Tuesday, October 27, 2009

B論文「信仰心と無神論」第四章 関心の質量(1)

 私たちは「世界」を自分の見たいように見る。それはもともと自分の世界、つまり自分の身体と知覚能力によって世界を構築しているわけだから、それが「世界」であると認識したとしても、尚根幹の自己身体能力、つまり脳内現象と脳‐身体相互作用によってスタートさせてきたその起源に常に立ち戻ろうとするということは必定であるからだ。だから「世界」のそこここで認められる「現れ」とは、実は「世界」を再び自分の世界に引き戻しつつ見たいと潜在的に私たちが望む私たちの心の鏡なのである。
 前章において私はメタ認知の客観性はある種幻想であると言った。しかしだからこそ自然科学では相対的な自分の立ち位置を常に確認しておく必要があるのである。
 例えば脳生理学者のジェラルド・エーデルマンは「脳から心へ」においてマイクロスコピックな(顕微鏡で観察出来る)世界は、観察する主体(自分)の観察対象に対する位置を相対的に理解することが求められるが、逆にもっと壮大なスケールの、例えば宇宙全体を観察する場合、私たちは自分のいる位置をそれほど真剣に考慮に入れなくてもよい、ということを述べている。このことはミクロな世界とマクロな世界との私たちの接し方の違いによって、相対的であることそのものの絶対性を覚醒させる。つまり相対的であることを私たちに覚醒させる全存在といったものは、私たちの意識や幻想全てを発生させる場である。脳内の思惟は、言ってみればこの全存在に私たち自身を内部‐外部の境界を無化すべく「世界」と接しているインターフェイスである。
 何故私たちは「世界」を見たいように見るのだろうか?私たちの思惟自体が、「世界」の存在の認知によって発展的に齎されるとしたら、私たちが「世界」と私たちの接点を、私たち内部に巣食う欲求とか、欲求を覚知する感覚であると理解している、ということの証拠として身体の存在が考えられるのではないだろうか?
 ウィリアム・ジェームスは「純粋経験の哲学」において質量ということに拘っている。彼が使用する「素材」という語彙はこの章で私は質量として規定するものに相当する。質量は多くの哲学者の思惟の中に存在してきた。例えばカントは「目的の質量は意欲である。」と「判断力批判」で述べているし、レヴィナスは「孤独の主体の質量」という表現をする。(「時間と他者」)
 現代の生命科学者の郡司ペギオ‐幸夫は「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」で質量という概念を従来型の物理学からより開放させて、広義で柔軟性のあるものとして認識し直している。
 本章ではまずこの四人(カント、ジェームス、レヴィナス、郡司ペギオ)の主張する質量概念について考え、そこで得た認識をアンリとドーキンスの理論と突き合わせてみようと思う。
 郡司ペギオ氏は<貨幣の質量>においてバーチャルマネーの社会的事実を例にとって考えている。少し長いがそのまま引用しておこう。(講談社現代新書中、125~131ページより)
「Y うん。で、ネット世界や仮想的な計算機内部の世界で、そういった義歯の違和感<35ページ参照。著者注加入>のような、質量発見のための装置があるかってことだよね。
 まず義歯の違和感のような明確な装置はなくても、質量性が効いて、システムの変革が起こるって事例についてはどうかな。うちの大学院がこう言っているんだけど。「ネット世界では、そういったことがあり過ぎるほどある。たとえば、とてもたくさんの人が参加するオンラインゲームがあるんだけど、そのゲーム内の世界でだけ通用する貨幣があるんだ。プレイヤーたちはみんなその通貨を欲しがって、ついにはこれがヤフーオークションで現実に売られちゃった。で、まともにゲームをプレイせず、その通貨を貯めこんだ人が、現実世界でドカーンとものすごい金持ちになる、みたいなことが起こった。ゲームで世界を変えちゃう。だから結局、管理者側から通貨の売買は禁止されちゃうわけだけど。でも貨幣の使われ方が、あらかじめ想定された使い方から大きく逸脱して、システムが機能不全を起こすって意味で、これは質量の問題じゃないか」ってね。
 P いや、違うな。僕たちが議論してきた質量は、可能・実現にしろ、内包・外延にしろ、そういった区別を創り出すものが持っている質量のことだったんだよね。その素材性は区別生成に直接関与していて、その潜在する機能は、決して無関係ではない。まさにそれはマテリアルでつながっているわけだ。
 明示的素材性も潜在する機能も、マテリアルにおいて存在している。その意味で、潜在する機能は、いわゆる事実としての外部なんだ。使う人間が、状況に応じてでっちあげるものではない。描きこめる線は、「マテリアルにおいてつながっている」というところが肝心なんだ。
 そもそも、「線の中に線が描きこめるのはおかしい」なんて、マテリアルの世界に生きている僕たちが言えるはずないんだよ。線には太さがあるから、僕たちは線をこの世界で認識できるわけで、現に描けてしまえるんだ。「線」は純粋に理念的なものじゃない。たとえば実際の壁に認められる線は、太さのある影や埃のたまったヒビだし、ノートの線は太さを持つインクの線だしって具合にね。
 可能性を示すとき、線は幅を持たないと想定され、にもかかわらず、太さが事後において発見される、って言ったよね。ここで注意しなければならないのは、太さという概念が、線という道具のありようとまったく無関係にでっちあげられるんじゃないということ。太い線は、線というものが区別の道具として、この世界で、発見=構成される根底に関わって存在しているんだよ。明示的素材性と潜在する権能という対立に見えるものは、理念と現実の不可避的混同からくる、ある種の倒錯なんだよ。この倒錯は決して避けられないけどね。歯の質量ももちろん、そうさ。
 だから潜在する権能(線の場合は「太さ」)は、明らかに可能・実現や内包・外延の対を創る素材性(線の場合は「太さのない線」)と関連したものでないとあり得ない。関連しているはずなのに、あらかじめその関連は決して見逃せない。ここに顕在化した素材性と潜在するものとの関係を理解する困難さがある。
 で、その線に沿って、オンラインゲームの中の貨幣について考えてみるよ。貨幣は、ゲームの中で流通を実現する道具だよね。ということは、ゲームの中でのマクロな社会と、商品売買で"この"個別な現場と区別し、結びつける道具と言っていい。ミクロ・マクロの区別を、流通という運動を通して創りだしている。で、想定されていなかった貨幣の新しい使い道って、この場合、ゲーム内でのミクロ・マクロの区別の方法と、関わりを持っているだろうか。いないよね。新たな使い道が利用しているのは、ゲーム外部の現実世界との関係だよね。もともとゲーム内部のキャラクターとしての主体と、その外部の現実世界に生き、ゲームキャラを享受する「わたし」という二重性がある。このゲーム内・外の区別と、ゲーム内のミクロ・マクロの区別は、質量に関して関係がない。ゲーム外部の現実世界は、そりゃゲーム自体には関わっているよ。生身の人間や、計算機にエネルギーを供給するって意味での電力や。でも、ミクロ・マクロの区別生成そのものには関わっていない。
 現実の通貨の場合、この、ここという局所にある商品を定量化するから、意味がグローバルになってどこでも価値を持つ。この定量化のための紙幣を使う。だから、ミクロ・マクロの区別を創り出しつなげるエッセンスは、定量化ということにあると言えるんじゃないかな。でもその紙幣が、使ってみるとすぐぼろぼろになる、という場合、通貨はミクロ・マクロを区別し、つなげながら、これを無効化にしてるって思えるよね。グローバルに伝播する時点で擦り切れちゃうから。こういう場合なら、無効にする潜在した機能_疲弊_は潜在した質量で、これと定量化という機能とが、マテリアルにおいてつながってるというのも納得できる。
 いま問われている貨幣の質量は、もっと抽象的だよね。太い線みたいに。で、通貨は、定量の道具という形態において、マクロとつながってる。僕たちが吟味しないといけないのは、ゲーム内の通貨とネットオークションとのつながりが、定量の道具という抽象的な素材性に潜在していたのか、ということだ。
 Y ちょっと慎重に考えてみるよ。定量化という操作は対象を必要とするけど、ゲーム内貨幣では当初、その対象がゲーム内に制限されるよう、前提されていた。でも任意の商品と交換できるという性格は、本来定量化の対象を限定するものではない。ゲーム外部の貨幣を対象にして、これと交換されてもいい。問題の事態はそういうふうにみえる。とすると、それはミクロ・マクロの区別生成の前提が覆された事態、のように思える。
 君が問題にしているのは、「潜在する機能は、予見できないけれど、素材性発見(ここではミクロ・マクロの区別)にさえ直接関わる性格だからこそ、もともとあったとしか言いようがないものだ」という点だよね。ゲーム内貨幣の場合、現実の外部世界との関わりは、定量化という操作に本質的に関わっていた、と言わざるを得ないか?
