Wednesday, October 21, 2009

A論文 「原羞恥と原音楽」2、抑制的判断の起源

 美術館に行く。そこに展示されている絵画を見る。そして私たちは気が付く。名画とか名作と呼ばれるものは、全体的な印象がずば抜けて際立っているし、その絵画的主張には、私たち見る者に有無を言わせぬものを持っている。さてここからが問題なのだが、その名画を接近して見てみると、どこか拙い、決して正確さから言えば不揃いな印象を往々にして抱く。逆の側から考えてみよう。絵画には構図、色彩感覚、マチエールといったさまざまな絵画構成要素がある。そのいずれをとっても決して欠点のない絵画と言うものもこの世にはある。しかしそういうものに限ってどこか印象の薄い、毒にもならなければ薬にもならない、要するに面白みのない作品ということになる。
 結論から先に言えば強烈な魅力のあるものとは、どこか鋭い部分があるものの、同時に何かに関しては無頓着であり、酷い場合には一切無視したような要するに酷い欠点もあるということである。そしてそれは人間の持つ魅力にも該当する真理ではないだろうか?
 つまりそのようなどうしようもない欠点でさえ補うにあまりある、つまりその欠点の存在をさえ上回る魅力を備えたものをのみ我々は傑作とか名作とか呼ぶのだ。このことと人間の日頃の意志決定に纏わる人間の心理とか判断とかは何らかの関係があるように思われる。
 羞恥感情は他者に対して恥をかきたくはないという心理であると同時に、他者に対して思いやりの心を抱くことを通して自己内の道義心を充足させたいと願う理性的判断に内在する心理でもある。
 例えば私たちは他人を判断する時、その人の職業、社会的地位、経歴を基準に判断する。どんなに魅力的な人であっても、その人間の社会的評価が芳しくはない場合、例えばその人間の採用をするべきか止めるべきか判断において私たちはついそういう社会的評価とか評定とか、経歴とか、人物を巡る風評をあてにする。そしてそういう判断が常に間違っているとは言えない。寧ろ確かにそういう評判、評定がなされるだけのことはある、という風に肯定的な場合であれ、否定的な場合であれ、そのような判断基準が功を奏することの方が多いのであろう。しかし同時にこのような判断基準が常に適切であるかと言えばそうとも言えないのだ。
 前章で触れたスペイン映画「オール・アバウト・マイ・マザー」で主人公が訪ねる大女優が、「有名になったって、それが日常になればちっとも楽しくなんてないのよ。」と娘が非行青年たちと屯していることを憂慮して訪ねてきてくれた女性の主人公の車に乗せて貰った時に告白するシーンがある。またゲイの男性であるヒロインの元恋人とヒロインの滞在先のゲイの男性宅に大女優が訪ねる(代役を急遽演じたヒロインに対して本格的に女優をしないかと誘いに来る。)場面で初めてヒロインの元恋人のゲイの男性に会った大女優がその男性の生き方に関心を注ぎ、友情的な態度さえ示す場面があるが、そのような社会的成功者たちがそうではない底辺で生活する人々と友愛的な態度を採ることそのものは、理性的レヴェルから判断すれば正しいことであると大半の人間が了解しているにもかかわらずどこか社会的中位者たちは忌避すべき行動と言っても過言ではないだろう。
 以前労務者が屯する東京の街で他の労務者と生活を共にしながら執筆活動をしておられる作家がいるという話を私は聞いたことがあるのだが、そのように日常の生活レヴェルからあらゆる偏見を排除して生活するという決断は非常なるリスクも伴うし、だからこそマザー・テレサやオードリー・ヘップバーンのような天使のような性格と行動とによって世界全体に感動を与える生き方と人生があるのだ、とも言える。
