Friday, November 6, 2009

A論文「原音楽と原羞恥」 6、意味と羞恥

 私たちは今まで報告内容を意味内容としてきたが、私は単純に前者は発声顕現としての意味内容、後者は意味作用的に聴者が受理した意味内容(文脈的理解)と考えていた。しかし意味は実はそれほど単純ではない。というのも「AはBである。」が同時に「AはCである。」を意味するというような意味で、私たちは意味を一律的にAならAというトートロジーにおいて受け取っているわけではないからである。
 意味に内包と外延があるのなら、その領域性における中心と周辺というものの、あるいは本道的なことと、派生的なことというのが存在するのであろうか?だが派生的なことと、周辺的なことと言うと語彙そのものの意味が、実はその語彙をどのような文脈で使用するかという、語彙を伴った文章、表現というレヴェルの問題へと我々を誘うからである。例えば犬とか猫という語彙を使用する際に我々は犬という語彙が、我々が生活する社会とそのエリアにおいてどのような意味(ペットとしての犬とか人間にとっての動物としての犬とか、その性格論的な存在理由とか、例えば番犬といったような。)を有しているかに関する言語共同体成員としての了解一致事項としてのそれである。それを取り敢えず文脈論的な意味としておこう。
 そしてその文脈論的な意味の中に直示する時に我々が犬と呼ぶ範囲のもの、猫と呼ぶ範囲のものが決まってくる。例えば家猫とか山猫とかを猫と呼ぶことはあっても、虎やライオン、豹、ピューマ、チータを猫と呼ぶことはないだろう。そういう意味では猫は犬よりは、何かを指して猫と呼ぶ範囲は広いが、犬は人間が狼から育種して派生させたさまざまな類別性とヴァラエティーがあっても尚、それらは全て一種内の差異でしかない。
 そしてその直示としての語彙における一対一対応と、直示以外の不在対象に対する言及はそれほど違いないだろう。しかし恐らく「犬とは」とか「猫とは」と言うような文章構成上での文脈的意味にした時、我々は更に直示された時の犬の範囲から更に絞られた、ある特定の定型としての犬を示している。そしてある話者同士が「犬は」とか「猫は」と語る時、犬を飼ったことのある人同士と、飼ったことがある人とそうではない人同士と、飼ったことのない人同士と、あるいは好きな人同士と、好きな人と嫌いな人同士と、嫌いな人同士としてでの会話では自ずと異なった様相で、犬という語彙使用のニュアンスが生じてくることは容易に想定出来る。つまり話者同士のある語彙の使用というものは、意思疎通相手のその語彙に対する意味論的感情レヴェルでの了解と想定と推定によって微妙に状況論的に差異が生じてくるのだ。 
 そしてそれは直示としての犬とか猫ではなく、不在対象としてでもなく、文脈論的な犬とか猫という語彙の使用には、ある社会にとっての犬とか猫というものに与えられた一般的意味とか常套的意味とか通念とかが大きく立ちはだかるのだ。そしてその通念に対する相互理解と相互了解と同意が話者同士を「犬ってのはさ、~だ。」とか「猫ってのはさ、~だ。」というような謂いを可能にするのだ。要するに第一義的な犬理解とか猫理解と、そのように定義された犬とか猫に対する我々(話者としての自分たち)の感情、認識といった個的経験把握レヴェルでの犬、猫理解とは要するに第二義的なものとがあるである。それらは言語の超越性(直示的対象指示性ではない、過去事実報告における不在対象指示は直示とそう変わりないが、問題は犬という一般概念としての犬といったこと、あるいは犬一般に対する話者の認識と感情といったレヴェルでの文章、文脈における犬といったことである。)における文脈論的な意味は、ある時は社会一般の通念であり、ある時はそれに対しての自分の経験による認識(一般通念に対する批評、同感、批判、懐疑)である。例えば『犬は人間につき、猫は家につく』という諺は通念的な陳述である。しかし私自身猫を長年飼った経験からすれば、それは当たらない。「『犬は人間につき、猫は家につく』っていう諺って、あれ嘘だよね。」と私が猫を飼ったことのある友人に告げれば、それは自分の経験による認識の報告であり、詠嘆的告白となるであろう。
 だから社会通念的な意味を受け入れる限りで、我々は犬や猫の意味は相対化される。だから犬や猫を飼ったことのある人でも、そうではない人でも共通して言えることとは、真理に近く、それを語る時直示する行為(今見ている犬とか猫のことを形容したり、話題にしたりする。)での犬や猫よりは相対化されている。不在対象に対する言及は話者同士が同じ見た経験がない場合には、犬とか猫に対する説明は直示よりは多分に相対化される。見た者はその過去の具体的映像記憶によってそれを言語化して語ろうとするが、それを聞く者は言語化された言葉のニュアンスから想起し、想像し、ある特定の犬とか猫を心的に表象するのだ。そこで話者が発する犬とか猫と発する時に彼(女)の心中に表象された犬や猫と、聴者の表象された犬とか猫は、その言語の意味作用に依拠した範囲で間口は広がるが、二人のイメージしているものが重なっているかどうかを確認する術はない。
 しかし少なくとも言語とはそれが語彙として発語された時に「あっ、犬がいる。」と語られる時、それは犬一般のカテゴリーに我々は指示対象を押し込めているのである。それは例えば友人の家に訪れた時に、友の飼い犬のことを固有名詞を教えられて呼ぶような場合以外は全て、我々はあるカテゴリー認識に閉じ込めて現前する具体的対象を認識しているのだ。それはそれ自体で既に相対化作用と言える。対象認識には固有性を一挙に一般性へと閉じ込める作用があるとここで考えることが出来る。語彙化とはそのようにされた時点で非固有名詞化されているわけだから、意味相対化作用がなされているのだ。
 しかし経験による認識の報告とは、それを語る時に語る相手に対する感情、つまり権威的な立場にある言語学者に対して言語活動に関する本質に対する独自の考えを披露する時の我々の心的様相と、そうではない通常の一般人に対する心的様相とではかなりな開きがあるだろう。対象認識が一般人と専門家の間でもそうは変わらない語彙使用を巡るソシュール的ラングの採用という一事で済まされるとしても、経験による認識という真理に対する言及では、権威者同士が発話する、権威者に対して発話する非権威者、非権威者同士が発話するという三つのケースでは微妙に異なってくることは言うまでもないであろう。
 最初のケースでは譲り合う心的様相が、第二のケースでは同意的発言の場合には尊敬心が、しかし批判的発言の場合には対抗心、攻撃欲求が満たされており、第三のケースでは相互の意見に対する信頼性はないし、確信もないだろうけれど、リラックスした心的様相であることは間違いないであろう。仮に間違った真理でも相互に困ったり、恥をかいたりすることはないからだ。尤も第一のケースでも相互に他者を攻撃する必要性を感じておれば、その者に対して権威者であれ第二のケースと同じことになるだろうし、また相手の権威者に対して共感と同意をしておれば、譲り合うという心的様相になるであろう。
 ここで考えられるのは、心的に羞恥感情というものが最も作用するのは、自己確信に満たされていなければ、第二のケースであろうが、そもそも権威者に対して確信なく抵抗することは自己の立場とか自己に対する権威者からの人物評定に関して著しく第一印象を損なう危険性があるので、そうたやすくは我々はそういう行為という暴挙には至らないであろう。しかしことは権威者同士の反目ということになると、そこには自己防衛心と対他的な攻撃心とが共存することになるだろうから、対他的に羞恥感情を巣食わせることは不可避となるだろう。それは犬を飼ったことのない人が犬を飼ったことのある人に対して一般通念とかそれに対する批判をしたり、一般通念上での犬を飼ったことのある人の多くが疑念を抱くことの多い事柄に対して安易に信用するようなことを告げることで、権威者に対する非権威者の羞恥の克服(間違ったことを主張して恥をかくことで、真実を知りたいと願う場合)が発揮されるだろうし、また権威者同士の反目は自己主張することで、その権威分野における自己の思想の正当化を図ろうとする意思のぶつかり合いなのだから、他者(敵対する権威者)に対する評定<大物であるかそうではないかという評定>如何で、その者への羞恥の度合いは異なってくる。例えば仮に反目していても尚大物であると思えば羞恥感情とその克服は一大事となり、逆に反目していてもその者がそれほどでもないだろうと確信している場合には、羞恥克服はたやすいだろう。
 そしてある論、犬とはこれこれこういう動物であるという真理とか、言語学上での語彙とか、意味とかはこういうことであるという真理というようなこと一切も、語彙における意味同様、一般的真理とか専門的真理とか全体の意味と捉えることが可能である。そしてそれらは経験による認識の報告という主観性をより高次の普遍性へと昇華させることによって成り立つ真理に対する信念であるから、相手に対する信頼性(権威者同士でも相互に信頼し得る関係であるような)があれば、第一のケースでも第二のケースでもよりフランクに告白することは可能であろう。しかし対立したり、抵抗したいと願っている相手に対してならば、それは真意の告白を憚るという現実は出て来るであろう。相手に弱みを握られたくはないという心理が発生するのだ。主観の告白は話者同士の信頼性に依存するのだ。

