Tuesday, October 27, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」4、科学者の考える世界にも息衝く哲学者の世界と宗教倫理

 私たちは基本的に長い年月の間にこれこれこういうことが起こり得るとは予測出来るが、明日どういうことが起こるかということは予測不可能である。例えば私はそちらの専門家ではないが、数万年、数十万年単位での地球環境の変化を仮に予測することが現在の地球物理学で可能だったとしても尚、短い単位でどのような出来事が地球に起こり得るかを正確に予測することは不可能である。そういった意味では全ての人類は、基本的には不確実性の中を生き、またその事実を暗黙の内に認めているのである。
 哲学者ウィトゲンシュタインの論理とその主張にはどこかそういう不確実な世界(そういう枠組みで我々は自分の住む環境を規定してゆくものなのだが)に生きることそれ自体を描像として我々に提出したと言える。そのスタンスは恐らく精神的には進化論者にも影響を与え続けている、と言える。例えばそれは「進化とゲーム理論」の著者、ジョン・メイナード・スミスもそうであるし、「利己的遺伝子」の著者リチャード・ドーキンスもそうである。彼等は基本的にはダーウィニストたちである。しかしダーウィニズムの基本的な考え方は、自然という暗黙のルールはごく一歩一歩偶然の変化を累積していったその果てに待ち構える必然のように見える変化は、しかしあくまで小さな偶然の集積であるという確信がある。例えばドーキンスが述べている(「ブラインド・ウォッチメーカー」の中の<小さな変化を累積する>より)累積淘汰と一段階淘汰ということについて少し考えてみよう。
 彼の考えによると一段階淘汰というものでは、その様相的差異は偶然だが、それが累積淘汰へと発展することそれ自体は必然である。しかし同時に累積淘汰の様相そのものは、つまりそれへと至る道筋は偶然である、ということである。これはある意味ではトートロジーであるが、極めて重要である。簡単に言えば偶然に起こり得ることそれ自体は必然であり、必然的展開とは必ず小さな偶然の集積であるということ、それは言い換えれば、変化とか変化の様相とかそういう事態それ自体は必然的に存在し得るのだが、その存在の必然性は全て詳細では偶然の産物であるということである。
 このような論理的な同語反復性を自然科学者は数式によって表したり、それは確率論的に論じるが、ウィトゲンシュタインは所謂技術者出身であるが、基本的に哲学の徒であった。その事態自体に少しセンチメンタルな言い方を許して貰えれば、もののあわれを感じ取っていたと言ってもいいのだ。そういう観点に倫理の心的メカニズムを主張したようなカントのような存在とは異なって、今日多くの論客が東洋思想との接点を見出しているような独自の性質を我々は容易に発見することが出来るのだ(尤もカントはカントで実はかなり深遠な意味で東洋的である可能性もあるのだが)。
 そしてそれは茂木健一郎が指摘する(「「脳」整理法」)ようなディタッチメント的論理提示法ではない、彼の言うパフォマティヴ的論理提示法としてウィトゲンシュタインの哲学の存在の仕方を考えることが出来るのだ。それは論理自体の論理提出者からの独立ではない、論理と論理提出者との一体性である。
 茂木の言うディタッチメントとは方法的には、あるいは実用的な意味では極めて重要であるし、科学とはそういうものでなければならないだろう。しかし人間は冷徹な自然科学的な視座に依拠してのみ生活することにある種の充足感を得ることが出来ない、ある種の不条理性を兼ね備えている。しかしそれではそういうもののあわれへの言及それ自体は進化論者たちと対極ではないかという意見が聞こえてきそうだが、実はそうではないと私は思うのだ。つまりこういうことである。もののあわれをウィトゲンシュタインが訴えているからこそ、進化論はそういう視座を捨てて冷厳に進化を論じることが出来るのだ、と私は思うのである。カントの哲学的価値とはそれ以前の哲学者とかそれ以後の哲学者との相関性によって決定されてゆく。そういう意味ではウィトゲンシュタインもカント同様であるし、グールドたちによってウルトラ・ダーウィニストと呼ばれた人々もまた例外ではない。つまり茂木的に言えばディタッチメントはパフォマティヴが支えているとさえ言えるのだ。これは単純に考えれば自由経済主義者と統制経済主義者、保守と革新、新人と先輩といった人間社会全般に言えることでもある。なぜそんな分かりきったことをここで態々述べているのかという声が聞こえてきそうだが、それがそうではないのだ。
 例えば私は先にウィトゲンシュタインとダライ・ラマを考察したのだが、このように西欧哲学と東洋思想を比較すること自体もまた相対的な思想や哲学の在り方自体を提示したかったからなのだが、こういう試みを暴挙と捉える向きの方が学界では現在も多いというのが私の感想だからである。「それは学者のする仕事ではない。作家に任せておけばよい。」というわけである。本当にそうなのだろうか?私にはそうは思えないのである。
