Monday, October 19, 2009

B論文 「信仰心と無神論<今後以下省略>」 第一章 現象学の砦で

 現象学とは一体どのような学問であるかということを直に述べると、途方もなく本論の主旨からずれてゆく。と言うのもまず私はミシェル・アンリが現象学者だから関心があるのではないし、現象学という哲学の一派が色々な角度から論じられている現状においては、現象学一般の世間的に通用するイメージを損なわないように本論でも心掛けるしかないということもあるからだ。この態度はそれ自体消極的な自己主張のようであるが、間違いではないとだけは言える。と言うのもそのような平均的な現象学に対する見識一切を無視する必要が私にないということと、それはそれとして私がアンリを通して考えてゆきたいことというのは、そういう一般論ともまた多少異なっているということが言えるからだ。
 しかし現象学をただ現象学者と呼ばれる哲学者の考えに沿って歴史的に探訪することだけで理解出来るとも私は思わない。例えばブレンターノやフッサールに起源を見ることの出来る現象学は、もっとずっと昔ランベルトによって既にその言葉が見られる。そしてカントもその語彙を使用していた。しかしもっと重要なことというのは、ヘーゲルの「精神現象学」や、それ以降の現象学によって展開された考え全体を、つまりその語彙的起源にまで遡って考えてみると、どうやら現象学を成立させる基盤としてドイツ観念論哲学が聳え立っているようだし、そのドイツ観念論哲学を世に送り出したカント、フィヒテ以前の哲学史そのものの中に既に現象学を成立させる土壌は用意されていた、とも言えるのである。
 序において私は「現れる」という語彙は、それが現れると確認出来る自分の位置によって、あるいは自分の存在によって成立していると言うようなことを述べた。そうなのである。「現れる」こととは、向こうで何かが現れるように自分が世界にかかわることをおいて他にはない、ということなのだ。例えば現象学の流れを汲むレヴィナスが他者哲学の要素を濃厚に持っているという事実、あるいは他性を認識する主体の世界へのかかわり方そのものが哲学の流れを作ってきたという事実が、実は現象学を現象学たらしてめている当の本質である。そしてそれはある意味では哲学ばかりではなく、自然科学においてもずっと考えられてきたことでもあるのだ。そこに現れていることを観察すること、そしてその観察する主体を相対的に捉えることが自然科学的態度であると私は言ったが、現象学ではそのこと、つまり主体論そのものは保留にするが、かと言ってそのことに全く関心がないわけではない。しかし少なくとも現象学では志向性ということを主軸に世界との主体のかかわり方を観察するので、その志向性を有する限りで世界と対峙する主体の在り方が決定されているので、その主体の存在理由とか存在する意味といったことは、それとはまた別次元の問題である。取り敢えず私は今ここにいて世界について考えているという事実があればそれでいい、ということである。
 しかし哲学者の多くが現代でも多く論じている当の意識とは、志向性そのものである、と言っても、実はこれもまた多くの論客が言っていることであるが、意識そのものを外在的に、つまり客観的対象として認識することそのものは、ある意味では恣意的な思念であって、つまり作られた態度であって、実際の日常生活においては、我々の意識とは、意識の内容以外のものではあり得ない。つまりフッサール流の生活世界の中では、意識そのものを問うこととは例外的で特別なことであり、生活上の専らの我々にとっての関心は、明日の天気がどうなるかとか、今日の株式はどうなるかとか、帰宅したら妻はどんな表情で私を迎えてくれるかということに全て注がれている。そして知覚世界としては眼前に広がる出勤時、帰宅時の風景とか、車窓、バスの中の様子とか、いつも立ち寄るトイレの様子とか、テレビで見るナイターの中継の様子とか、要するにそういう私たちの接する世界の一場面における様相が全てである。そしてそれに対して我々は何らかの感情を抱き、外部的な刺激に対応するべく全ての行為を成立させている。その行為の中で他者という存在者の存在はあらゆる私の行動の動機ともなっている。