 ゲーム内のあらゆる操作は、現実世界やプレイヤーを前提にしているんだから、その意味でゲーム内のあらゆる操作は、現実世界と本質的に関わっている。そりゃそうだ。でもこの関わり方は、定量という操作に固有のものではない。質量は、素材として制限を与えながら、開くもの。固有でありながら普遍なんだ。でもゲーム内貨幣が担う、隠蔽された現実との接点は、ゲーム内の任意の操作一般に言えることで固有性がない。ここに質量を見出すことは、固有性とか、質量という概念のインフレを招くだろうね。その意味で、質量じゃない、と言ったほうがいいか。
 P ゲーム内貨幣で質量というのは、たとえば単位が、単位として覆されるような場合じゃないかな。定量化には単位がいる。単位を設定すると、以前問題にした四角いタイルの設定と同じで、それ以上小さい量を扱えないよね。単位がないと数えられないけれど、単位を壊す必要がいずれ生じる。これをここでは単位のディレンマと呼ぶことにするよ。単位であるにはある大きさ持たなくちゃならないけど、ある大きさを持つことは更なる細分化を潜在させる。ただこのディレンマは後にならないと発見されない。数え上げを始めてみようという当初は、決してそんなに悪いことなんて見えない。
 で、流通している貨幣が、その単位を覆されているって例は、たとえば為替に認めることができる。外部に別な貨幣があって、別な単位がある。異なる単位が絶えずつき合わされ、調整される。単位は、他のものによって絶えず疑われ吟味されるわけだ。
 ここで重要な論点は、単位を覆すために、別な貨幣が必要とされるだろう、ってことだよね。物々交換から最も流通する商品として生まれたと貨幣の起源を考えると、徐々にグローバルに使われ安定する商品=貨幣という描像になる。でも貨幣の有する単位のディレンマという論点は、単位の転覆を要請してしまう。せっかく一元化された貨幣に対して、絶えずローカルな別な貨幣が出現し、既存の単位を覆す。僕たちは、そういった発展過程を思い描くことになる。
 つまりヴァーチャルな世界でも認められるような、潜在した貨幣の質量ってのは、単位の調整能であり、その顕在化は、ある地域でだけ有効な通貨、いわゆるローカルマネー、の出現という形をとるんじゃないか。そういった現象なら、そこに質量を見出せると思う。このときグローバルを創り、マクロ・ミクロの区別を創るという運動は、ローカルマネーによって分断され、無効にされるわけだから、まさにシステムは変質しちゃうしね。」
 まず基本的に氏は方法的には意識的か否かは定かでないが、極めて現象学的な認識論を利用している、ということである。本来ギリシャ以来のシェーマという概念に典型的な実相と仮相という区分けそのものが、プラトニズムの実体とその背後性というデコトミー(二項対立)として哲学に採用されてきたが、それは論理実践上の便宜によってなのである。その哲学対話的秩序としてのデコトミーの起源への懐疑として現象学がその拠点を持っているのなら、現代の貨幣流通システムそのものもまた、その便宜性と、その便宜性にもかかわらず、ヴァーチャルマネーにない紙幣の触感、つまり微妙な触覚的クオリアが我々をどこかで誘引している。もしグローバル性だけで貨幣が考えられるのなら、一切紙幣は廃止され、ネット上だけの貨幣になればよいが、カード利用という形に徐々に移行しつつあるものの、煙草や自販機といったものは未だにコインを利用しなければならないという、グローバル交換性と、ミニマルな触覚的クオリアの残存という矛盾を貨幣制度自体が含有していることは確かである。
 例えば企業小説を書いておられる幸田真音氏はテレビの経済番組で指摘されていたが、日本人のバイヤーとは総じて商品そのものではなく、どの店舗で商品を購入するかという、従業員や店舗そのものの信用という規準でショッピングするのに対して、欧米では完全に商品の優劣で、店舗や従業員の接客マナーというような要因は殆ど問題にしないと言う。つまりここで問題なのは三番目の太字部分である。相対規準として当初はその普遍性と合理性を追求するために考案され設定されたある単位が、その単位を利用する民族の行為選択的傾向性を反映し、いつしかその民族的性格と相容れないそれ以外の人々のための新しい規準が要求され、単位毎にその単位の利用者に固有の性格を浮かび上がらせるという事態が現代社会、あるいは古代から延々と繰り返されてきた日本を始め文明諸国の歴史でもある、ということには、ある意味では現代社会に根付く古代的性格、民族的記憶のクオリアの相違を物語ってはいないだろうか?(欧米から見た日本市場の魅力如何とか、日本経済とか円そのものの国際的性格)つまり株式売買に関してでも、恐らく日本人の投資家や投機家たちの行為選択は微妙に欧米流と異なっている可能性が十分にある、ということだ。
 つまり郡司ペギオ氏の考える質量とは、要するに一切の余分なクオリアを排除した積りが、かつて茂木健一郎氏がクオリアという概念に目覚めた理由として挙げておられた電車のガタンゴトンという音と揺れそのものは、かつて騒音の酷かった新幹線だけではなく今日ファジー理論その他によってクッションと緩衝の効いた快適な丁度高層ビルのエレベーターのような音と揺れのクオリアに改良されてきているが、そのエレベーターのような感じさえある意味ではクオリアである、というような意味で便宜性と目的性の前で極力排除した筈の余剰が、例えば郡司ペギオ氏の指摘のように、思わぬところで紙幣の肌触りという質量として温存されてしまう、という物質的触感感知能力が我々にある限り、我々の身体が感知する運命的クオリアを共感‐違和感というレヴェルでの感知能力に還元して考える可能性を群司ペギオ氏は示唆しているし、それこそドーキンスの指摘する選好性の遺伝子(第七章において詳述する。)という命題と同一の主張が垣間見える。
 序に郡司ペギオ氏(氏については再び結論で無神論と信仰心の共通して立つ現代的問題において詳細に取り上げる積りである。)的なものの見方を採用して暫く考えてみよう。例えば人生について。
 人生を「絵を描く行為」に喩えてみよう。
 パレットはあなたの生活を取り巻く空間であるとしよう。するとアトリエは世界となる。勿論本論の言うところの「世界」であり、それはあなたの知る世界である。実際の世界を「世界」と言うと私は言ったが、それは実際にこうある筈だというあなたの知に依存するので、実際の世界に対する「あなたの世界」と言った方がよい。しかしそれを掴む前にあなたはあなたの身体から世界を観察出来るという状態を得ているので、その世界はあなたの世界である。それはあなたの生きる意志、自我の目覚めと共に既に獲得されているが、やがてあなたは公的な世界というものを他者の存在に対する認知と共に自覚する。その世界が「世界」であり、それはあなたの知のありようによってもこれからも変化し続けるので「あなたの世界」、しかも取り敢えず「今のあなたの世界」と言ってもよい。
 さてキャンバスの平面、あるいは画用紙の画面は、あなたにとってあなたの人生の経験である。そしてそこで描くあなたの絵があなたの思想であり、行動であり、対世界に対するあなたの考え、感情、幸福感の全てである。そしてあなたの傍らには常に絵を描き続けるための絵の具が用意されており、それはあなたにとってあなたの人生における未来での可能性である。
 さて絵を描くあなたは一本の線を引く。その線は、定規を使って引く直線かも知れないし、フリーハンドで直線的に引こうとする線かも知れないし、定規で引いた直線の下書きに沿って引くフリーハンドの線かも知れないし、下書きに沿って定規を再び使って引く線かも知れない。同じ線であり、同じ直線的志向であっても、それらは幾分ずつか異なる性質を帯びている。つまりそれがあなたが取る人生の行動、態度、他者へ示される発話といったもの、つまり言動の全ての性質である。