 というのももしそういう作業全般を全て作家にのみ任せていたならば、我々は思想相対性について、哲学論理の相対性についての視点を常に宙ぶらりんにしたままにして、部分考察に終始しなければならないからである。私は文学創作としての仕事も引き受けている者だが、実際論文というものの存在を文学テクストとはどこかで切り離している。またそうすることで、我々は相互の存在意義を見出すことが出来、私はそれを信じてそうしているのだ。
 文学創作上のテクストは「世界」である。しかし論文テクストは「世界について」なのだ。それはメタ・テクストなのだ。確かに宗教倫理テクストとしてのダライ・ラマと哲学テクストとしてのウィトゲンシュタインには全く相同ではない部分がある。しかしそれは少なくとも西欧社会と東洋社会そのものの生活とテクストの存在の仕方の違いに起因することであり、つまりその文化の違いを乗り越えれば、宗教倫理テクストと哲学テクストの相違はとどのつまりメタ・テクストの様相の差でしかない。
 例えばマルチン・ルターやカルヴァンを宗教テクストであり、カントやショーペンハウエルを哲学とするものとは、彼等個々のテクストの側からの事情である。しかしその他一切のテクスト、例えば自然科学テクストとか、それ以外の一切のテクストを含めた存在の仕方全般からその二つを見れば、その差とは然程歴然としたものではないだろう。それはドーキンスの言う一段階淘汰の横の進化と言ってもいい関係である。
 世界中の過去から現在までの全てのテクストからすれば、その全体を累積淘汰の存在それ自体であり、その存在様相であるとすれば、我々は哲学と宗教との相違がそれほど大きなものではないということに気付く。それは何もウィトゲンシュタインを宗教哲学者として規定するような考え方が存在するから言っているのではなく、仮にゲーデルのような数理論学者をここに引き合いに出してもそうだし、それこそ進化論者を出しても同様である。それは恐らく進化上の表現系の僅かな相違でしかない。
 だから我々を気象予報士になるためのマニュアルと哲学書を分かつものとは、文字言語による表現の累積淘汰による文字形態の違いであるというよりは、社会自体がその文字の配列に与えてきた習慣の差でしかないのだ。ある文字言語に対するカテゴリー認識の採用といった事態は実は累積淘汰それ自体の存在の容認でしかなく、それはそのカテゴリー同士の隣接とか距離を認めることによって寧ろ文字言語であることの類縁性をも主張する存在論的主張以外の何物でもないのである。そしてまさにウィトゲンシュイタンが主張したことというのは、その認可のシステムそれ自体のことだったのである。それを彼は世界と呼んだ。人間は哲学的に言えば世界の中で意思疎通する。
 ところで意思疎通とは情報の共有と個人が所有する情報内容の差異の確認のことである。他者は自己との異において意味を有する。韓流ドラマ「冬のソナタ」の主人公、及び登場人物たちは一挙に同じ内容の情報を所有することが出来ない。その情報内容の一致に至る時間的ずれを描くことで恋人たちの運命を描いたのだ。しかしそれはその登場人物にとってのその時々の情報内容自体が彼らの「世界」であることの表現であり、意味内容である。
 私たちにとって「世界」とは自らに固有の情報内容による他者の見え方に他ならない。自然科学においてはそもそも世界などという認識はしない。例えば生物学的には生物における生存と、そのための資源という捉え方しかしないだろう。これは自然科学が方法的に機能主義を採るからである。科学者たちにとっての世界とは彼等が仕事や研究が出来る環境のことを意味するであろう。しかしそこにもやはり哲学者たちが考える摂理は息衝いていることであろう。
 そもそも科学者が「世界について」提示する時、世界は彼の中にある。それに対して哲学者が「世界」を提示する時、世界は彼自身である。その点では彼等は明らかに芸術家に近い。世界とは彼の存在そのものである。尤も芸術家には彼自身から切り離された世界を作品に投入する必要があるし、その点では文学も同様である。しかし彼等は哲学者が自分自身に世界を引き受ける姿勢そのもののにおいて多分に共通している。しかし科学者たちは世界はあくまで世界であり、彼自身からは切り離されている。
 ここに茂木健一郎が言う科学=ディタッチメント、哲学=パフォマティヴという表出回路の質的差異が生じてくる。しかしこの二つは先述の通り、互いが互いを必要としているのだ。
 その点宗教倫理はディタッチメントとパフォマティヴが分化し難く、説話に結び付けられている。それは説話論者の「語り」の中にディタッチメントが見出されること自体がパフォマティヴであるという政治性(啓蒙)に意味がある、ということである。
 今後私たちの社会という一つの世界で宗教倫理が哲学的思考と協力し得る可能性とは、政治そのものが論議することの出来ない仮想世界をも含む思考であろう。例えば年間に多数の交通事故死者を出す我々の社会に本当に自動車以外の移動手段はないのだろうか、という問いは科学者が原発以外の発電方法、石油以外の資源活用術を模索することと同じ問いではないだろうか?