付記 論文修正と作成のために休暇を頂きます。2010年正月明けに再び更新致します。(河口ミカル)

Wednesday, November 4, 2009

B論文「信仰心と無神論」第四章 関心の質量(2)

 その前に「ブラインド・ウォッチメーカー‐自然淘汰は偶然か?[下]」中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・疋田努訳、監修、日高敏隆)で彼が示している選好性の遺伝子に纏わる内容をテクストから抜粋引用することを通して理解しておこう。

「(前略)雌の選好性のための遺伝子は雌の行動にだけ発現されるが、にもかかわらずそれらの遺伝子は雄の体にも存在している。それと同じ理由で、雌の尾長のための遺伝子は、雌に発現されてもされなくても、雌の体にも存在している。遺伝子が発現されずにいると考えるのはさしてむずかしいことではない。かりにある男性が長いペニスのための遺伝子をもっていれば、息子だけでなく娘にも同様にその遺伝子が伝えられるだろう。息子はその遺伝子を発現させるだろうが、娘の方はそもそもペニスなどもちあわせていないので発現させることはない。しかし、その男性が孫をもつにいたれば、娘方の息子方の孫息子と同じように長いペニスを受けついでいることだろう。遺伝子は体のなかに持ち運ばれていても発現しないことがあるのだ。同じようにして、フィッシャーとランドの仮定によれば、雌の選好性のための遺伝子はたとえ雌の体でしか発現しないとしても、雌の体に持ちこまれている。そして、雌の尾のための遺伝子は、たとえ雌の体では発現しないとしても、雌の体に持ちこまれているのである。(中略)
 もし私が長い尾をもった雄なら、私の父も長い尾を持っているばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。これは通常の遺伝にすぎない、しかしまた、私の母は私の父を配偶者として選んだのだから、彼女は長い尾をもった雄を好むばあいの方がそうでないばあいより多そうである。したがって、もし私が父方から長い尾のための遺伝子を受け継いでいるなら、母方から長い尾を好む遺伝子も受け継いでいそうである。同じ理由から、短い尾のための遺伝子を受け継いでいれば、おそらく雌に短い尾を好ませる遺伝子も受け継いでいるだろう。
 雌にも同様の論法を用いることができる。私が尾の長い雄を好む雌なら、おそらく私の母も尾の長い雌を好んでいただろう。したがって、私の父は母によって運ばれた以上、おそらく長い尾をもっていただろう。したがって、私が長い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく長い尾をもつための遺伝子も、それらの遺伝子が雌である私の体に発現しようがしまいが、受け継いでいるだろう。そして私が短い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく短い尾をもつための遺伝子も受け継いでいるだろう。一般的な結論はこうだ。雄にせよ雌にせよある個体は、それがどのような性質であっても雄にある性質をもたせる遺伝子と雌にそれとまったく同じ性質を好ませる遺伝子の両方をもつ可能性が高い。
 つまり、雄の性質のための遺伝子と雄にその性質を好ませる遺伝子は、個体群のなかででたらめに混ざり合うのではなく、連帯しながら混ざり合わされる傾向にあるのだ。この「連帯」は連鎖不均衡という、いささか人を怯ませるような専門的名称のもとで進行し、数理遺伝学者の方程式とともに不思議な手品を演じている。それは奇妙で不思議な帰結をもつが、もしフィッシャーとランドが正しければ、実際にはクジャクやコクホウジャクの尾や、その他多数の誘引器官の爆発的な進化はちっとも奇妙でも不思議でもない。これらの帰結は数学的にしか証明できないが、どんなものであるかを言葉で表すことはできるし、数学的な論議の香りを非数学的な言語で手にいれようとすることもできる。それでも心のランニングシュートが必要だし、あるいは現実には登山靴と言った方がアナロジーとしてはよいかもしれない。議論はどの段階もいたって簡単なのだが、理解の頂きに登りつめるには長い階段がある。もし最初の方のどの段のどこかを踏みはずしてしまうと、残念ながらあとの方の段には進めない。
 いままで、雌の選好性には、尾の長い雄が好みの雌から、その反対に短い雄が好みの雌まで幅が全体に及んでいる可能性を認めてきた。しかし、ある特定個体群の雌について実際に世論調査してみれば、たぶん雌の大部分は雄に対して同じ一般的な好みを共有していることがわかるだろう。その個体郡の好みの幅は、雄の尾長の幅を表すのと同じ単位(センチ)で表すことができる。かくして、雌の平均的な選好性は同じセンチ単位で表される。雌の平均的な選好性は雄の平均尾長とそっくり同じ、つまりどちらのばあいも七・五センチだと判明することもあろう。このばあい、雌による選択は雄の尾長を変える進化的な力とはならないだろう。あるいは、雌の平均的な選好性は現実に存在する平均的な尾よりも少し長い尾、たとえば七・五センチではなく一〇センチの尾に向けられていると判明することもあろう。しばし、なぜそうした可能性を仮定できるのかは問わないままにして、食い違いがあるとただ受け入れて次の明白な問題を問うてみよう。ほとんどの雌が一〇センチの尾をもった雄を好むのなら、どうして現実には大部分の雄が七・五センチの尾しかもっていないのだろうか?どうして個体郡の平均尾長は雌の性淘汰の影響下で一〇センチに移行しないのだろうか?好まれる尾長の平均と現実の尾長の平均のあいだに、どうして二・五センチの食い違いが存在しうるのだろうか?
 雌の好みが雄の尾長に関係する唯一の淘汰ではない、というのがその答えである。尾は飛ぶうえで大事な仕事をつかさどっており、あまり長すぎても短すぎても飛翔効率は低下してしまうだろう。さらに、長い尾は持ち運ぶにも多くのエネルギーがかかるし、何よりもまずつくるだけでも多くのエネルギーがいる。一〇センチの尾をもった雄は雌鳥をひきつけそうだが、雄が支払う代価は飛翔の低効率化であり、エネルギー・コストの増大であり、捕食者による狙われやすさの増大である。これは、尾長に実用上の最適値があるということである。それは性淘汰による最適値とは異なっていて、通常の便利さの基準からみて理想の尾長である。つまり、雌をひきつけることを別にして、あらゆる観点から理想的な尾長なのだ。」(57~61ページより)