 つまりリスク回避をモットーとするようなビジネス上の決断でさえ、時にはそのような保守性を捨て、潔く自分の直観力だけを信じて行動する、リスク回避的確率論的判断からすれば無謀とも言えるような意志決定と行為選択には、合理性とか目的論的正当性からすれば殆ど非理性的でさえあるようなものさえを許容するある種のギャンブル的感性が息衝いている。そしてそのギャンブル的感性には大胆に自分の利益を貪るような面の行動もあれば、逆にそれをすることによって自己の利益は著しく損なう恐れさえあるのに敢えてそういう決断を下し行動することもあるのである。そのネガティヴな結果を齎す恐れがあるのにもかかわらず決行する人間の心理に私は以前から凄く興味があり、関心を注いできたのだ。しかしこのことは文学的にはよく主題化されてきたし、政治史、思想史上でもしばしば見られることである。そしてその利己的行動と利他的行動の兼ね合いということになれば、あの生物学者リチャード・ドーキンス著「利己的遺伝子」でよく主張されているところである。彼の論旨を一言で言い表すことは適切ではないが、敢えてそれを決行するとすれば、人間も動物も利他的な行動をすること本質は最終的には利己的行動を旨とする生活が社会学上でも生物学上でも不利益に繋がるという本能的なコード遵守によってなされるのだ、ということである。
 そこでチュンサンがユジンやサンヒョクに対して真意を告げずに渡米することの意志決定の判断の合理化の意味が現出する。ユジンの人生において仮に自分が本当は彼女と兄弟ではないことを知って貰ってさえ、彼は今後失明する恐れさえある立場である、それを知らしめることそのものも出来ない話ではないのだが、全てを沈黙して彼女と自然に離別する道を選ぶことによって自己の事情の全てをユジンに告白することで齎されるサンヒョクやチェリンの不幸を回避することを通して、ある意味では誰からも後ろ指を指されないような生き方として判断されることを望む深層心理がないとは言えないのだ(事実だからこそあの有名な失明した後の二人の再会と愛の成就が齎されるのだ)。これは穿ったものの見方である。しかし人間はそれを美的に賞賛してさえ、実は内的な深層心理上では極めて妥当な利他行動を通した報酬を求めているのだ。そして私たちは極めてそういう判断を「世の中にはそんな汚いことではなく真に美しい行為も存在するのだ。」と美化するような偽善性にも常に取り囲まれているのである。ここでチュンサンや「オール・アバウト・マイ・マザー」のヒロインが他人の産んだ赤ん坊(しかも以前の恋人の子供を産んだ他人の子だ。)の面倒を見るような利他的行動を敢えて行為選択することをここで敢えて抑制的判断と名付けることとしよう。
 私はこのような本能的コードとして利己的な生存戦略として生物学的には位置づけられるような行為選択は、それを美化することによってヒューマニズムであるとか、その人間の天使のような性格とか人間性と呼ぶ宗教倫理性とは、実はそういう風に行動することを自然ではなく、あくまで自然に執り行わせるものこそ原音楽と呼び、だから原音楽とは人間社会において極めてその人間の本性についての評定をよくするように作用するのだが、そのような原音楽の起源的な深層心理としては本能的なコードとして原羞恥というものが考えられるとしたいのである。つまり原羞恥とは利他的行動を選択することの方に生存戦略的には理があるという殆ど無意識に他の選択肢など考えられない、自明のように思わせるものである。
 あるよく考えればそのように行動すればそれほど悪い評定を得ることにはならないだろうという本能的な目算は原羞恥として位置づけられるが、同時にそのようなレアな選択では我々はヒューマニズムの視点を介入させることが出来ないために、我々はその羞恥を別の形で定義付けようとする。それはしばしば心情的な美しさとして捉えられる。それを私たちは私が原音楽と呼ぶものによって履行しているのだ。すなわち原音楽とは理性的な判断の合理化を促進させるものであり、本能をオブラートに包みヒューマニズムという美名に置換させる作用を齎すものなのだ。