 哲学を問うことに意味があるとすれば、私たちがそのように生活しているその実態を、我々はどのように捉えたらよいか、ということに思いを馳せる時に、私たちを一体何を基準に私たちとしているのか、ということを考えることにあると言ってもよいだろう。
 例えばこの文章を書いている私は2009年の下半期にパソコンの前に座っている私であり、日本人である。そしてそういう個人的なデータを持つ私が世界に相対すると考える時、そこには私以外の大勢の世界で生活する人々の存在を認め、その存在の中の一部であると自分を捉えることの出来る能力の保持者として私が私を認め、その前提において、世界を考えるということを成立させているということが言える。
 世界は私がいなくても恐らくずっと存続することだろう。それは世界、つまり地球が滅亡するまでは少なくともそうである。しかし私にとっての世界は私の死と共に、少なくともこのようにして問うこと、世界とは何かと考える対象としては消滅する。しかし少なくともその瞬間までは私は私の存在を世界の存在の契機として世界の中に位置づけながら、徐々に私の身体の変化と共に変化しつつあるそのさまを観ることが出来る。
 私が生きている内は私によって確認出来る世界の変化というものは、私の生活世界である。しかし私の死後も何らかの形で人類は存続してゆき、その変化、つまり世界全体の様相を刻々と変化させ続けるであろう、と私は考えることが出来る。この時ある意味では世界は私と明らかに切り離されている。つまりこの世界が私がいてこそ考えられるという事実において世界は生活世界としての実相を備えた実存であるが、私と切り離されても尚存続するであろうという私の側からの認識を経た後の世界とは、理念的世界であると言ってよい。つまり私は私という存在を成立させている私の意識によって、この世界を「私がいる世界」として認識することが出来るし、それを基礎として世界の枠組みを考えることが出来るが、同時にその世界から私という存在を切り離して考えることも可能である。その時世界は私が現に今こうして生活しながら認める世界のあり方を、それ自体私から独立したものとして捉えていることを意味する。そして私は恐らく私以外の全ての人が何らかの形でそういう考えを持つだろう、ということも予想出来る。
 つまり世界を考えるということは、私の存在を成立させている私の世界の成り立ちそのものにまで考えを及ばせることが出来るということを知ることでもあるのだ。そして私がこの世界に誕生してくる前にも世界はあったし、私の死後も世界は存続し続けるだろう。つまり私はほんの一時、この世界の構成者として参加者としてこの世界に存在する者である。しかし私の隣に住む人にとってその世界はその人の誕生から死までの時間の中にこそある。時間というものは先験的にあると考えられるものであるよりは、私にとっては私の誕生によって開始し、始動し、私の死によって恐らく永遠に私にとっては停止するようなものとしてまず存在し、次にそういう運命にある私によって思惟された対象として、つまり私の生活世界から現に今もそうであるように創られる私の思念による理念的世界の構成要素として、私の誕生前にも流れていて、私の死後も流れるであろう、そういう不変的なこととして存在するであろうということを私に知らしめるものとして、予感させるものとして存在する。つまり私にとって世界は、そして世界の中に延々と流れ続ける時間というものは、私という存在によって考えられ、然る後、その私の存在を私の側から無視することを考えの上で可能にするものとして立ちはだかる。
 つまり私は私という存在、私の意識、私という思考する主体なしにはそういう理念的世界や理念的時間を捉えることが出来はしないのに、それらは依然としてそういう私、つまりそういう理念そのものを直に捉えることが可能なこの考える主体である私を離れても絶対存在してきていて、これからも恐らく私の死後もずっと存在し続けることが当たり前のものとして存在する、ということをこの現に考える主体である私の意識によって位置づけられるのである。ここに次のような図式を与えることが出来る。
 