 ある選好性の性質というものそれ自体がどのような分布であるかということは統計的な数値として科学は弾き出すことが可能かも知れない。例えばある時代のある国家とか地域に出現する大物政治家や科学者や芸術家とか、犯罪者のパーセンテージというものは大体一定していると茂木健一郎は「脳とクオリア」で述べているが、そのような考え方の科学者は大勢いる。
 つまりある週刊誌の表紙を飾る芸能人に対する好みというものは人それぞれであるが、ああいう雑誌の編集者というものはどのようなタイプの芸能人がどの程度の人々の数によって支持され、どの程度の好みのばらつき具合があり、それを把握して戦略的に今週は彼女の顔で行こうとか決定していることだろう。あまりにも編集長の好みだけで判断していては、全く異なったタイプの芸能人に対して贔屓にしているファン層を失ってしまうことだろう。
 例えば私は好きな女性のタイプは勿論一つではないものの、ある自分の中の一般的な傾向、特に顔立ちに関して(そういうことというのは性格とも関連していないとも言えないだろうが、同時に関係ない場合もあるだろう。事実顔の好みで伴侶を選び失敗しているカップルも大勢いるからである。)一定の傾向がある。ある選挙区においてかつてある法案成立を巡って対立して造反して立候補した女性衆議院とその刺客として擁立された女性衆議院はどちらも美女であったと客観的に思うが、その二人の政策に関してではなく、女性としてのタイプの好みというものに関して好き嫌いは分かれるかも知れないし、私はたまたま政策的選考基準も、異性としてのタイプとしての好みもある候補に一致していた。政治家に対する贔屓の場合政策が第一であるべきだが、こういう異性に対する魅力というバロメータも決して侮れないということは言えるかも知れない。
 例えばある男性がある女性を好きになったり、嫌いであると感じ取ったりすること、その逆でも同じだが、そういうことというのはその人間の性格を推し量れば、確かにそういう性格の男性はああいう性格とか顔つきの女性を好むという傾向が仮に発見されたとしても、何故その性格的選好性というものがたまたま自分に当て嵌まるのか、ということそのものの偶然的な根拠というものを科学は突き止めることが出来るのだろうか?
 それを私が言うとある種の人々は、その両親を見れば、分かると言いたいらしい。そういう風に遡っていけばあるいは全ての人類の祖先の伴侶を見出した基準というものが発見されるかも知れない。それは文化人類学的規準での根拠、自然人類学的規準での根拠として、統計的な数値から算出されるかも知れない。しかしそれでも尚そのような社会学的根拠とか生物学的根拠というものは例えば私が何故ある顔つきとか容姿の女性が好きになる傾向があり、実際そういうタイプの一人と結婚したいと望むかということを説明する根拠にはならない。何故それが私と親しい友人ではなく私なのか、ということの根拠は何も説明しはしない。
 私が知り合ったある青年は私に「自分は小説家としては中島敦と太宰治惹かれる、特にその文体に。」と語ったが、その根拠を説明しようとしてもある一定のところで必ず行き詰る筈である。それは丁度何故セザンヌが晩年に描き続けたシリーズがサン・ヴィクトワール山のシリーズで、何故ある角度から見えるその山を描き、ある絵において何故構図は左画面の縁から何センチメートルの箇所に左の山の裾野のラインを斜めに描いているかということの根拠を突き止められないのと同じではないだろうか?
 自然科学とは偶然を記述することは比較的容易く出来る。しかしその偶然が生じた根拠それ自体を起源的に遡れても、その起源そのものを生じさせる根拠を説明することは出来ない。それは恐らく生命の起源に関してもそうだし、生命現象を起爆させた地球環境とか物理的条件の偶然性を導き出した根拠それ自体を起源的にもし仮に突き止められたとしてもその起源の根拠それ自体は決して解明出来ないのと同じである。
 誰もが知る有名な哲学者の文章だったが、誰だったかが俄かに思い出せないのだが、その哲学者は人間がどうして感動するのかとかある芸術を好きになるのか、つまり魅力を抱くのかということそのものを根拠付けようとする哲学者ほど低次の哲学者はいないということを言っていたのだが、まさにそういうことだろう。
 だからドーキンスが選好性の遺伝子作用それ自体のメカニズムをどんなに説明し得ても尚、哲学的には何故その選好性の判断基準というものが内的にこの私に当て嵌まるのか、例えばあることに関して極度の神経質である私の性格の根拠というもの遺伝的傾向に求めても、何故そういう傾向自体が私の家系にあるのかということそれ自体の根拠が終ぞ見出し得ないということからも、そのような分析自体は極めて空しいと言える。
 つまり愛とは努力であるし、意志であるにしても、その愛を、あるいは愛する対象を選ぶ根拠なんていうものは恐らくないし、それを知ることに意味があるのではないし、また知ることは恐らく出来まい。しかしそういうことの根拠は一方で科学に求め知ろうと努め、それを逆に哲学は批判するということは延々と人類の歴史において反復されてゆくということもまた運命かも知れない。
 つまり哲学はある意味では科学を批判対象として必要とする。また科学は自分のことを批判する者として哲学を意識する。例えば改革者と名のつく人々にとって改革すべき悪しき状況が必要なのであり、改革に拮抗しようとする惰性的保守主義者という存在が積極的に必要なのである。何故なら彼らの存在こそが、あるいは彼らの招く改革すべき社会状況こそが彼を改革者としての地位へと押し上げるからである。
 そのことはドーキンスの次の言説からも納得がいく。