 例えば一枚の絵に引かれた線の性質が微妙に異なれば絵全体のイメージががらりと変わる。そのように<人間の採る些細な行動の一つがその後のある程度人生の方向を決定づける>ことというのはあることである。それは勿論いい意味でもそうだし、悪い意味でもそうである。成功した者はそれをステップにどんどんもっといい人生が開けてくる可能性もあるし、そうではなくまずい結果に陥って生きる気力を失うこともあるかも知れない。しかし成功とそれに続く幸運が凋落の兆しであることもあるし、逆に一回の大失敗がその後の人生に福を齎すこともあるし、いずれもその逆であることもあり得る。
 何かよくないことがあると、いつまでもくよくよ悩む者もいれば、そうではないタイプもあるだろうが、そのいずれが最終的にいい結果を生むかどうかは分からない。と言うのもいつまでもくよくよ悩むタイプは、すぐ次の行動に移らなければいけない場合には逆効果であるが、大望を抱く者にとってある程度長期間悩むことだって必要かも知れないからである。悩んで悩んで悩み抜いたからこそ困難が打開することだってあるし、逆に何も悩まなかったからいい結果を生み出すこともあるだろう。つまりケース毎に異なったその後の展開、あるいは対処するための異なった方法が求められるから、一律にこういう場合の対処法はこうである、と断言出来ないのである。つまり決定とか真理といったものは漠然とした状況理解からはなされ得ない。つまり決定には色々な事態が考えられるが、例えば説明も理解したことに対しての他者に対する理解を求めるためにすることであるし、法則的理解、例えばある事象を何らかの一般化された法則の下に理解することもそうであるが、そういうものに関して「そういう場合には~である。」と説明すること、あるいはそういうものとして自分で理解すること双方とも、実は極めてそのケース毎に固有の事情を考慮しなければそう簡単にそのように理解や説明を行えるようには判断することなど出来ないのである。つまり常に正確な判断(それ自体一つの決定である。)をするためには、あらゆる厳密なその状況下に発生する付帯的条件を考慮しなければならないということである。つまりいい決定、適切な理解、判断といったものはその決定されるべき何らかの問題、理解されるべき対象となる事実、判断すべきミステリアスな状況に対して、より克明な調査、より詳細な手続きを必要とするということである。もし瞬時にいい判断が出来たのだとしたら、それは日頃の注意とか、配慮が功を奏したと言える。
 それは推論において何らかの結論を下す時にも適用出来る。つまりある推定を下す時、かなり綿密に必要とされるのは詳細なデータである。詳細なデータそのものが条件づけられるということであり、そのような詳細なデータのないところでは「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」という判断しか下せないということである。
 例えば水商売の店で遊ぶ時、私たちは果たしてその店で出されるメニューそのものの価格だけで全ての店の価値判断を下して良いものだろうか?例えば水商売の店では何らかの世間話をすることが多く、要するにそういう話相手をするということもまた勘定の際に重要な価格決定の要因になっているのだ。しかも私たちがそういう店に行く時、明らかにメニューとか味といったことだけを行く気持ちになる基準として設定しているだろうか?ある意味ではその店のマスターの気性とか切符といったものをどこかで判断基準にしていると言えないだろうか?それは何らかの行動を意思決定させる判断の際の合理化が一律なものではなく、もっと複雑な人間心理に根差したものであることを物語っている。
 それは友人を選ぶ基準、よく買い物をする店を選ぶ基準、よく買う服のタイプを選ぶ基準といった全てに適用出来る価値判断の問題である。
 そもそもある行動を採る時、その行動を採ったとしてもそれまでの人生の何も変えることには繋がらないだろうというような場合、我々は一々その行動の意味について思案したりしない。例えば卑近な例であるが、それまで買ったことのない色調の服を買う時、それなりの決心というものが要る。つまりそれは日常の中で慣れきった日常的惰性を打破しようという試みがある。例えば友人を選ぶ時、こういうタイプの人であるなら大丈夫である、つまり間違いはないと確信出来ないタイプの人を友人に選ぶ時、それなりの決心というものが必要であろう。あるいは行き慣れた水商売の店を今日は行くのを止して、一度も来たことのない店に入店するということもある意味ではある程度の決心が必要である。つまりそれは日常的な慣れに随順した行動パターンを変えてみようという試みであり、その際にはある程度のギャンブル的感性が要求される。未知なことに対する挑戦がある。
 しかし新しい発見をしながら、それを日常的な慣用性に転化することを可能性として認識することが人間に出来るのは、ある意味では先験的に人間の脳にそのような新しいものの中に今まで見たことがあり、その見たものが実に印象的であった、ということを再発見し、記憶から蘇らせることが出来るからであり、それはある価値判断的な意味でも、クオリア的な感受という意味でも、印象的であるということを自己に決定的なものにする作用が脳にある証拠でもある。
 アンリは印象という言葉を「受肉」において多く使用している。これはドーキンスが「ブラインド・ウォッチメーカー」におい8章の爆発と螺旋で述べている選好性の遺伝子という考え方と極めて共通性が多いと思われる。そのことを触れるためにまずアンリの述べる印象というものがどういうことを指すのか踏まえておこう。
 アンリは「現出の本質」(このテクストは他では「顕現の本質」と訳されていることが多いが、本論では翻訳本のタイトル通りこのタイトルで示すことにする。)において印象という語彙を使用していない。しかしその後カンディンスキー論として「見えないものを見る」を書いているので、その時期にあるいは印象という言葉を後期の哲学で使用する素地が作られたのかも知れないが、今は未だデータ不足なので、本論を書きながらその真偽を確かめられるようにしたい、と思う。(メルロ・ポンティーも印象という語彙を使用しているが、彼については第五章で詳しく論じる。)
 ともあれアンリが印象という言葉を使用することになるその起源として私が直観したその「見えないものを見る」における論述は現代脳科学の最前線から顧みる人間の言語能力と、絵画芸術理解能力が極めて類似した人間の脳活動であることを示唆するアンリの記述を引用しておこう。
「何年かのち、1914年の「或る講演のための草稿より〔ケルンでの講演〕」(ただしこの講演は実際に行われたものではまったくない)でなされた言明には、いかなる疑問の余地もない。「何を欲するかということのほうがそのために必要な『いかに』という方法を見出すよりは、はるかによくわかるものである。」したがって、絵の内容とその諸方法(内容との関係からは、カンディンスキーが内容の「具体化」ないしは「フォルム」と呼んでいる諸方法)との間の分離がはっきりと定着したとき、諸方法に対する内容の優位がすこぶる鮮明になる。こうした優位が歴史的な意味を持つ場合があるのは、その射程が存在論のレベルに属するということにもっぱら由来している。「それゆえ作品は、人間の感覚に利用できるようにする、精神による具体化以前には、抽象的に存在するものである」と、同じテキストの少し先のほうでいいそえられている。もともと、「抽象的」な作品の内容の「具体化」とは、「人間の感覚に作品を利用できるようにすること」であり、すなわちあらゆる絵画の諸方法を構成する色やフォルムであるということ、このことによって、ずっと以前から目に見えるものの領域、感覚の領域となっていた領域における目に見えないものの先行性がはっきりと確立されるのである。_このことによってカンディンスキーの抽象に固有の意味が与えられるのだ。」(「見えないものを見る」青木研二訳、法政大学出版局刊、24ページより)