ステップ①
私は考える主体としてここにいる

ステップ②
私は世界というものを想定することが出来る。そして世界の中に私はいるが、それは私が考えるからこそ想定されるものである

ステップ③
しかし私がもしここにいなくても、あるいは私がここにいなかった頃から世界はあり、私が居なくなっても尚私不在のまま世界はあり続けることが出来るに違いない

 私が生活世界を実感するその端緒となっているのは、ステップ①を私が実感するからである。勿論私は四六時中そのような思惟に赴いているわけではない。私は何かをしている時にはその行為に没頭しているのだが、そういう日常的な連鎖それ自体を私が意識することが出来ると私が感じる、日常の各瞬間に私はステップ①を実感する。
 そして私は世界そのものを存在として理解することが出来るし、そういう世界が実際にあると感じる。そしてそれは私がここにいるからこそ考えられる把握の仕方である。私がいなければ私は世界を実感することが出来ない。これはステップ②である。
 そして一旦そういうものとして世界を理解するとしたら、私はそういう世界そのものを「世界」として私自身と切り離して考えることが出来る。それが私にとって対峙すべき対象物としての世界としてそれが立ち現れる瞬間である。そして一旦そうなった以後、私にとって世界は、私を私が存在し続ける限り含むが、私が仮にこの世界からいなくなっても尚、「世界」そのものとして存在し続けるであろうという考えを私に与えるものとして存在していくようになる。そしてそのように考えることが出来るのはステップ①のように私が考える主体としてここにい続けることが出来るからである。
 と言う風にステップ③は、即座にステップ①に回帰する。この反復として私は世界と共に考える主体として存在し続けるのだ、という認識と予感を私は常に持ち続けることが出来る。
 勿論生まれたばかりの赤ん坊はこのようなことを考えない。彼らは恐らく世界という認識以前に自分の眼前に展開する様子に四六時中釘付けになっており、その都度自分で反応し、他の事物、人物の全てが反応するさまそのものに意識が向かっているだろう。しかし一定の知を物心として身につけると、人間は漠然としてではあるが、誰しもステップ①を意識として獲得する。
 私はこの世界を実感し得るのは、実は私が世界を見ることが出来て、世界の側が私に対しても常に働きかけるということを私が知り、実感しているからだのだが、その世界の中に私が考える主体として存在している事実を通して、実は私以外の多くの考える主体が存在しているということを知るからこそ、私は私がもしいなくても尚世界は世界であり続けると考えることが出来るのだ。つまり世界を「私にとっての世界」から「世界」そのものとして自立させることが私に出来るのは、私を世界と私が切り離して考えることも可能だからだが、同時に私以外の考える主体の存在を私が信じているからでもある。と言うより私が私を「考える主体」として認識出来るのは、私以外の多くの考える主体が存在し、その存在者たちの中の一人であると私が私を考えの上で位置づけるからなのだ。しかし恐らくそういう思惟を私が持ち始める前から私は考えていたであろう。しかしその考える自分を「私は考える主体である」、あるいは「私は考える主体の一人である」と認識出来るのは、恐らく私を世界の中に生活し存在する無数の「考える主体」の一人として私が認識することが出来るからである。
 このことは極めて重要である。私はだから世界を構成する存在者たち、つまり「考える主体」全体がある「世界」をおいて、それ以外の考える主体とは何の関係もないものとしては存在出来ないということを知るのである。つまり私の存在によって初めて意味を持つ世界そのものは、実は私はそれなしにはここに存在することも出来なかったという意味において、世界を認識する当の私を考えさせる対象でもあるのである。だからこそ私はステップ①をステップ③へと徐々に移行させることが可能なのであるが、ステップ③はステップ①に必ず回帰する運命にあるのである。
 世界は常に何らかの形で私に対して現れる。しかし世界そのものを私に現れさせるのは、紛れも無く私が世界に存在し続けているからである。つまり私に世界が現れることが出来るのは、私が世界を構成する者として、しかも私が私によって作られる世界の中に私を世界の中の一部として理解することが可能な、つまり私なしでも世界が存在し続けるものであるという理解の下で私が構成するからなのである。
 もし私がいなくなったら、私にとって世界は終わったとしても尚、世界そのものは私の考え、あるいは意識とは無縁に延々と存在し続けるものであるということそのものに対して私が懐疑を抱いたとしたなら、私は私が思い描く世界に対して信用していないということになる。もしそうならこの世界で私が巡り合う全ての存在者たち、あるいは「考える主体」も、自然や現象の全ては全て私の脳内の幻想ということになる。しかし私はそのように私以外の全ての存在者=「考える主体」が考えることが可能であろうという意味において、確かに世界は私なしでも変化し続け、存在し続けると想定することが出来る。