 他者に対して思いやりのある性格の人間というのはそのことによって別の他者一般から自己にとって有利な社会的評定を得ることを本質的には目的としたものである。他者に対する思いやりというものにはどのような小さなレヴェルであろうとも自己犠牲の精神が働いている。例えば昔学生時代、あるいはもっと少年期に、学校で汚れた教室やトイレを率先して掃除する生徒というのが必ず何人かいた。このような行動は社会的には労働と呼ばれ、奉仕として位置づけられる。奉仕とは対社会全般に対する自己犠牲精神の発現によるものである。それが一人の他者に向けられた時(だから一人の個人に向けられた思いやりとか愛情は、社会全般からすれば害悪になる場合もある。例えば殺人を犯した息子を持つ両親が必死にその犯行が息子によるものであることを発覚しないように配慮することなどがあるとすれば、それが好例であろう。)思いやりとか個人に対する愛情となるのだ。
 ここで纏めると、こうなる。つまり我々は生物学的存在論としては原羞恥によって他者に対しての意識を生じさせている。しかしその心的なメカニズムは幾分本能的コードに近いので、自己防御とか自己防衛心とかと不可分なので、我々はそういうコードにのみ忠実であると自分の存在を社会で維持することは出来ぬ。そこで集団内の自己という位置づけとして集団の秩序に「合わせる」ことをモットーとしながら、そこに人間学的な意味合いとか意義を見出そうとする。それを私は原音楽と呼ぶということである。
 例えば先述例から言えばこうなる。つまりある会社の新入社員の人事に関しては、大学新卒生のみを採用することとか、もっと言えば大学卒業資格者のみを採用すること、あるいは中途採用に関しても何らかの経歴上に有利な条件をつけてそれに沿った形で新入社員を選別することそのものには、往々にして完璧なくらいの成功者の中には稀に非成功者あるいは底辺のレヴェルの生活者に対して全く偏見を抱かない者もあるが、概して成功者の一部や中位社会的地位確保者には、底辺の生活を余儀なくされている生活者とは交友関係を持ちたくはないという意識を信条としている者が少なくない。こういった人間関係的処世術は確かに短期的にはリスク回避に繋がるだろう。しかし長期的に見れば必ずしも正しい選択ばかりになるとは限らない。つまり一人一人の人間の本性とか、そういう偏見に満ちた表現を避けるのなら可能性といったものは履歴にのみ依拠するものではないからだ。例えばNHK放送の企業、公務、自由業のプロを紹介する番組「プロフェッショナル」に登場したある大学院研究者は、彼が渡米しその職を得た時、それ以前のキャリアを一切反故にしてもう一度最初から出直すことを上司から告げられたそうである。これなどは極端な経歴社会に対する信奉そのものを批判する採用者の論理である。勿論一度以前の経歴から自由になったとしても尚、以前の経験は無にはならないだろう。それはあらゆる転職者に共通したことである。
 要するに集団、とりわけ企業という場では新入社員査定の基準を保守的な経歴とか新卒であるとか、要するにその人間の個人の人格とか人間性とかで判断することの短期的な意味での不可能性と、なるべく経営者の丼勘定を回避する意味で最も一般的な採用基準を選択しているのだろうが、それとは別個の個人のレヴェルでの友好関係とか友情とか人間学的判断といったものは必ずしもそのような世間体に左右されるものではないということも同一の人間(例えばその人間が新入社員を査定する立場にあるような場合とかにおいて)でも常に相反する価値観とか価値倫理として共存させているのである。そしてあるゆる世間体的な査定基準を闇雲に信用しないという意志決定性は原羞恥による「そういう選択をすることは短期的には損失に繋がりさえするかも知れないも、長期的には人間的によい評定を得られる筈だ。」という判断が深層心理には介在しているであろう、というのが私の意見なのだ。だから世間一般の査定基準(今までの例で言えば、新入社員選別基準に見られるような)を常套的に使用する際、我々は通常社会に「合わせて」いるわけだから原音楽に忠実な行為選択をしていることになるが、そういう常套的、順当なる判断を避け、敢えてリスキーな判断をギャンブル的感性に基づいて履行するような場合、我々は原羞恥に忠実に行動していることになる。