 つまりこのアンリの記述の示すところは、私たちが絵画が「素晴らしい」とか「美しい」とか感じることが出来るのは、言語が一体何なのかが説明出来なくても、言語を利用して他者とコミュニケーションをする能力が人間の脳には備わっているのと同様、それを言葉で説明することは出来ないが、何故かそのような感情を誘発し、惹かれるという、つまり絵画そのものの色彩論的な、形態論的なクオリアを感受する能力が人間の脳には備わっており、その能力を引き出し、「こういう領域にまで人間は絵画を通したクオリア的な感受をすることが出来る」ということを証明するために画家は新たな美の領域に挑むのだ、ということが理解出来るからだ。しかもカンディンスキーはその絵画という「世界」を通した新たな美の領域、と言うよりも今までそれを美しいと感受することが出来た筈なのに、気がつかないできていた領域を再発見させるような、つまりその人間の「絵画的クオリア感受の未知の可能性」そのものをその絵画理念、そういう<「見えない領域」を「見せさせる」ようにする>ことで作品を提示し実践したという解釈として読むことが出来る。
 ミシェル・アンリはメルロ・ポンティーが発表し、一世を風靡した「知覚の現象学」と違って、最初に「身体の哲学と現象学‐ビラン存在論の試論」を発表した時、あまりにも時代を先取りし過ぎていて、殆ど理解者を得ることが出来なかったという「現象学と見えないもの」の著者である庭田茂吉氏の指摘になるほどと頷ける気がしたのだ。
 何故ポンティーには理解しやすさがあり、アンリにはそうでなさが感じられるのか、というと、それは端的にキリスト教倫理と、神の存在論的視点である。
 日本人にメルロ・ポンティーがどこか理解しやすいと感じられたこととは、端的にその論理的相互依存性の故である。そのことに関して山形頼洋氏は「フッサールを学ぶ人のために」(新田義弘編)の中の「V現象学の今後の課題と新たな展開方法」における3ミシェル・アンリ‐メルロ・ポンティーの知覚の身体を超えて‐において、そのポンティー流の(可換性が氏に言わせると)運動のない知覚本位の身体によって語られているという問題点をアンリは克服しようとしていると考えている。
 そのアンリの考えていた方向を示す前に西欧哲学がどのような日本人にとっての理解し難さを携えているかを少し述べてみよう。
 現代脳科学者の中では茂木健一郎氏は明らかに認知‐感情というレヴェルで脳を捉えている。だからこそ氏がよく使用するベルグソンの言うエラン・ヴィタールの持つニュアンスに意味が出てくるのだ。
 しかし一方脳とは身体あっての脳でもある。脳は脳だけで進化してきたわけではない。その点において同じ脳科学者の中でも池谷裕二氏は出色である。氏は寧ろ身体‐欲望というレヴェルから脳を捉えている。すると当然運動という観念も重要なものとして取り扱われる。そして運動機能という考え方には当然進化論的な視点も必要となる。
 動物にも意識を認めるような発言をされている茂木氏と対極にあって池谷氏や前野隆司氏は明らかに動物に意識を認めていない。私はと言うと動物には言語がないから(人間が使用するようなタイプのレファレンス機能を有する言語は動物にはない。)、当然人間の意識の持つ明示性は動物にはないだろう。しかし内示的な意味でなら、動物にも意識を認めてもよいと考えている。ここら辺はジョセフ・ルドゥーの「シナプスは人格を作る」(紀伊国屋書店刊)にも詳しく触れられている。
 さてそれ以外の点では私は池谷氏の身体‐欲望的脳解釈に大きな魅力を感じている。と言うのも私自身はフランスには行ったことがないのだが、実際ゴチック建築などに見られる教会における光の摂取の仕方が、神の視点=光という観念が日本人には理解し難いところがあることもまた確かである。そして身体‐欲望の図式の中で身体運動というものを捉える時、西欧人と日本人との間には明らかに生活様式、建築様式、都市像形式が異なる以上、異なった部分が出てくることもまた確かである。
 建築的には壁と開閉扉と床と天井の文化である「椅子に腰掛ける文化」である西欧と、畳、襖、障子、引き戸といった衝立文化である「座る文化」である日本、そしてそれら全ては実は一神教的な神と人間の距離、そしてそれは向こうでは絶対的距離を形成し、絶対空間を構成するからこそそれが建築にも反映されている。それは心理的にもそうだし、それが身体表現であるところの建築空間、都市空間においてもそうである。つまり身体論を考える時我々は精神文化としての宗教倫理と宗教都市文化と、建築構造や都市構造が人間に与える影響、つまり生活様式の差が生じさせる習慣から来る身体構造という観点から、脳科学において分化されている認知‐感情というレヴェルと身体‐欲望というレヴェルをどこかで密接に絡み合っているものとして認識する必要がある、と思われるのである。
 つまり壁と扉の遮蔽空間とは、日本式の衝立掛け軸空間の持つ(美術様式でも壁画、天井画と襖絵、あるいは掛け軸という違いとなって現れる。最も伽藍の天井画というものも例外的には存在するが、絵画空間が他の空間と独立していることをモットーとしている作品世界では概ね日本の絵画はそのような傾向にはない。)自他認識は当然異なる。例えばレヴィナス哲学に顕著なように、他者性というものは自他認識が明確に示される西欧文化では明らかに畏怖の対象としての他性というものが考えられる。しかし翻って日本では親しみのある者と疎遠な者という二項対立が用意されている。
 少なくとも責任倫理が社会制度と密接にかかわってきている西欧文化では親しい者と疎遠な者という二項は成立し難いであろう。それは恐らくもっと直截な自己と他者(たとえ家族であっても他者である。)の差というものは歴然としている。これは大勢の論客が主張していることだが、日本では赤ん坊に対してスキンシップを重視するが、アメリカでは特にそれ以上に対話を重視すると言う。ここにも対峙、対自という観念の確固とした西欧と日本の精神文化の違いが横たわっている。
 つまり端的に日本文化とは同居的共存であり、自然は親しむべきものである。これは鈴木大拙的に言えば平安の安泰的生活が生み出した精神文化かも知れない。それに対して西欧では自然とは対峙すべきものなのだ。だからこそ自然は客体であり、対象なのだ。日本人は死んで自然に還ると捉えるところがある(尤もそれはある程度年配にならないと理解出来ない心理かも知れないし、事実私には今は未だそこまでの心境にはなれない。)が、西欧では死後の世界は有神論的にはあるとされるし、無神論では絶対無である。何故なら西欧では自然は親しむべきものではなく、克服すべき対象だからである。それは身体論的な観念が自然の脅威と共に成立してきたということと、人的な災害、つまり犯罪や暴力、殺戮の民族国家史に見られるということの双方に起因している。要するに自然環境の性質の違いが、自然と人間の境界を曖昧化する日本と、自然と人間を対立させる西欧との文化に差を齎し、その結果死生観にも差が生じるということなのだろう。
 纏めよう。
 西欧倫理には自他区別が明確にされる。しかし日本文化では自他の区別は曖昧であり、他者との絶対距離もなければ、神との絶対距離もなく、神がそもそも非在で、他者との距離は相対である。そして自然とは一体である。それは絵画空間が水墨画の世界のように山水画の世界のように茫漠としていることからも歴然としている。それは視覚芸術においてだけではなく、精神的にそうである。美術の視覚的顕現とは、実は精神的差異が現出しやすい場でもあるのだ。恐らくそれは食文化でもそうだし、性のあり方(あるいは性行為の仕方)でもそうなのだ、と私は考えている。
 尤も昨今の日本人にとってプライヴァシーとか個人主義とかの考えは確かに変化してきており、西欧的家屋も増え、以前のような意味での西欧社会と日本の相違とはかなり様相が異なってきているということも確かである。つまり身体‐行動論的である意味と精神‐自我論的な意味での西欧社会と日本社会の相違は徐々に薄れつつあるかも知れない。しかし恐らくその薄れつつあるという現実に対して「尤もである」という考えと「仕方ない」という考えと「不安だ」という考えが入り混じっているという事実において、それは西欧社会と決然と異なると言えるのではないだろうか?つまり日本人にとってキリスト教もそれなりに最早異分子の考えではない。しかし形だけクリスマスをすることにどれほどの私たちの精神に根差したキリスト教文化が介在しているだろうか?本質的に日本人に西欧流の神の概念や宗教倫理が理解されているとは言い難いと私は考えている。