 つまり全てが私の脳内での幻影であるということを誰しも考えることが出来ると考えるからこそ、私は世界に対して一定の信頼を得、私なしでも世界は変化し続け、存在し続けると考えることが出来るし、実感出来るのである。つまり私は私の無力と、私以外の全ての存在者=「考える主体」が無力であることを想定し、考えることによって世界全体が私たち全てを含み、個々の存在者なしでも幾らかの存在者を常に含みながら変化し、存在し続けるであろうという考えを持つに至るのである。
 つまり私は私が存在しているからこそ世界は世界として存在し始めたことを私が知っているのに、実は私なしでも世界は常に世界であり続けるということを知ることによって私の無力を知り、私の能力の限界を知り、そういう者として全ての存在者のあり方を感じる時、私は世界の中の一部であり、私の隣に住む存在者がその存在者の意識によって初めて誕生する世界の創造者でありながら、同時に隣人が今隣に存在しなくても、私にとってその時私が未だこの世にいたのなら、世界が存在し続けることを隣人も感じ取っているのに違いないと考える時、私は、世界は私にとっても隣人にとっても均質なものとして、各存在者固有の世界であるのにもかかわらず「世界」そのものは各個別の存在者固有の世界であるという事実とは常に無縁に存在し続けるものである、という考えへと至ることが出来るのだ。
 これはある意味では世界を現象として捉えることからスタートして、世界そのものの私にとっても隣人にとっても等価なものとして世界を理解する端緒を掴んだことを意味する。例えばそういう認識を生じさせる当のものとして現象学の存在理由を考えてみることには意味がある。世界が私にとっても隣人にとっても等価であり、世界そのものが公共的な意味を持つということは、世界が私や隣人、あるいはそれ以外の全ての存在者固有の世界から、常に一歩隔たった存在として存在し続けていることを私が隣人同様承認することでもある。つまり私が世界を「世界」として承認するということは、私だけではなく恐らく全ての「考える主体」たちが同じように「世界」を承認しているのに違いないという私の考えからなのである。つまり私と「世界」との隔たりとは、隣人と「世界」との隔たりのことでもあり、またそれ以外の全ての「考える主体」にとっての「世界」との隔たりであるであろうという目算から生じる認識なのである。それは即ち私が、私が「この<世界>」に誕生してから作ってきた私の見方以上でも以下でもないこの世界を、他の誰もが作ってきた固有の世界から一歩隔たった地点に「世界」があるのに違いない、だからこそ私もまた隣人やその他の存在者=「考える主体」も全てこの世界の住人として、世界の事実の参加者として存在し続け、生活し続けるであろうということを知るのである。つまり全ての存在者が誕生してきたという無数の事実には、実は全ての存在者にとっての世界がその存在者の誕生をもって初めて現出したのにもかかわらず、その無数の世界の誕生とは無縁に「世界」そのものは常に無頓着に存在し続けるであろう、という想定を私や隣人や、それ以外の全ての存在者=「考える主体」がし得るのに違いないという私の確信によって私にとって、そして恐らく全ての存在者=「考える主体」にとっての「世界」というものが認識されるのであろう、と私は理解し、恐らくそうに違いないと信じるのである。
 私というものの中には明らかにこの自分しか知り得ない事実の所有者としての自覚以外の、私が自分を離れて自分自身を世界の一部として、世界のほんの片隅に生きる生の事実、そしてそれは隣人とも、それ以外のどのような存在者とも変わりない只の一人の「考える主体」=無力な存在者として、自己を他者のように扱っている認識がある。私が私の世界を「世界」として理解出来るのも、実は私が自分自身固有の世界の所有者であり創造者である自分を一旦離れて、隣人とも他のどの世界構成要員であるところの「一考える主体」であるという匿名性に自己を当て嵌めているからなのである。そして当然のことながら私は他者一般、つまり世界の中のどの世界事実構成要員であるところのどのような「考える主体」もまたそのような思惟を抱いているであろう、という目算を殆ど信念のようにして、つまり確信して生活しているのである。つまり私が私に生活をそのように理解することが出来る、つまり世界事実の構成者として理解することが出来る、あるいは世界事実というものに対する参加者として自己を理解することが出来るのも、そのような確信が私に常に付き纏っているからなのである。

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