「植物が繁茂するのは自らの利益のためであって、草食動物のためではない。しかし、植物が繁茂するがゆえに、草食動物のためのニッチ[生態的地位]が開かれ、彼らがそのニッチを満たしていく。イネ科の草は食べられることによって利益を得ているという話がある。真実はもっと興味深いものである。いかなる植物個体も、食べられることそれ自体によって利益をえることはない。しかし、食べられたときにわずかな損害しかこうむらない植物は、より深刻な被害をこうむる競合植物に勝つことができる。それゆえ、成功するイネ科の草は、草食い動物<グレイザー>の存在によって間接的な利益を受けてきたのである。そしてもちろん、草食い動物は、イネ科の草の存在によって利益を受けてきた。したがって、相対的に適合性をもつイネ科の草と草食い動物の調和的な共同体(=生物群集)として草原が形成されるのである。両者は協力しあっているように見える。ある意味ではそうであるが、それは、慎重に理解され、また分別をもって控えめに言わねばならない、きわめて慎ましい意味においてそうなのである。<中略>
 生態系レベルでの調和という幻想は、それぞれが効率よく働いている生物の体がつくりだすダーウィン主義的な幻想とは異なる、別の種類の幻想であって、くれぐれもそれと混同してはならないと、私はここまで言ってきた。しかし、よくよく眺めてみると、結局は類似性があることが明らかになる。それは、動物の個体もまた、共生細菌からなる生物群集とみなすことができるという考察_もちろん、これ自体面白く、しかもより一般的に述べられているものであるが_よりもさらに深く突き進んだところにある。主流をなすダーウィン主義的淘汰は、遺伝子プールの他の遺伝子(厳密には、それらの遺伝子がもたらす結果)が含まれる。したがって自然淘汰は、種内で、体づくりという共同作業において、調和的に協力しあう遺伝子を選り好みすることになる。私はそうした遺伝子を「利己的な協力者」と呼んだ。結局のところ、体の調和と生態系の調和とのあいだには、類似性があることが判明する。遺伝子の生態系が存在するのである。」(「悪魔に仕える牧師」中6‐1遺伝子の生態学400~401ページより)

 この選り好みするという箇所の指摘が先に引用採録した選好性の遺伝子の主張の反復となっているが、このことに全く類似した面白い現代社会の状況がある。
 社会学者であり、法哲学者である大屋雄裕は「自由とは何か_監視社会と個人消滅」(ちくま新書)中の4監視と統計と先取りにおいて次のように述べている。

「たとえば家電用品チェーンが競うように導入したポイントカード・システムの場合、カードを提示すると代金の数パーセントから十数パーセントにおよぶポイントが還元され、それを次回の買い物の支払いに充当することができる。おサイフケータイや電子マネーによる支払いを受け付けるようになったコンビニが増えてきたし、その場合に限定した商品の値引きが提供されることも多い。消費者にとってこれらのシステムが持っているメリット(実質的な値引き)は明白である。だが、彼らにはいったいどんなメリットがあるというのだろうか。ポイントカードや電子マネーを導入することによって、企業側は何を得ようとしているのだろうか。
 答えの一つが情報である。コンビニのPОSレジが顧客層の分析に使われていることはよく知られている。一般的なコンビニでは、精算の際に顧客の年齢層と男女の別を示すキーを店員が押している。それによって蓄積された各顧客集団の消費動向をもとにして、仕入れ・品揃え・販売キャンペーンなどの戦略が決定されていくわけだ。たとえば五十代男性がコンビニに何を求めているかは、その集団がどのような商品を買ってきたかというデータの中に示されている。あるいは逆に、ある「お茶」を積極的に買っている顧客層がつかめれば、広告の主な対象を絞り込むことができるだろう。膨大なデータから隠された関連を見つけ出す作業を、データ・マイニングと呼ぶ。
 典型的な成功例と言われるのはある郊外型スーパーで、週末にビールの箱売りコーナーのそばに特売紙おむつを並べたら双方の売り上げが伸びたというケースである。一見関係のなさそうな両方の商品を、しかし同時に買っていく顧客が非常に多いことが購入履歴から浮かび上がったために実施されたキャンペーンだったのだが、タネを明かせばさほど不思議な話ではない。乳幼児を抱えた若い夫婦が、休日に夫の運転する車で買い出しに来てはかさばる品物をまとめて購入していたというのである。もちろんこのように、わかってしまえばたいしたことのないコンビネーションを、あらかじめ知られたタネなしに、膨大な情報・購入履歴を分析することで見出すのがデータ・マイニングの旨味であり、担当者腕前だ、ということなのだが(だからそれはマイニング=鉱山掘りなのである)。
 だがここではまだ、顧客は集団としてのみ把握されている。これに対しクレジットカード、ポイントカード、あるいは電子マネーが可能にするのは、さらに個別化された個々の顧客の行動分析だろう。集団としての顧客の分析では、あくまで同時に買われた商品のあいだの関連しか見抜くことはできない。だが顧客が番号付けされ・個別化され、その消費履歴が通時的に蓄積されていくとき、ある特定の客の・時間を通じた消費傾向を見抜くことが可能になってくるだろう。新しいプリンタを買った顧客がどのくらいのペースでインクカートリッジを購入しているか。あるいはデジカメは平均してどのくらいの期間で買い換えられているか。これらのデータが蓄積されていけば、それをもとにして販売戦略を立てたり、広告を展開することが可能になるのではないだろうか。たとえば、ある特性を共有する人々の購入意欲が高まる時期があるとすれば、それに合わせてバーゲンを開催すれば効果的だろう。あるいは、ちょうどある品物を欲しがるだろう頃合いの顧客に、その需要に合わせた宣伝広告を送り届けるというのはどうだろうか。
<中略><フーコーも引用していたパプティノコンを説明した後>
 そしてこのパプティノコンが電子的に実現されたものが現代の超監視である。消費者の行動を通じて生み出された情報は、人々の気付かないうちに集計され、総合され、そして個々人の消費者に対する対応が生み出される。我々の気付かないうちに、我々の見る商品のリスト、我々の行為可能な空間が形作られる。そこにあるのは電子的な監視の権力である。
<中略>
 だとすれば、情報技術の発展によって顧客が個別化され、個々人の消費履歴・購入傾向を分析することが可能となったとき、顧客への対応もまた効率化を求めて個別化されるだろう。それこそが「パプティノコン的分類」だ。
 もちろん我々は、そのようなテクノロジーが単なる空想の産物ではなく、すでに実在していることに気付く。たとえばAmazon.comの「おすすめ」機能は、いままでの取引によって蓄積された消費の関連性のデータ、すなわち「書籍Aを買った人が、あとで書籍Bを買っていることが多い」という実績に基づいて、書籍Aを購入した人に「書籍Bもいりませんか?」と推薦してみるというものだ。あるいはさらに積極的に、過去の購入履歴をもとにして、その本を求めているであろう顧客に対して新刊の広告を送ることも、すでに行われている。
 個別化された消費履歴から個別化された広告へ。つまり、そこで目指されているマーケティングは、過去の事実に基づいて未来の行為を予測するというシミュレーションの欲望に基づいている。
 そして我々はそこで、顧客一人ひとり、Amazon.comで消費する我々一人ひとりの行動が、監視可能な事実・属性の束として把握されていることに気付かなくてはならない。いわば我々はそこで、自己決定し判断する主体としてではなく、一定の確率や法則性に基づいてその行動を予測することのできる対象として把握されている。Amazon.comという「偉大なる兄弟」は、我々を見ているのだ。
<中略>
<前略>「パプティノコン的分類」は「類は友を呼ぶ」という一つの極めて単純な仮定に依存していた。その中で人は「類」として把握される。皮肉なことに、個々の顧客は個別化されて把握されることによって逆に、あるグループの中の一員としてのみ認識されるようになっていくのである。「おすすめ」のシステムは、人々の消費の仕方が互いに似ていると判定された小グループのあいだでは共通性が非常に高いという判断に基づいていた。そこにおいて個々人は、監視可能な属性によって分類される集団に基づいて把握されている。
 そしてもう一つ注目すべきなのは、そこで目指されている支配が確率的なことであることだ。当然のことだが、Amazon.comに特定の本を「おすすめ」された全員がその本を購入するわけではない。「おすすめ」の根拠になった本が気に入らなかった消費者もいるだろうし、間違えて買った人だっているかもしれない。「パプティノコン的分類」に基づく処理は、その対象の全員を逃げようのない形で従わせようとするわけではない。その意味でそれは、何らかの属性に該当するもの全員をもれなく対象とする法とは異なっている。たとえば社会全体を対象に広告を流すのではなく、効果の高い集団だけを選んで集中的にアピールすることによって、はるかに安いコストで購入者の数を増やすことができるだろう。対象とされた集団の一部だけにその効果が生じるとしても、コストとの比較・従来のシステムとの比較において優れているのであれば、効果的な支配が可能になる。そこに現われているのは、確率的な支配・柔らかい支配なのだ。」(101~113ページ中を抜粋)