 しかしそれでも他者に対する怖れというものは羞恥と関係がある(と言うより表裏一体のものである。)という点において、私は究極の人間としての存在認識において西欧と日本の他者観というものはどこかで通底していると考えているのだ。確かに日本人は世界を、風景を対象化することをし始めたのは、西欧哲学的な意味合いからは明治期以降である。しかし対象化の方法が西欧絵画の遠近法に見られるような意味で一点透視図法的、ユークリッド幾何空間、デカルト座標空間的ではなかっただけのことであり、日本人なりに独自の対象化方法があったのだろう、と私は考えている。しかしそのことを主軸には本論では展開させない。そのことに関してはいずれ取り組みたいと考えている。そしてその将来の課題に関する伏線として本論でも時々そのことについては触れることとしよう。
 つまり何故アンリの哲学がポンティーに比べると理解が遅れたかという理由は一重にこの精神文化としての西欧宗教倫理とクロスする部分から哲学を考えることへと到達したアンリの資質にもある。日本人にとっても理解しやすい自然と人間の交換の図式=相互補完性というポンティーの哲学的解決法がどこかでかつて「日本人に理解しやすいという幻想」を与えていたのだろう。しかしそれはある面では幻想である。何故ならメルロ・ポンティーはことあるごとに受肉という観念を使用しているし、解決法として相互補完性という観念に到達したとしても、そのプロセスは日本人的世俗意識とは根底から異なっている。勿論ポンティーは決して有神論的な立場を鮮明にしているということはないが、かと言って明確に無神論を宣言していもしない。いや精神文化として恐らく無神論を標榜しているリチャード・ドーキンスとも同じようにキリスト教文化的幼児体験の持ち主であることには変わりない。 
 例えばフランス哲学者であるポール・リクールは欲求と断念という図式で生を捉えている節がある。そしてこの欲求ということに関してベルグソンの純粋持続もその起源に控えているが、それ以前にはメーヌ・ド・ビランがいる。彼はカントよりも四十二歳若いが、ショーペンハウエルより四十二歳年長者である。要するに世代的にはカントから影響を受け、ショーペンハウエルに影響を与えるくらいの人である。そしてアンリのテクストである「身体の哲学と現象学」こそこの人に対するオマージュである。ビランに対する認識は未だ初期論文である「現出の本質」では触れられていない。しかし恐らく「現出の本質」のテクスト的性格上、そのビランとの出会いそのものは必然的な性質として決定されていたようにも私には思われる。(ビランとアンリのことに関しては第六章で詳しく触れる。)
 しかし私は断念という心的作用は無意識のレヴェルでも、決意のレヴェルでも、一定の未来に対する実現可能性に対する受容である気がするのだ。と言うのも何かをなすということはあらゆる行為可能性の中から一つの選び出すことであり、決心とはそのようなある行為を選択し、他の全ての実現可能な行為に対する断念だからである。例えば便意を催したら、一も二もなくトイレへと駆け込む、というような意味で、あるいはトラックが前方より走ってきている時、横断歩道が赤なのに車が来ないと思って悠々と歩いていた時、咄嗟に身をよけるようにして向こう側に渡りきるか、途中で引き返してさっきまでいた歩道に戻るかというようなものは決意のレヴェルではない。それは条件反射的身体行動である。
 しかし明日行こうと思っていた野球が雨天で中止となり、翌日予定を変更して近場の温泉に行こうと決意したはよいが、家族中で候補に上がっている二箇所のどちらかに行くことに決めた時、他の家族の意見を尊重して選択したが、本当は自分が行きたかったもう一箇所の候補地に行くことを断念することであるような意味で、日常の諸々の経験的事実から、人生全体の親しく交流する友人の選択に至るまで私たちの人生は、ある意味では選択してそれを実行したり、交流したり、仕事をしたりしながら、実は裏を返せば選び取られなかった幾多の行為を断念し、選ばれなかった数多くの人々と疎遠になり、別れを告げ、就かなかった多くの仕事においてひょっとしたらその職業に就いていたら成功したかも知れない(あるいは今よりももっと悲惨であったかも知れない、あるいは今とそう変わりなかったかも知れない)幾多の別の職業に就いていたらなっていたであろう自分の人生との別れと断念でもあるのである。
 しかしそういったものの中では明らかに自分でも納得のいく説明が自分に対しては勿論、人から聞かれても答えられるものもあるかと思えば、どんなに真剣に考えたり、思い出したりしても、未だにその理由がよく分からないもの(ただがむしゃらに生きてきたような感じが自分の人生に対しての印象として抱かれる人にとっては、全てを説明することが難しい。そして今の自分が大きな挫折を味わった時、人間はこうでよかったのだろうか、などと思ったりする。)、つまり自分に対しても、人に聞かれても説明出来ず、正確に返答することが難しい人生の出来事というものはあるだろう。そしてその中でも「あの時の決断は正しかった。」と心底思えることから、「こういうやり方もあったかも知れない。」と多少未練が残るものもあるかと思えば、そう人生全体に後悔していない人には多くはないかも知れないが、「ああしておくべきだったと今でも悔やまれる。」ということも多少あるかも知れない。
 しかしそれはある程度自分の努力とか心掛け次第でどうにかなる筈だったと思えることに対する後悔であり、過去に対して後悔出来る精神状態というのは、ある意味では未だ将来に対して可能性を残しているという条件でしか成り立ちようもない思惟である。例えば自分の心掛けだけではどうしようもない不可抗力というものが人生には多々ある。そこで外部からの圧力のような出来事に対しては、その事態にどのように対処したのか、という事実関係において初めて後悔が成立するから、ある程度、それがかなり悲惨な体験的事実であってさえ、後悔の念というものは限定される。また自分にとって愛する家族や友人を失ったことが自分のしたことを契機となっているような場合、我々はそれが仮に自分の過失ではない場合でさえ自分を責めることに繋がることはある。そのように自分の過失として結びつけることをするのが脳である。
 関心の質量とはそのようにある出来事や事実関係に対してどのように振り返るかという様相を決定する力がある。自分に対して自信が持てるような精神状態の時には自分を責めるようなことはすまいと決意しているから、自分の過失の範囲を拡張するようなことはしないだろう。しかし何か自分に対して負い目がある時には悲観的に考えることで自分に中の負い目を振り払おうとするから、そのことをつい意識してしまい、欝的傾向の性格の人は当然自虐的になる傾向にある。
 しかし人間が後悔の念を持つことが出来るのは、実は私たちが自分自身の可能性を常に信じているからである。例えば何かが起きた時、巧く対処しきれなかった自分を責めるのは、ある意味では本来自分にはもっとこういういい方法が今なら思いつくのに、それがその時には精神的に狼狽して出来なかった、自分としたことが、と考えるわけだ。その時にだって本来なら出来た筈だ、と。しかし実際その時にそのように狼狽して冷静な判断が下せなかったというのは事実であり、それはある意味ではその時点ではそのように出来ない、それだけの判断力としての技量が備わっていなかったのである。しかし人間は本来の自分というものをどこかで想定する。もっと出来る筈だ、と。
