だけでなく、”不確かさ”に対してもドーパミンが働いていることが示された。フィリオはパブロフが犬を訓練したのと似た方法で、サルを条件づけた。ベルの代わりにヴィジュアル・イメージをつかい、ある種の視覚的刺激を見せた後にシロップを与える。しかし常に同じ報酬を用意したわけではない。研究者たちは、サルにシロップを与える確率をさまざまに変えてみた。つまり、実験に”不確かさ”の要素を導入したのである。
 コンピュータのモニターに5つの視覚刺激(映像パターン)を映し出し、ご褒美が貰える(映像が表示された数秒後にシロップが出る)チャンスをそれぞれ100、75、50、25、0パーセントとした。サルたちが唇を嘗める頻度は絵柄によって差があった。ということはサルたちは映像の違いを認識できたということだ。
 結果は驚くべきものだった。研究者たちが見いだしたのは、不確かさが最高に達したとき(シロップを貰える確率がわずか25パーセントのとき)ほぼ30パーセントものドーパミン・ニューロンが活動を増進させたことだった。さらにご褒美のシロップを増量したときにも、ニューロンの働きは強化された。
 いくつかのニューロンは、報酬が貰えるかどうかが、より"不確か"になったときに、より多くのドーパミンを放出した。フィリオら研究者たちは、脳のこうした働きは、不確実な状況に直面した際の集中力や学習力を増大させうるものだと示唆している。
 彼らは、ドーパミンの増加はギャンブルの快楽的側面に関係していると考えている。この指摘は信じがたいものではない。というのもドーパミンは薬物中毒に関係しているからだ。ギャンブルも、多くの人間に中毒症状を引き起こす。
 もちろん人間の脳は、カジノがたくさんあるような環境で進化してきたわけではない(ラスヴェガスに住んでいる人はいるとしても)。パチンコ店やルーレット盤やスロット・マシーンに取り囲まれて、今日ではさらにインターネット・ギャンブルやヴァーチャル・レースの誘惑も加わって、脳内の化学物質は私たちを無益な行動に駆り立てているのかもしれない••••••。
 「リスク・テイキングな行為は、実験室やカジノでは不適当行動かもしれない」とフィオリロと共同研究者たちは書く。「しかし確率がきまりきってしまい、もはや有益な学習ができないような場合には、あえて危険をおかすことが自然環境を生き抜く上で有益になりうる。野生の環境では、さまざまな刺激や情報を深く学習することが望ましい。それらは報酬の確かな前ぶれとなりうるのだから」
 自然環境ではリスク・テイキングな行動は有用である。不確かな状況に直面する動物が周囲の環境を学習し、ある特定の事象がどんな結果につながるかを予測するのを助けてくれるのだ。
 そのメカニズムこそ、ラスヴェガスのカジノや日本のパチンコ店のオーナーたちの収入の、究極的な源泉といっていい。彼らは財産をつくるために、ドーパミンに頼っているのである。[2003年3月27日](180~182ページより)
 私たちは不確実な未来に対してキルケゴールやサルトルらが感じたような意味で不安を覚える。しかし同時に未来への不安は希望や期待、願望を生む素地でもあるのだ。そして私たちは勇気ある行動を、何もしないでいることよりも価値と考える。それはある時には死を賭して行動することさえも称賛することを厭わない。勿論そういうヒロイズムはある意味では右翼的行動へと直結するから平安な時代や生活においては危険な思想でもある。しかしそういうものに対して憧れを抱くということの証拠に、我々は格闘技やレースといった生命の危険に晒された競技に熱中するし、自分さえ安全地帯にいるのであれば、過激な活動家が起こした事件や、自分の身内や同じ日本人でさえなければ外国のテロ自爆事件などにさえニュース映像を眼にして興奮したりする。
 私たちはある意味では残酷なことが他者に起こることを潜在的には期待しさえする。対岸の火事を高見の見物と洒落込む気分にさえなる。
 私たちは格闘技やレースを行う選手たちが生ぬるいレースや試合をしていると罵声を浴びせ、「本気でやれ!」とか「死に物狂いでやれ!」とは言う。 
 つまり退屈が嫌いな我々は安全なこと、変化のないことを映像においても、実際の社会においても期待してはいない。ニュースなどというものは、自分さえ安全であれば、他人の不幸を喜んで聞くという人間の本性に対する欲求充足のものなのである。
 スキューバダイヴィングをするのも、ハンググライダーに乗るのも、車に乗るのでさえ、実は我々は無意識の内にスリルを求めているのである。もし自動車が安全で決して事故が起きない乗り物であるなら、カーレースを見に行く者などいなくなるだろう。
 あるいは「あるいは死ぬかも知れない」という迫力のない格闘技を我々は態々高い入場料を支払って観戦するだろうか?
 だから私たちはその危険と、危険を乗り切ることで報酬を得るということに対して何ら疑問を持たないし、それは当然だ、と思う。そしてそのような物の見方は明らかに偉人に対する尊敬心に対しても適用出来る。若くして認められて、いい社会的地位に就いたような思想家や哲学者を我々は崇拝しない。あるいは体制的に天下を取った芸術家を真に応援しようという気にはならない。勿論一世紀の間に一人くらいは、例えばピカソやビートルズのような存在に対して贔屓するということはあるだろう。しかし概して非難されたり、批判されたり、逮捕されたり、反社会的思想や行動を採っても、どこか憎めないようなアンチ・ヒーローこそが我々の求めるヒーローとは言えないだろうか?そのヒーローを取り巻く社会において我々が崇拝するヒーローに対する人間的評価は多くの場合芳しいものではない。例えばウィトゲンシュタインはゲイでもあったし、中学校教師時代には生徒に対して暴力沙汰も起こしている。彼は通例で言う熱血教師ともまた違ったようだ。熱心な教師ではあったようだが、要するに変人であり、神経質な教師だったようだ。
 しかし彼の哲学思想を知る我々にとってそのような悪評の全てが寧ろ好感を持つ、あるいはヒーロー視する理由にさえなっている。
 我々はサルトルとボーボワールが正式な夫婦ではなかったことを寧ろ彼らの哲学思想を尊敬する者にとっては誇りにさえ思うところがある。そしてそういう物の見方は一面では哲学思想への傾注を誘引する強力なモティヴェーションにさえなっている。
 ダライ・ラマ14世が何の政治的困難もない人物であったなら、我々は師に対して今ほど尊崇の念を抱くであろうか?そういうレヴェルからだけで師を評定することは間違っているかも知れないが、我々はそういう政治的なスリリングな命運の師であるからこそ、そこにヒロイズムを見出すのであり、そこには何かフーパーやリドレーの指摘するような他者に対する尊敬の念においてさえ脳内でドーパミンを誘引するような作用があるのではないだろうか?
勿論彼等の哲学、思想への我々の傾注はそういうことから始まっていると言うのではない。しかしもしその哲学や思想に共鳴し得るのなら、その時そのような情報(逸脱した運命であるということ)を付加価値として認識することを厭わないという意味では私たちは崇高な思想(そういうものがあるとしてであるが)にさえ、そういう好奇の眼差しを注ぐことを否定しない、そういう生き物であると捉えた方がより実存的な気があなたにはなさらないであろうか?