 大屋の示している私が太字で示した部分が最も重要である。しかも氏の指摘はそれだけに留まらず、次の言説へとも繋がってゆく。

「消極的自由も最低限それを実質化できるだけの条件が整備されるという積極的自由の内容を必要とするはずだと、井上達夫が主張したことを思い出そう。紙もインクもない出版の自由など、絵空事である。だが、だとすれば自由が制約されるという場合にも、何かがそれによって不可能となったと個々人が感じること、人々の実質的な喪失の意識が必要になるものではないだろうか。ここでバーリンが積極的自由のはらむ一つの危険として、「内なる砦への退却」と呼ばれる現象を挙げていたことを想起しなくてはならない。
 
 確実に手に入れることができると考えられないものを追い求めることはすまいと心に決める。達成できないものは欲しないと決心するわけである。暴君は、私の財産の破壊、投獄、追放、愛するものの死をもって私を脅かす。しかし、私がもはや財産に愛着を感ぜず、投獄されているか否かを意に介せず、自分のなかの自然的愛情を圧殺してしまっていたとすれば、その暴君も私をその意志に従わせることはできない。なぜなら、私に残されているものは、もはや経験的恐怖ないし欲望に従属するものではないのだから。(バーリン前掲三ニ六ページ)<「二つの自由概念」のこと、河口注加入。>

 井上達夫はこれを現在の環境をもとに「自分が望むもの」を決めてしまう「順応的選択の形成」の問題だと指摘している。(後略)」(120~121ページより)
 
 つまり大屋の言いたいことというのは、現代社会の監視システムを招聘したのは、我々の中のある資質であるということで、その資質がまた一方では権力に必然的に積極的自由を付与してしまうという悪循環である。そしてその元凶として氏は井上達夫の概念であるところの「順応的選択の形成」であると言う。
 この順応選択という作用は、私たちが無意識の内に設定してしまう全ての規範であると同時に、脳科学的な見地に立てば、反応選択性と呼ばれる一定の知覚作用とも重なる。例えばおばあちゃんというイメージそのものは我々の脳のある一定の発火現象によって、ある人物対象に対して脳が示すパターンによって、ある程度決定されている。寧ろその決定された脳の発火パターンに随順しない女性がいたとしたら、その女性に対して我々は「おばあちゃん」というイメージでは接することが出来ないということもあり得るわけだ。
 私たちが自分の脳に中で一定の親縁的なイメージ像、心像のようなものを形成することそのものが、一方ではそれを無意識にしている脳作用そのものに引きずられて、まるで意志として、意識的にしていると自分では思っている多くの決断(だと自分で思っている)を実はそういった無意識の脳作用が我々の意志を支配しているという現実も示している。
 それはだが我々を監視する営利企業側の私たち一人一人の顧客データによる広告戦略そのものにも該当する。つまり一定の消費傾向に対するデータから算出された広告戦略は、「こういう商品を消費する顧客の次の商品選択はこうであろう」という目測自体が、選好性のある「よく見られるパターン」に随順した購買戦略であるからである。
 つまり騙される側を嵌めている積りの騙す側そのものが、既に我々消費者に対して採る購買戦略において順応的選択形成している、ということが言えるからである。それは先述において私が抜粋引用したドーキンスの「自然淘汰は、種内で、体づくりという共同作業において、調和的に協力しあう遺伝子を選り好みすることになる。私はそうした遺伝子を「利己的な協力者」と呼んだ。」という言説と相同のメカニズムを発見することを我々に強いる。遺伝子レヴェルで我々の種を形成する自然淘汰の作用が社会学的な我々消費者と購買促進営業部の戦略との間の奇妙な心的な合致、つまり騙す側と騙される側の奇妙な合意のような経済消費システムの状況が、私たち自身を、そして私たちを巧く乗せている企業の双方を利己的な協力者に仕立てているのもまた、井上達夫の言説であるところの「順応的選択の形成」という脳内の判断において脳科学的に示されている反応選択性と密に連携プレーをしている私たちに意思決定の無意識の意図性である。
 私は実はそれこそが関心という私たちの意識的な心的状態を作り出しているのではないか、と考えているのである。
 つまり関心の質量というものは、実は関心対象に対する愛着それ自体を作り出している我々の脳の作用とも関係があるし、そういった脳作用それ自体を客観的には理解を示しながら、その脳作用そのものを解明しようと科学者たちを追い立てつつ、哲学者たちをある意味では懐疑的な立場の人間に絶えず追い込む私たちの意志というものかも知れない。つまり私たちの意志というものは、一方で脳に助けられながら、他方ではその脳そのものの作用をさえ懐疑の対象としてしまう私たちの止むことのない知りたいと願う欲望である。その証拠に大屋の先ほどの文章は次のように続くのだ。
「典型的な例としてイソップ童話の「すっぱいブドウ」があるだろう。何度とびついても手の届かないブドウについて、キツネは去り際に「あのブドウはきっとすっぱいに決まっているさ」と捨てぜりふをはくのだった。いまの境遇がつらいのは、手に入らないものを望んでいるせいである。だとすれば、手の届かないものなど最初から望まなければ楽になれるのではないか。」(121ページより)

 生粋の哲学者なら、だから次のとある漫画の登場人物の言説を切実なアイロニーとして受け取るかも知れない。
「人間の脳がどのような仕組みになっているかと不思議に思い、脳を調べて脳の正体が解明されるくらいの脳の仕組みの単純さだったなら、我々の脳は我々に脳がどのようになっているかと不思議に思い調べることなどしはすまい。」
 これはある意味では脳科学、あるいは脳科学者全般に対する痛烈な皮肉である。
 ある意味ではドーキンスはダーウィニズムを標榜することを通して、科学では解明つかないことに対する事柄を暗黙の内に科学者自身で気付くことが重要である、と考えているタイプの科学者なのかも知れない。そしてそのことは科学者としてドーキンスが最も現代に対して最重要であると考えているダーウィン本人の科学者としてのタイプにも言えることである。
 ダーウィンにおいて最も重要な概念は進化ではない。これは逆説的に響くかも知れないのだが、実際のところダーウィンは変化してゆくそれ自体を自然の仕業であると考えたが、そのことを進化であるとか進歩であるという判定そのものは大して重要であると考えていたようには私には思えない。寧ろそうであるからこそ彼が最も重要な指針としてきたものが自然淘汰と適応であるという事実が意味を持ってくるのだ。
 つまり彼は私たちが自然という不可思議に対して抱くあらゆる思考傾向性の持つ迷妄と、自然の選択というものは悉く無縁である、ということを一つ一つ私たちの抱くドグマとアポリアを除去して行った先に残る意図のない(それ故哲学者たちが空虚であるとか、無意味であるとか規定することそれ自体が既に哲学的主観であるということを意味するのだが)自然の選択(一定の好みも、贔屓も一切ない)である、ということだけが我々が唯一心に留めておくべき真実(真理ではない)であるということを示した科学者であるからだ。
 要するに自然は非意図的である限り、非倫理であり、非感情であり、非意志であり、非欲求であるということに他ならない。
 しかしそのことについて哲学者はどう捉えていたのかということを、最後にレヴィナスとカントとアンリそして永井均氏から考えてみることで、関心の質量が、実は郡司ペギオ氏の指摘のように、内包と外延の認識における齟齬のようなものであるということが鮮明に浮かび上がってくる。
  