 そしてそのような認識は自分の中の可能性に対して諦めていないということを意味する。つまり人間が後悔するという心的状態を持つのは、その後悔してしまう自分というものがしくじった自分よりも高次の判断の出来る自分であるという認識が無意識の内にでも介在しているからである。しかし実際そうすることがその時には出来なかったということは、その時の実力はそこまで行っていなかったのだが、例えばフィギュアの選手が何回転半とかが出来なかった時、練習では巧く出来たのに、と後悔するが、実際ある技術をこなすことが数回してその内一二回だけ練習の時出来るくらいでは、その一回か二回の成功体験を自分の実力であると見做すただの楽観主義からくる判断でしかないのに。
 例えばある青年が生まれて初めてラスヴェガスでルーレットやスロットマシーンをやって大儲けをしたとしよう。それは何の気なしにカジノに入って儲ける積りなど一切持たずに試して得た一生に一回の偶然的な幸運であるビギナーズラックでしかなかったのだ。しかし彼はギャンブルとはいつもそういう風に巧くいくものだ、と考えてしまい、もう一度行ってその時得た全財産を賭けて、結局全て有り金を摩ってしまったとしよう。そういうことというのはよくあることである。つまり人間はある偶然的な成功体験に釘付けになるそういう生き物なのだ。例えばある少年が一枚絵を描いてとても先生によく褒められたり、皆に才能があると言われたりしたとしよう。しかし彼はそのことで勢いづきプロの画家を目指したとしよう。しかし彼に待ち受けているのは過酷な修練の日々であろう。つまり趣味として描いた絵を褒められるのと、プロの画家として生計を立てることとの間にはおもいっきり厚い壁があるからである。つまり偶然巧くいったということがあるからこそ、それで食えるのではないかと誰しも考えるし、だからプロを目指す。しかしその試みが巧くいく者は、そうやってプロを目指した者の内ほんの一握りでしかない。偶然的な成功は成功した人を勇気づけるが、同時に、それはあくまで偶然的なことでしかない。その偶然を生み出すことを常習化するためには猛烈な訓練が必要である。だからどんなに才能溢れる者でも一日たりとも訓練を怠ったら、すぐに実力は半減する。
 纏めると人間は成功体験を糧に何かにトライする時には楽観的な気分を作り上げ、大胆なことにチャレンジ出来るが、それは「本来の自分」というものを「現実の自分」より願望的には上位に置き、それを糧に実力以上のことをトライし、だからこそ日々修練するような努力を可能にするのであるが(現状に満足すればそれ以上を目指さなくなる。)、そのような試みを可能にするのは、今以上の実力を、以前偶然にでもそのことが出来たのだから、もう一度、いや何回でも出来る筈だ、とそのように自己の可能性を信じることが出来るからなのである。それを可能性認識の能力と呼ぶことにしよう。
 しかしこの可能性認識という心的作用を我々は殆ど無意識の内に履行している。例えばそのことを哲学者の永井均氏は次のように語っている。
「自分(たち)が識別できない違いを識別できないのにもかかわらず理解できることには、だから必然性がある。自分(たち)が識別できることによって獲得した概念の適用範囲を拡張し、とりわけそれを自分(たち)自身にも遡及的に適用すること、これがわれわれの世界把握の基本的なあり方でだからである。」(「私・今・そして神」55ページより)
 この永井氏の指摘はある意味では私が第一章で自分の世界を「世界」として認識することの心的力学と全く関係のあることである。ことのことと、何故氏が自分のあとに(たち)としているか、ということについては次章で詳しく触れることとする。
 さて自分に今現在出来ること以外にも、自分には出来ることがあると考える、そしてそれを過去の偶然的な成功体験を糧に、その巧くいったことを必然化すること、常習化することの努力は、歴史上全ての科学上の発明をしてきた人間の持つ可能性認識によるものである。そしてそれは関心の質量を常に一点に収斂させてきた、という事実によって我々は理解することが出来る。そのことをエマニュエル・レヴィナスは次のように述べている。(「時間と他者」原田佳彦訳、法政大学出版局)
「孤独を主体の質量_主体の自己自身への拘束である質量性_に再び結びつけることによって、われわれは、世界とその世界のなかでのわれわれの実存とが、いかなる意味で、主体が自分自身に対して重みとなっているその重みを乗り越えるための、その質量性を乗り越えるための、すなわち、自己と自我とのあいだの羈絆を断ち切るための、主体の基本的な態度となるのか、ということを理解し得るのである。」(日常生活と救済より41ページ)
「日常的実存のなかで、世界のなかで、主体の物質的構造は、ある程度、乗り越えられている。自我と自己のあいだに、隔たりが生じるのである。自己同一的な主体は、直接的に〔無媒介的に〕自己へと回帰するわけではない。(中略)世界は道具の体系である以前に糧の体系である、ということである。世界の内での人間の生は、世界を満たしている対象〔事物〕の彼方に到るということはない。われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的性はまさにその匂いに限定されるのである。散歩することは、健康のためにではなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存_自己の外にあること_ということであり、しかも、それは対象によって限定される。
 享受〔享楽〕ということによって特徴づけることができる、対象との関係。あらゆる享受は、存在することのその仕方〔様態〕であるが、しかしまた、感覚、すなわち、光と認識でもある。対象の吸収であり、しかも、対象に対する隔たり〔距離〕。享受することには、本質的に、知が、明るさが属している。そのことによって、差し出された糧を前にした主体は、空間〔世界〕の内に、その主体にとって実存するために必要なあらゆる対象から距離をおいて、存在するのである。位相転換〔基体〕の純然たる自己同一性のうちでは、主体はそれ自身のなかで足掻いているのにひきかえ、世界のうちでは、自己への回帰ではなくして、そこには「存在するために必要なあらゆるものとの関係」があるのだ。主体は、それ自身から切り離されている。光とは、そのような可能性の条件なのである。その意味では、われわれの日常的な生はすでに、主体がそれを通して自己を実現するところの当初の質量性から開放されるそのあり方〔様態〕なのだ。それはすでに、自己の忘却ということを含んでいる。「地の糧」なる道徳は、最初の〔最高の〕道徳である。最初の自己犠牲。最後の、ではないにしても、しかし、そこを通過しなければならないのである。」(世界のよる救済_糧より43~44ページ)
「空間の超越は、それが出発点へと立ち戻ることのない超越に基づいているのでない限り、現実的なものとして確保されることはあり得ないだろう。生は、質量との闘いのなかで、その日常的超越がある一点に、常に同じ一点に立ち戻ることを妨げるような出来事に出会うのでない限り、贖いへの道となることはあり得ないだろう。光の超越を支え、外的世界に現実的な外在性を付与するような超越を見出すためには、享受のなかに光が与えられる具体的な状況に、すなわち、物質的実存に再び立ち戻らなければならないのである。」(光と理性の超越より47ページ)
 レヴィナスの哲学は含蓄も深いし、色々に解釈出来るような豊饒性を有しているが、とりわけ光とか超越という概念ではアンリより先に多くを語っている。そしてここで質量が問題とされているが、章の題ともなっている糧が質量と対応してもいる。最初の引用箇所のものはまさに本章のテーマに相応しい。と言うのも自己とは「現実の自分」であり、自我とは「本来の自分」という欲求的自我による理想的「こうであらねばならない自分」である。三番目の引用の前でレヴィナスは「すべてをその普遍性のうちに包括することによって、理性は再び孤独のうちに自分自身を見出すのである。独我論〔唯我論〕は、錯誤でも詭弁でもない。」と述べているが、実際まず「自分」というこの固有のあり方から出発しない哲学というものはない。私はそこに一般的な自然科学と哲学の相違を見るのであるが、これは結論で詳しく述べるが、実際自然科学でさえある意味では「自分」のあり方への疑問なしには追求出来ないと、私は考えている。