 それはだから社会学的問い、人類学的問いへも発展する。例えば日頃我々は何の疑問もなく、お金を使い生活しているが、本当に競争社会自体が貨幣経済のみによって顕現されるものなのだろうか?それは恐らくありとあらゆる共産主義、格差、人間間の憎しみ、復讐心といった不幸の連鎖を生んでいることは事実である。そのこと自体を人類に覚醒させることが出来るのは社会学的問いであり、人類学的問いである。そして貨幣に代わり得る競争社会を健全に維持する方法を見出せ、それを普及し得た者は仏陀やイエス・キリスト以来の人類の救世主と呼ぶべき存在となるかも知れない。

 話は変わるが、人生というものを少し感慨的に捉えてみよう。かつてジョン・レノンは「大金持ちと無一文の貧乏人だけが真に自由である。」というような発言をしていたことがある。要するに小金持ちとか少々貧乏であるくらいでは未だ社会的に不自由で、常に社会に束縛されているということだが、思い切り金持ちであるか、超度級に貧乏であれば、極端な話ホームレスであるなら、精神的には自由であるということは一面では真理であろう。そのことは社会的成功者と挫折者(失敗者)との間での関係に言えるのではないだろうか?例えば政治家のトップ・リーダーは首相とか大統領であろう。そういう人は逆に最も駆け出しの政治家に立候補者とどこか共通した心理があるかも知れない。尤も孔子は昔「成功した人が挫折した人を思いやるよりも、挫折した人が成功をした人を思いやることの方がよほど大変である。」というようなことを述べているが、事実もし真に挫折して社会的惨敗者がいたとして、その人間がトップ・リーダーに対してある種のシンパシーを抱けるとしたら、その人間はなかなかの大物であるかも知れない。しかし本当の挫折者だけが実は、トップの成功者の孤独とか空虚感とか虚脱感を知ることが出来るのかも知れない。トップ成功者にはそれ以上極められないという挫折感のようなものが漂うということは容易に想像されるからだ。それは宴の後の空しさのような胸中に支配された心情であろう。つまりそれ以外の中間のレヴェルの人間は常に上を目指している。しかし天辺の人間はそれ以上上がないのだから、却って意識上では原点回帰するのだ。従って天辺の人間が最下層の人間にシンパシーを持つことは容易にあり得るが、最下層の人間が天辺の人間にシンパシーを持つとしたら、それはある種のアイドリズムからである場合も多いかも知れない。しかしホームレスとかにまでなってしまうと、逆に天辺に対して共感を得るような心になる場合もあるだろう。それは希少者の胸中に対する理解である。
 私の考える原羞恥があらゆる対他的な意識を生じさせるとしたら、あらゆる成功者の対外的、対社会的な意識のあり方とか態度の採り方とかは明らかに原音楽的な秩序の高次の思考と高次の行為の決断の末に訪れる洗練の極致であると言えよう。それは組み上げ、完成した後にはそれが崩され、元に戻る恐怖が押し寄せるだけである。再編という事態の前には、前政権の終焉期の政治家のように後はリタイヤするだけである、ある空しさがついて回るのだ。そしてそれは原音楽が再び原羞恥に回帰するような循環心理があるのかも知れない。
 哲学者が「世界」と言う時、明らかにこのような諦念に近い心理があると思われる。宗教倫理はこの時虚無主義へと陥らせないように肯定的に捉える仕方を教えるだろう。しかし哲学ならそうはいかないかも知れない。なぜならその部分では哲学は自然が決して人情味溢れた思いやりを全ての生物にかけはしないような意味で残酷な無表情を晒すように、人間の存在を見つめるからだ。しかし科学もまたそのような意味では確かに思いやりは全くない。しかし哲学は少なくともそういう風に残酷に実存を見据えるが、その見据え方には透徹しているが同時に熱い眼差しがある。科学はその眼差し自体を冷徹にしていかなくてはならない部分が多分にあるのだ。しかしそういう態度を採り続ける科学者には、彼固有の暖かさとか対社会観というものはあるだろう。そしてそういったものが形成される時に彼等にはどこかで哲学者や宗教倫理家の考えというものに対する共鳴という事態は容易に考えられる。
 ホームレスになってさえ私たちは必ずどこかで持っているそうなる前の仕事如何では、通常の生活者に対してあまり汚い姿を晒したくはないというプライドは最低限の対他的羞恥の現れである。これは自らの裸を晒す職業の生活者にとって肌の手入れを怠りたくはないとか、娼婦は体を売っても愛は売らず、唇だけは相手に触れさせたくはないということなどにも現れている。しかしこれらもあるいは次章で考えている原羞恥と原音楽を一致させること、照準合わせによってなされてきたとも言えると思うのだ。つまり原羞恥というものは人間にだけ備わっているわけではないし、原音楽もそうなのだが、と私は思うのである。そしてそれは人間の羞恥が言語と大きく関わりがあるということである。

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