 勿論三者とも全く異なった位相から捉えているのだし、共通性というようなものは見出し得ないし、また見出そうとすること意味はない。ただ私は齟齬をどのように克服しているか、という一点にのみ感心の質量を考えたいということなのである。
 例えばレヴィナスは家族の大半をナチによる迫害で失っているという時代的、民族的特殊状況を掻い潜り抜けてきたその経験から、あるいは彼自身の持って生まれた人間性から他者に対する独自のスタンスの採り方が彼の哲学の中に生じさせられている。それは関心を抱くというような冷めた意識でもなかったかも知れない。
 より彼の哲学の独自性が表出された「時間と他者」において<死と未来>において

「希望は、死の瞬間に、逝かんとする主体に与えられる余白そのもののうちに存在するのだ。(中略)無は不可能なのだ。無であれば、人間に対して、死を引き受け、実存の隷従から至高の支配を奪い取る可能性も残しただろう。《To be or not to be》〔生きるべきか、死すべきか。あるべきか、あらざるべきか〕は、このような自己を無化することの不可能性の自覚なのである。」

と述べている。確かに我々は今こうして生きてしまっている。生まれてきたからこそ、死を当然のこととしては受け容れられない。しかしそのように当然のこととして受け容れるということは、ハイデッガーが最も嫌った「眼の前に既にあること<フォアヘンデンハイト>」であることから何ら疑念を抱かずに生を送ることである。目前に認められる対象も他者も実は、それを認める自己主体の存在によってであるが、自己という想念を抱かせるものとしてもまた対象も他者も存在しているし、その対象と私との距離、他者と私との距離を近いものとしても、遠いものとしても延々と哲学者たちは問うてきたのである。そしてその近さや遠さそのものが生を価値というフィルターで捉え直すことを我々に強いてきた。だから生を死の側から捉えることが出来ない以上、死を容易に受け容れられないという前提で全ての哲学は出発している。実はアポトーシスというような形で生命現象全般に渡る運命として生物学者たちが探求している死のシステムという命題さえも、実は彼らもまた科学者だから特別の物の見方が出来るとふんぞり返っているわけではなく、ただ死に対する恐怖を和らげるために奔走しているに過ぎないのだ。
 永井均氏はテクスト「私、今、そして神」において氏にとって三つの最大に不可知な思念内容をクローズアップさせた。これは今ということに関してはライルも言っていることだし、「私」は殆ど全ての哲学者が言ってきたことであるし、神も有神論的立場の哲学が珍しくなくなってきてからも尚、どこかで厳然と居巣食い続けている思念である。だがレヴィナスは率直に「私」以上に他者が最大に不可知なことであるとする。しかし永井氏が私の存在の比類なさを追い求めているということが仮に氏に考えておられるように独自なことであったとしても尚、私とは他者(私にとって永遠の客観であるところの)ではないということに尽きると考えれば、それは使用する語彙の違いであるということも出来る。あるいはレヴィナスは時間ということの中にやがて訪れる死という非生、非実存に対して抱く不可解を別な形で認識し直す(解明はされ得ないものの)ために他者を考えている、あるいはハイデッガーが、死が生命現象の一部であるにかかわらず、非公共的であることを感じ取っていたことと共通する私にも他の誰とも変わりなく到来する死という他者との共存(生とはまさに死との共存であると言える。)において、「私」という不可解をクローズアップさせようとしたのかも知れない。

「(前略)主体がもはや何かを捉えるいかなる可能性も持つことのない、そのような死という状況から、他者と共にある実存のもうひとつの特徴を引き出すことも可能である。どうやっても捉えきれることのないもの、それは未来である。未来に外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(中略)未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕らえるものなのである。未来とは他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語ることは、われわれには不可能であるように思われる。」(同書、67ページより)
 つまりレヴィナスは時間の中のとりわけ未来というものの他者性を取り上げることを通じて現存在としての他者の深刻さ、重大さというものをより比喩的にクローズアップさせることを試み、そして同時にその重大な他者もまた、私同様死という非私性を不可避的に、生をある日突然中断させられるという命運の只中にあるという意味で重大な時間というものを相補的に二大不可知領域として措定しているのである。
 そのことを端的に次のようにレヴィナスは言述している。

「問題は、永遠を死から引き離すことにあるのではなくて、それを迎え入れること、ある出来事がその身に起きる実存のただ中で、位相転換によって獲得された自由を自我に保存しておくことを可能にする、というところにあるのだ。それは、出来事が起きると同時にまた、それにもかかわらず、事物や対象を迎え入れるようには、それを迎え入れることのない主体が、出来事に正面から立ち向かう死を克服しようとする試み、とでも呼ぶことができるような状況である。(70ページより)
(中略)
 出来事が、それを引き受けることなく、それに対してできることを何もし得ない主体に起きる、というこのような状況、しかしそれにもかかわらず、出来事が何らかのかたちで主体の面前に存在している、というこのような状況、それは他人との関係、他人との向かい合い〔対面〕le face‐to‐face、他人をもたらすと同時にまた他人を遠ざける顔貌<ヴィサージュ>との出会いなのである。「引き受けられた」他者_それが他人である。(71ページより)
(後略)
 死がもたらす未来、出来事の未来は、まだ時間ではない。というのも、誰のものでもないこの未来、人間が引き受けることのできないこの未来は、時間の一要素となるためには、やはり現在との関係に入らなければならないからである。まさしく合間を、現在と死とを隔てるまぎれもない深淵を_取るに足りないものでありながらも、しかしそれと同時に、無限のものでもあり、そこには常に希望のための十分な場所のあるこの余白を_かかえこんだこの二つの瞬間をつなぐ絆とは、どんなものなのだろうか。時間を空間に変換するのは、確かに純粋な隣接関係ではないが、しかしまた、それは呪力(デイナミスム)や持続の飛躍でもない。というのは、現在にとって、それ自身の彼方に存在し、未来を侵蝕するこの力は、まさしく死の神秘そのものによって排除されているように、われわれには思われるからである。
 未来との関係、現在における未来の現前は、やはり他人との向かい合いのなかで実現するように思われる。向かい合いの状況は、時間の実現そのものである、というわけだ。現在による未来に対する侵蝕は、単独の主体の所業ではなくて、間主観的〔相互主観性〕関係なのである。時間の条件は、人間同士の関係のうちにないし歴史のうちに存在するのだ。(72~73ページより)