 郡司ペギオは私たちがものを食べる時殆ど歯というものの質量を意識する必要がないからこそ、ある意味では食を文化として享受出来るし、また味わうことが出来るのだが、例えば歯を悪くして歯を抜いて義歯を使用する時、それに慣れない内は、まさに歯そのものの存在感という質量に悩まされるという例を挙げて、質量というものが意外と生活上の多くの場面で発見出来るのに、日常的には忘れ去っているものが多いことを指摘しているが、食べる時我々は一々歯に感謝しないが、実際は私たちは歯によって多くを救われている。何かに耐える時私たちは歯を食い縛ると言うが、まさに歯で咀嚼することによって食物を栄養に変えている胃や肝臓を助けているのだ。そして食そのものが文化であるような意味で、花の香りに引き寄せられる心地良さというものを脳に作り出すクオリア的な認知そのものが私たちの文化を作り上げてきた当のものである。それは色々なものを同時に見ることが出来、色々なものを同時に嗅ぐことが出来るのに、特に必要なものを選び取り、それだけに意識を集中させることが出来るという能力こそが私たちを文明を構築する高次の知性を持った生命へと押し上げたのだ。
 人間は脳生理学者である池谷裕二氏の指摘(「進化しすぎた脳」朝日出版局刊)によれば、何もかも瞬時に正確に記憶出来ないからこそ、進化を遂げたと考えている。と言うのもよくテレビで放映されるが、数字を大きさ順に瞬時に押したりすることは、チンパンジーの方がずっと人間より仕込めば得意である。しかしそういうことを人間が瞬時に出来ないという欠落こそが、「何故瞬時に出来ないのだろうか」と疑問を抱くことを強い、やがて数学や論理学、あるいは瞬時に何もかも記憶させるコンピュータを発明させることに繋がったのだ。瞬時にそのことを何もかも正確に記憶出来たとしたら、寧ろその他多くの不測の事態に対処することを阻むこととなるだろう。つまり人間はチンパンジーのように容易に瞬時の記憶力、反射神経を喪失したからこそ、努力すること、他の方策を「考える」能力を得たのだ。
 瞬時に何もかも正確に他の哺乳類よりも記憶出来ないという欠落は、ある意味ではその場面において瞬時に自分にとって必要なことだけをピックアップして記憶するという習性を我々に齎したのだろう。つまり印象に残ったこと(印象という概念はレヴィナスには出てこないが、アンリにとっては中期以降重要な概念である。そのことは詳述する。)のみを記憶するような(それは夢によっても齎されているのだが)習性を本能的に身に付けたという事実の意味するところは大きい。これは「喪失と獲得」で心理学者であるニコラス・ハンフリー(ドーキンスの友人で、社会生物学の考えを汲んだ学者。)も指摘しているが、正確な記憶を阻まれたからこそ人間はその対象の意味を範疇的に、あるいはレファレンス機能を発現させながら、体系化する能力を進化させたのだ。このことをハンフリーは自閉症の少女ナディア(ノッティンガム生まれ。)が、瞬時にその場面を正確に記憶する能力が卓抜なために、芸術的才能(とりわけ具象的技術)、とりわけ形態的把握を瞬時にデッサンする特異な能力があるにもかかわらず、その事実とのトレードオフ(何かの形質とか能力の獲得が、別の形質とか能力の喪失を意味することをトレードオフと言う。)として文字を記憶することが通常よりも困難だったことを例に挙げて示している。
 レヴィナスが「世界の内でわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。」と述べていることとは、記憶力の曖昧さを補強する意味合いから全ての事象(事物や現象)を把握するために、対象化するというカテゴリー化とレファレンス対応能力が人間に備わっているという事実を日常的実存の場面から抜き出して語っていると捉えることが出来る。対象に対する隔たり〔距離〕までも「考えること」のための糧とすること、つまり世界を自分の生を意味づけるための道具とするという発想こそが、レヴィナスが多くの受難を得てきたユダヤ民族の一人である哲学者としての受苦克服方法だったのかも知れない。
 <主体はそれ自身のなかで足掻いているのにひきかえ、世界のうちでは、自己への回帰ではなくして、そこには「存在するために必要なあらゆるものとの関係」があ>り、<主体が自分自身に対して重みとなっているその重みを乗り越えるための、その質量性を乗り越えるための、すなわち、自己と自我とのあいだの羈絆を断ち切る>ために質量という概念が、言い換えれば糧という概念が我々には必要なのである。それは不可避的に私たちが「現実の自分」と「本来の自分」を持つ、寧ろ前者をある場面では蔑ろに出来るからこそ思い切ったことも出来るのであり、かつそのことで自惚れ、驕るからこそその事実に向き合い自らを戒めるのだが、その戒める心的作用さえ、「本来の自分」という道を踏み外した状態の人間が正常だった頃のことを、まさに脳科学で成功体験への追慕が精神的にいい状態を作り出す(このことは茂木健一郎氏の著作「感動する脳」で詳述されている。)ような無意識の脳作用的意味合いで思い出すからこそ我々は向上出来るし、物事を反省し得るのである。
 三番目の引用においてレヴィナスが「生は、質量との闘いのなかで、その日常的超越がある一点に、常に同じ一点に立ち戻ることを妨げるような出来事に出会うのでない限り、贖いへの道となることはあり得ない」と述べているのは、私の解釈ではある出来事(事件)や他者との出会いといったことである。それは是非両面に言えることである。つまり素晴らしいことをなし得た時、「どうしてもっと早くこういうことが出来なかったのだろう、もっと早くこういうことがで出来ることが分かっていたのなら、していたのに。」とよく我々は考える。しかし実際それは幾つかの回り道や失敗を繰り返したから達成し得たのかも知れないのだ。後悔をすることというのはある幸運に見舞われた時も今の例で分かるが、当然不運に見舞われた時も同じである。「こんな悲惨な事故に遭うのが分かっていれば、無理して今日雨天なのに旅行に来るんじゃなかった。」と高速道路でのスリップ事故に遭いバスに同乗した家族を一人失った人はそう嘆くだろう。つまり人生は同じことの反復であるのなら、こんなに楽なことはないのに、実際には酷く紆余曲折している上、決して同じことは起こらない。先述の賭博で勝った青年が二度同じ幸運に見舞われないようにである。
 レヴィナスと郡司ペギオに関する質量の問題は少しこの章をお読みになられる読者にも理解してこられたのではないだろうか?私はアンリの捉える印象というものが質量によってなされている、と考えているのだ。そこで今度はウィリアム・ジェームスの言う質量に関して少し詳しく考えてみよう。そしてジェームスの考える質量は、ある意味ではドーキンスが「ブラインド・ウォッチメーカー」(前章で少し触れた。)で述べている選好性の遺伝子(同書中、爆発と螺旋より)という考え方と結びつくと思うのだ。そのことを念頭に入れてこれから先の記述をお読み頂きたい。
 まず河口ミカルの次の文(「理屈っぽいあなたに贈る言葉集」中結論より)を引用するので、読んで頂きたい。