 だから「冬のソナタ」で同僚としてのサンヒョク(ラジオ局勤務)を鼓舞する者の発言は原音楽的な装いがあり、片や、ユジンやチュンサンに相互の愛を貫くことを奨励するチェリンの言動は原羞恥の装いがあるように見受けられる。そして加えるにチュンサンの行動の全てにそれが読み取れる。尤も彼もまた記憶を取り戻した時にだけ他者に辛く当たるという場面が描かれていたのだが。(ここら辺がシナリオの巧いところである。)
 先程の会社の新入社員採用基準といった上位者による下位者選別基準ばかりではなく、逆に下位者から中位者ならびに上位者に対する意識においても同一の事態は想定し得る。例えば下位者というものは少しでも社会的地位を上昇させたいものだし、安定を希求しもする。そこで人間関係的な意味で社会人として友人とかの私的交際以外では(ある場合では私的交際に関してさえ)少しでもその人間と交際することで社会的に有利に作用する(ためになることを言ってくれる、とかその人間と交際していることが少しでもステイタスシンボル的な意味でも、あるいは世間体的にも見栄えがよいとかの)相手を選別することは短期的な社会利益供与からすれば理に適っている。しかし同時にそういう選別基準だけで他者と接しているといずれ打算的な人間であるという評定にも繋がりかねない。そこで普段であれば下位者よりも中位者を大事にし、ある時にはその自分のことを贔屓にしてくれた中位者以上の上位者に接近する機会に恵まれれば、そちらとの出会いの方を大切にするというような対人関係的選択をするのにもかかわらず、敢えて逆に世間一般からすれば殆どその人と交際することがメリタブルな面がゼロであるような目上の人物との交際を重要視するような選択は人間にはそう珍しいことではない。そのような行為選択はどちらかというとその人間の世渡り術では推し量れない思想とか信条のレヴェルの判断である。そのような判断は明らかに私が考える原羞恥に近いものである。そしてそういった判断は世間一般の査定基準とか常識とかから割り切れない自分の人生にある独自の経験によるコードであり、反社会的な孤独確保意識的な面からの判断であり、それはどのような人間でも何らかの形で社会一般の常識と対立させる形で共存させていると言える。
 ここで一つはっきりさせておこう。原羞恥とは決して生物学的に言えば人間に固有のものではないということである。とすると例えば着衣の習慣というものが人間に固有であるということは、それは人間が裸を他人に見られることに羞恥心を抱くこととは肉体的な羞恥であるけれど、それは原音楽という人間固有の社会的なコードであるということである。他人に対して自らの裸を見られることというのはあくまで社会慣習上のことであり、事実社会の中には自分の裸を他者に見せて生活している人々も大勢いる。彼等も最初は恥ずかしいという思いを抱いたこともあったのであろうが、習慣化された後はどうということもない事態へと転化していったであろう。しかしそのような特殊な職業に就業している人々も、そうではない人々も含めて全ての人類にとって羞恥に感じることは、肉体的な羞恥以上に精神的羞恥ではないだろうか?このような行いをすること、そういう発言をすることは社会では最も憚られるという意識を生じさせるタブー認識は裸を他人に見られるといった羞恥を遥かに上回る。私たちは如何に社会的地位の高い就業者においても、その人間の不道徳な行いとか破廉恥漢に対しては殆ど偏見を持つものである。それは精神的タブーとか精神的羞恥こそが最も人間においても、他の動物(とは言え、ある程度の知能を有した哺乳類に限られるのであろうが)においても共通した根源的羞恥というものがあるのではないかという観念を我々に抱かせる。これこそ私が言うところの原羞恥であり、肉体的欠陥を抱くコンプレックスとか他者に裸を見られる羞恥とかは、それ自体も決して軽い羞恥ではないだろうが、精神的なタブー逸脱に比べれば幾分克服可能な羞恥であるということから、それは人間社会慣習に依拠した原音楽的(他者に「合わせる」行為選択を誘引するところの)羞恥と言えるのではないだろうか?