 レヴィナスは他者が時間同様個としての人間の独在性を構築する要としてある部分では神秘的に、ある部分では自明な存在として立ちはだかっているということを力説する。確かに未来は存在しない。これは中島義道氏の主張するところでもある。その不在の未来、あるいは未来の到来ということそのものの不確実性の前で誰しも抱く不安は、しかし他者との語らいと、相互に私秘的ではあるもののデモーニアックな願望を誰しも携えているということに対する確認において、我々は時間の自明ではあるが残酷な一面に対して相互の共通体験性(つまりその残酷な時間に拮抗して生きているということの共感と、同情)の確認において、他者が最もミステリアスであるにもかかわらず、最も理解し合える存在でもあるという両義性を確認することによって克服することが出来るのだ。
 そのことに関しては永井均氏が最も適切な信頼ということ、信じるということの絶対的命題を他者性と絡めて言述しているので再録しておこう。(「なぜ人を殺してはいけないのか?」87ページ~91ページより、小泉義之共著、河出書房新社刊、第二章 きみは人を殺してもよい、だから私はきみを殺してはいけない)

「3、きみは人を殺してよい
 さて私が、このことを他人に向かって語るとしよう(いま現にそうしているように)。それはどう理解されるだろうか。
 もしこの議論の趣旨が理解されるとすれば、それは「世界の中で、永井は殺されてはならないが、永井だけは人を殺してもよい」という意味には理解されないはずである。それは、それぞれの人にとって「私は殺されてはならないが、私だけは人を殺してもよい」という趣旨に理解されるはずである。だが、このように「私」が一般化されてしまうことこそが、最初に拒否されていたはずではないか。誰もが、あるいは多くの人が、自分だけが人を殺してよくて、人に殺されてはいけない、ような社会は、誰もが、あるいは多くの人が、拒否する社会であるのだから。たしかに、一般的にはそうだ。だから、私はこの議論を他人に向かっては語らないはずなのだ。
 だが、ときに私は、人に向かってそのことを語りたくなる。きみは人を殺しても、何をしてもいいのだと、どうしても言いたくなってしまうのだ。あまりにも図1のような世界像を自明視して、そのような世界で成り立つ規範を金科玉条のごとく信じている人には、そんなものに縛られなくてもいいのだ、なぜならこれはきみの世界なのだから、と言いたくなってしまうのだ。つまり、きみは世界そのものの主体なのだ、という説教(ふつうとは逆向きの説教)をしたくなるのだ。これは、もちろん自己破壊的な説教だし、そもそも事実に反しているはずなのだが。
 ここで直面している問題は、独我論の伝達という問題と同型である。いや独我論の伝達という問題そのものである。夢の喩えで言えば、私が他の人に向かって「この世界はきみの見ている夢だ」と語ることに対応する。そういう可能性はないといま言ったばかりではないか。それでも私は、「これはきみの見ている夢かもしれないではないか」と語りかけることによって、そういう世界理解の可能性があることを人に教えることができる。どうしてそんなことができるのだろうか。
 もし私=永井が小泉に対してそう語りかけるなら、そのとき暗黙のうちに図4(図5)のような世界が想定されていることになる。この世界を「小泉世界」と呼ぼう。私=永井にとって、それは小泉という人物を起点にしてしか構想されないからである(それに対してここでは詳論しなかったが、図2や図3の<私=永井>の結びつきが偶然的であり、私はその世界を永井という人物を起点として構想しない)。これは夢の中に登場する人物が、夢見の主体に対して「これはあなたの見ている夢ですよ」と教えるという構図である。もちろん夢から覚めた「あなた」はもう小泉ではなくてもよいのである。自分(これは誰だ?)が小泉という名のお祈り好きのデカルト学者になっている夢を見ることは可能だからだ。
 その誰からに対して(のみ)私は「きみは人を殺しても(何をしても)よいはずだ」と呼びかけることができる。そのとき私が「きみは人を殺しても(何をしても)よいが、人に殺されてはならない」と言っていることになる。だから、私が他者に向かって、きみは人を殺してもよいのだ、と呼びかけるとき、そのきみだけが、私が殺してはならないものなのである。つまり他者に対して、「これはきみの世界なのだよ」と呼びかけるとき、そのときはじめて、私はきみを殺してはならない立場に立つのだ。私はそのときだけ、その人の生を手放しで肯定している。
きみは何をしてもよい、人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。私はそう言いたいのだ。これがつまり、<魂>に対する態度である。
 つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。逆に言えば、私が人を殺してはならないという社会規範を自らに受け入れることができるとき、私はその社会規範を破壊しているのでなければならない。
 だから人を殺してはならないという社会規範は、じつは社会規範の範囲を超えているのかもしれない。この規範は、じつは不可能な規範、社会空間の中では表現できないことを、あたかもできるかのように語っているのかもしれない。殺人は最も極端な例だとしても、ひょっとすると、同じことがあらゆる社会規範について、言えるのではないだろうか。私はそう疑っている。」(図は省略したが、関心の或る方は原著本を参照されたし。著者注、著者加入。)

 ここで永井氏が主張したいこととは私が太字で選択した部分である。そして氏は哲学が時として危険なものであるということ(それは中島義道氏も常々主張されていることである。)、そしてそのように社会正義とか、社会規範的道徳教育とは無縁の立場で考えること(氏の語彙を借りれば<ふつうとは逆向きの説教>としてしか成立しないようなタイプの考えをも含めて正しいと思うことであるならそれが社会規範と一致していても、逸脱していても差別しないような考えをすること)、そして既成の枠組みで物事を考えることを拒否すること、そしてそれは正しいとされる倫理問題や社会道徳的問題でさえ批判対象とすることを辞さない要するに聖域なき精神の構造改革であり、問題の範囲を拡張し波及する範囲が無限定であることこそが哲学の律儀ではあるが、その律儀さこそが唯一の哲学が保障すべき自由であるという考えが示されている。しかもそのような哲学の語りをしようと考える他者とは氏の考えているように、その者だけは世界で生き延びていって欲しいし、その者からだけなら自分は殺されてさえも惜しくはないとさえ言える、つまり本音を語れる相手であり、かつそのような他者と巡り合いたいという価値論的な自己幸福的なエゴイズムこそが、哲学的問いを語りかけるに足る他者である、永井氏の他者論の神髄がここで示されていると私は考えるのだ。だから結論的に「きみは何をしてもよい、人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。私はそう言いたいのだ。これがつまり、<魂>に対する態度である。」と語る時、きみと氏が語る者とは哲学を理解する者に他ならない。そして続けて「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。逆に言えば、私が人を殺してはならないという社会規範を自らに受け入れることができるとき、私はその社会規範を破壊しているのでなければならない。」と氏が締め括る時、私たちは次のことを考えねばならない。何か法秩序を逸脱したような罪を一切犯さないで社会規範的に善良に生きることというのは、道徳的社会規範に随順した生き方のように一見考えられるものだが、実はそうではない(このこともまた中島義道氏が「悪について」でとくとくと主張されている)。心情倫理的には犯罪者が最も社会規範に随順しているとさえ言える。何故なら彼等はある意味で社会規範に挑戦し、その挑戦が功を奏さない時社会的法の制裁を受けることを選んでもいるからだ。しかし一切法に触れないような生き方をしている者は、逆に法に触れさえしなければ何をしても、一切制裁を受けずに社会規範の側からお咎めなしで生活出来るということであり、それを選んでいるのだから、社会規範に対して随順しているのではなく、寧ろ心情倫理的な意味合いからすれば回避しているさえ言えるのだ。だから社会規範に最も非随順的に生きるとは、端的に一切の社会規範的な法秩序を犯さずに、その制裁から逃れるように法を遵守することなのである。その生き方には社会規範というものの存在理由を自己の幸福以上の価値としては認めないという考えが潜んでいるからである。しかし犯罪者はそれをして見つかれば、法的制裁を受けることを知って尚且つその行為へと赴いている。この行為を心情的に判断すれば、社会規範そのものに挑戦しているわけだから、社会規範というものの存在理由そのものを、法秩序を遵守する者より、自己幸福以上に高く見積もっていることになるのだ。
 だからこそ真に人を信じるという時、我々はその者が犯罪に走ったとしても尚、そのものへの好感情、そして贔屓心、そして応援する立場を崩さないという行為選択を我々が採ることを自然化するのである。それは端的に社会規範に随順ではないこと、つまり社会規範にのみ随順であることは、犯罪者に追われた友人に危険が差し迫るので敢えてその犯罪者から友人が逃げたことを告げることをしないで犯罪者に嘘をつくことを促進する。カント的に言えば、善であることの真たる行為とは、犯罪者に追われた友の居所を犯罪者に尋ねられた時に、友に危険が及ぶ可能性があっても、嘘偽らずに、教える行為選択を意味するのだ。カントはそのことを言いたいために恐らくあのように批判を浴びることを承知であのようなことを「実践理性批判」で言ったのだ。善であることは価値論的なことであり、当然人間的感情として好ましいことを意味しない。善的な心情として(責任ではない)心情倫理的に正しいことをするということは、その正しいことを犯罪者にまで適用せねば完遂し得ないことを意味する。そうでなければ善とは成り立たないからである。しかし重要なこととは、それは信じたいから信じるとか、信じられるから信じるのではなく、他者に対してある者は信じ、ある者は信じないということが贔屓感情からのみ出ているとしたら、それは善ではないだろう。しかし善的な価値規範(それは断じて社会規範とは異なる。これは強調し過ぎてもし過ぎることはない。)から言えばある者の行動や思想が信じられるから信じるという他者信頼のバロメータそのものは間違ってはいないだろう。そこにただその者が好きなタイプだったから思想や行動とは別の問題だ、というようなことを適用していなければ。そして永井氏のこの言述においてきみと呼ぶ者こそ、哲学を理解する徒ということとなるのだ。そしてその信じたい者とは善的に、価値規範的に正しい者とも限らないのだ。だからこそ人間はサルトルが対自と即自に引き裂かれた非法則的一元論的に、両立論的に生きているという現存在ということになるのだ。その自己矛盾、つまり善であることを価値的に認めながら、そういう行動と思想のみで生きる者を信じたくはないということが、必ずしも我々にとってレアールな観念として<善=信じる>が該当しないということと、社会規範的随順であること、あるいは社会規範的に善であり、社会規範非随順であることの両方とも、善ではないという、要するに全てが一致するとは限らない(一致する時もある。)ということから引き起こされるジレンマこそが哲学によって社会規範的に正しい行いとされているものをも含めて全て懐疑と、批判の対象とすることを辞さない自由という論理思考的責任論に追及する必要があるのだ、という主張がこの永井氏の言述には込められているように私は思う。するとこの論述自体は極めてある部分レヴィナス的である。特に他者への信頼ということに内在する善との不一致において。
 レヴィナスは「存在の彼方へ」(405ページより)において次のように述べている。

「呼気と吸気いずれにも属さない瞬間によって分離された、呼気と吸気の隔時性は獣性ではなかろうか。(中略)他人によって息を吹き込まれることで、この息切れは<存在すること>を突き破る。(中略)自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。世界も場所も有さざる自己の開けとしての空間の開けは非場所であり、何ものにも取り囲まれないことである。このような空間の開けは、最後まで息を吹き込んで、ついにはこの吸気が呼気に転じることである。かかる開けないし呼気、それが<他者>の近さであり、この近さは、他者に対する責任、すなわち他者の身代わりになることとしてのみ可能である。」

 ここには善が価値論的に正しいとされることの中にも信じられないことがあり得る(先ほどのカントの例のように)と、価値論的には容認し得ないことでも信じるに足ることはあり得るということ、それは永井氏が自己犠牲してもいいくらいに信じたい他者という想念こそが聖域なき懐疑と批判の必要性(=哲学すること)、そしてそうし合える他者からなら殺されてもよいとさえ感じる瞬間こそが、身代わりになってもいいと思える、そういう者をもって初めて他者と我々は呼ぶという、信じることの可能な価値規範的な善(情動論的、衝動刻印的、扁桃体感情記憶的、感性論的善)とその価値規範とは社会規範的な善とか正しいと考えられる価値規範的善(意志論的、海馬意味記憶的、理性論的善)とも不一致なものである、だからこそ中島義道氏が常々主張されているような意味で、瞬間という想念自体が時間論的に捏造されたものであるという「瞬間という無に対する幻想」が呼気と吸気を隔絶する瞬間を作り出すという我々のアポリアをまずレヴィナスは言っておいて、然る後それを信じることの容易さ、つまり誤謬的なこと、ドグマであること、ドクサであること、しかしそれもまた例外なくそのドグマから出発する他者に対する信頼ということに、我々は本音を語ること、あるいは他者に対して価値論的善さえも相互に懐疑と批判の対象にすることを辞さない聖域を設けない非差別主義、そして意識も自己も空間的延長を持たないものであるから、その非場所性において我々は他者を信頼し、他者に対して犠牲になってもよいとする他者と出会った時初めてその他者を真に哲学的な他者と呼ぶのだという主張もレヴィナスのこの述定から読み取れるのである。レヴィナスのこの述定には明らかに価値論的善に対するアナーキー、つまり衝動論的な価値規範謀反論の趣きがある。これはドーキンスの選好性の遺伝子ということを永井氏もレヴィナスも哲学者なりに直観し得ていることを意味している。(永井氏の衝動論に関しては自著「他者と衝動」別ブログ「決心の構造」で詳述したので、参照されたし。プロフィールにおいてクリック可)
 質量とは内包と外延の齟齬によって生み出されるという郡司ペギオ氏流の概念規定から考えれば、今述べてきた価値規範的正しさという理性論的、意味論的善は必ずしも我々の感情、つまり信じられる、信じたいということと一致するわけではないということからも明白であり、だからこそ関心の質量とは、信じられることと信じたいこととの一致を幻想であると認めつつも、理想論的には志向せざるを得ないということと、その不一致に対する絶望を希望ではないものの、ニヒリズムから少しでも遠ざけることを志向することが、哲学することなのであり、そのために生物学の観念は自然科学の中でも哲学することを可能とする哲学的他者獲得のためにも有用であるということが現在の私の関心の質量の構成要素となっている。
 最後にカントの「実践理性批判」と「判断力批判」中で彼が関心について触れた箇所を粒さに見てゆくことで、関心の質量についてもう一度検証してみよう。