 しかしここで抑制的判断の起源としての原羞恥というものがあるという仮説には未だ不十分なところがある。それは未来における確実な報酬とは引き換えに多少の不確実を請負いながらも、同時にもし得られるものがあるとすれば、それは確実なケース以上の報酬を得ることが出来、その万に一つの可能性に賭けるようなギャンブル的感性を支える精神的な快楽について触れなければ、我々は原羞恥を正当なる動物的本能とも生物学的コードとも言い切れない。幾つかの例を挙げて考えていってみよう。
 私たちは自分の人生を少しでもよりよい方向へと導こうと思って、常に何かにチャレンジしている。例えばいい就職をするためにいい大学へ入学しようと思い、受験勉強をすることもそうだし、いい会社に入社しようと就職活動で就職試験を受けるための勉強、面接で少しでも心象をよくしようと努力することもそうだし、会社に就職したらしたで、今度はその社内で幾つかの考え方(ビジネス上でも対人関係上でも、要するに人生観とか価値観の違いに応じた)に分裂した上司たちの中である特定の上司にとっていい部下になろうと認められたいと努力することもそうである。
 例えば私はかなり長い間プロの芸術家になりたいと思い努力をしてきた。結局プロとしての生活を手に入れることは出来なかった(そのことについて残念であるとは思うが、努力してきたことについて悔いはない。)が、昔デッサンとか油彩画とかを、習っている先生に手直しされることは創造に携わることを目指す若者にとっては屈辱的なことだった。しかしプロというレヴェルはある程度の苦渋に耐えねば報われない報酬である。しかしそのように努力しても尚殆どの者は脱落してゆく。またそれは社会において必要とされる芸術家の数そのものに限りがある以上致し方ない現実である。さて絵画史上でも、マネに弟子入りしたヴェルト・モリゾもそうだし、ロートレックの恋人となり彼からも多大な影響を受けたシュザンヌ・バラドンもそうだし、ピカソの恋人となって接近して生活を共にすることになったフランソワーズ・ジローもそうだが、彼女等は皆尊敬する画家である巨匠に接近することで少しでも自分の才能を開花させようと努力したのだが、実際彼等は必ずしも師匠から最大限の賛辞を得たわけでもなかったし、仮にそのような賛辞を得たとしても尚、その事実と、そのような師匠から認可された作品が美術史上に残るものであるかということはまた全く別のことなのだ。
 バラドンのことはフランス映画「葡萄酒色に人生」に詳しいし、ジローのことは「サヴァイヴィング・ピカソ」というアメリカ映画に詳しいからもし芸術家と弟子的存在の女性との人間関係に関心のある方は見て頂きたいと考えているのだが、彼女等はそのように苦渋の選択を何故しなくてはならなかったのだろうか?例えばそんなに深く彼女等の芸術に対する才能を認めてはくれない巨匠に、それがいかに自分にとって尊敬に値するからと言っていつまでもしがみ付かずに即座に方向転換することも可能だった筈だ。事実モリゾは別の女性画家ジュリア・ゴンザレスに対する師匠からの寵愛(画家の弟子としての)を目撃しつつも即座には脱マネを実行しなかった。尤も歴史的には結局ゴンザレスよりかはモリゾの方が名前をなすことにはなったのだが。
 つまりそのようなある種他人から見たら非合理的、欲求実現のレヴェルから見れば殆ど不条理的な執着としてか言えないような行為選択(それほど情熱的に自分の才能を求めてはくれない師匠から即座には離れないというような)には何かしら、そういう常套的な判断の合理化を上回る不確実ではあれ、筆舌に尽くし難い魔力、どうしても抗い難い魅力があるのに違いない、としか言いようがないのだろう。そのことについて考えてみよう。

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