(前略)フランスの哲学者で文学者でもあったジャン・ポール・サルトルは1945年終戦の年に「実存主義はヒューマニズムである」で、ペーパーナイフを例に取り、道具という実存が、本質に先立つと言った。それはキリスト教世界観と倫理観に裏打ちされた社会に対してどのような衝撃であったかというようなことを阿刀田高は著作「旧約聖書を知っていますか」の中の8話<アダムと肋骨>で述べている。しかしサルトルがそういうことを初めて言った張本人ではない。それ以前ニーチェも同じようなことを言っていたし、その後ウィリアム・ジェームスも同じようなことを言っている。ニーチェよりジェームスの方が二歳年長者であるから、同世代のニーチェに刺激された、ということもあったかも知れないが、ニーチェより十二歳若い世代であるフロイトもまた、私たち人類が神の恩寵であったと思っていた(西欧人にとってだが。日本人は神様仏様と言うように、自然一般という思念が支配的であるが。)のを、無意識がある種の閃きを齎しているのだろう、と言うような考えを現代人に持たせた張本人であるし、そのフロイトにジェームスは感化された部分もあったのかも知れない。彼が「プラグマティズム」を著したのは六十五歳の時である。(1904年)そこには次のように述べられている。
「(先述)神は世界を現にあるとおりに造ることのできた存在者である、このことにたいしてわれわれはおおいに神に感謝するが、しかしそれだけのことである。ところで今度は、反対の仮説をとって、微細な物質が自己の法則にしたがってこの世界を神の創造と寸分違わず造りえたものと考えてみると、われわれは物質にたいして神へと同じに感謝すべきではないだろうか。そこでわれわれがどこに損失をまねくことになるであろうか。どこに格別な生気なさもしくは粗雑さが入り込んでくるであろうか。また経験は現にあるとおりのものであるから、この世界に神がいまそうとも、いかにしていっそう生気あらしめ、いっそう豊かにすることができようか。」(桝田啓三郎訳、76~77ページ、岩波文庫)
 ジェームスからサルトルが啓示を受けたかどうかは分からない。しかしベルグソンと親しかったジェームスの影響を、ベルグソンを引用したり、参考にしたりすることの多いサルトルが間接的にでも影響を受けているということは確かであるが、問題なのはそのような哲学者間の関係ではない。関心のある方はこの記述の先をどうか文庫本で読んで頂きたいのだが、完全にこれは神の否定である。しかし問題はそのことでもない。一番私に強く訴えかけてくることというのは、ジェームス、ニーチェ、フロイト、サルトルと立て続けに出現する哲学者や思想家たちが挙って何回も時を置いて、神を否定しなければならなかった彼等の立たされた文化的土壌の凄まじさである。つまり西欧社会とはキリスト教世界観と、倫理観が支配する王国であるという前提に立たなければ、この執拗なまでの彼等の哲学的主張の意味は理解出来ない。
 
 河口の言うようにジェームスは「純粋経験の哲学」の最終章<多元的宇宙>において明確に無意識の世界の重要性と、そのためにそれまでの西欧哲学史を呪縛してきた神の一元論、神の無限の能力に対する否定から今後の哲学、心理学の将来を展望している。それは例えば次のような文からも明白である。
「(前略)経験の一切の厚み、具体性、個別性は、その直接的でほとんど名づけえない段階のうちにあるのであり、まさにベルグソン教授があれほど強調してわれわれに注意を促しているのは、この経験がいかに豊かであるかということであり、またわれわれの概念作用がそれにつり合うにはいかに驚くほど不十分であるか、ということなのである。」(<経験の連続性>172~173ページより)
 ジェームスは経験論と合理論を結託させるためのロールモデルとしてベルグソンとフェヒナーを指針として掲げている。そして西欧哲学が一神教的一元論、そして観念的合理論に支配されてきたという事実に対して、私たち日本人には馴染みのある観念を逆に利用しようと試みていることが興味深い。つまり私たち日本人は「あんた方どこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、洗馬さ、洗馬山には狸がおってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ」の世界、つまり郷土共同体の内側と外側を区別する思考から、責任論的な公共性へと、つまり西欧合理性へと意識的に転換してきた歴史であるのに対して、西欧ではジェームスが次のように言っているように、逆のベクトルを志向しようとしていたのである。
「おそらく、わたしが強調したい区別を表現するためには、「合理性」と「非合理性」という言葉よりも、わたしが第一回の講演で用いた、「よそよそしさ」と「親密さ」という言葉の方が適切であろう_それゆえ、ここでもこれらの言葉を使って考えることにしよう。わたしは今や、「一」という概念がよそよそしさを増大させ、「多」という概念が親密さを増大させるのだ、といいたいと思う。(後略)」(<多元的宇宙>212~213ページより)
 多神教、八百万の神の国の仕来りに学ぶと言っていいほどの接近振りを、あるいは日本的なものを志向するかの如き錯覚を私たちに与えるくらいの精神的傾斜がジェームスの言辞の多くに読み取れる。

 今度は河口の同論文から再び次の文を引用するので、そこから発展させて考えてみよう。

(前略)ご存知のように三角形には対角線はない。対角線は四角形から存在するのである。そして角数が増加するに従ってその形態は円に近づく。しかし偶数角は円に近づく面積の中心点(円の中心点と重なる。)を通るが、奇数角は中心点を避ける。そこで例えば百角形は限りなく円に近い形態となるが、偶数角なので、中心は対角線の交差によって埋め尽くされているが、九十九角は奇数角なので、中心点は空白である。そして角数が減少するに従って奇数角の中心を避ける面積は拡大されてゆく。逆に言えば角数が増加するに連れて中心点を避ける空白は中心点(面積がない。)に限りなく近づく。しかも百角形は一つの角につき九十七の角と対角線を作るので、殆ど中心点以外の面積は線で黒く埋め尽くされている。しかし点という面積のないもの(原理的には線も面積がないのだから黒く埋め尽くされるというのも概念上のことである。)とは概念上は成立するが、実際にはマイクロスコピックには存在し得ない。(後略)(同論文中、第二章怠惰なあなたへ より)

 この仮説はある意味では一定の枠が与えられて初めて成立するものである。つまりある円に接する多角形ということである。だから当然一辺の長さは角数が増加するに従って短くなる。つまり数学原理を理解するために恣意的に選ばれたある円を前提に、全ての過程が成立している。つまり概念的理解を誘引するために恣意的に前提が与えられるという事態そのものに私たちは慣れっこになっている、ということを私はここで提示したかったのだ。そして同じ文章の中で明らかに点には面積がない、そして線も黒く塗り重ねられることは原理上はあり得ないのにもかかわらず、数学では概念的理解のためにそれをやる、というこの文章の主張を通して、私は数学的理解をはじめとする概念的理解の世界では、無意識的な行為とか、自動的な行為が自動的になされるのではなく、あくまで意識的な「構え」が自動的になされる、という不文律が私たちの日常では支配しているということが言いたいのである。中心点とはマイクロスコピックに存在しないということは、つまり概念上でしか存在せず、実際の物理的空間では点というものを指定することが出来ない、あくまで点とは物理的現実においては、その全体を見るという視点の中から概念的に理解する、あるいは「見えるものの中から明らかにあると感じられる仕方で示す」ことでしかないということを意味する。中心点も二点を結ぶ最短の線である直線は存在し得るが、示し得ないのだ。そして一点において接するという数学的理解もまた、概念上は理解出来るが、物理的実際空間では示し得ないし、あり得ないのである。線にも点にも面積がないからである。しかしその数学的言辞の言わんとすることを我々は理解出来る。これは実は極めて不思議なことである。それは図式的には次のような理解の仕方である。

客観的真理に対する納得→主観的に理解しようとする

しかし私たちの日常的生活において私たちがする会話で、自らの主観を述べようとする時には数学的規約を前提とした概念的理解とは反対のベクトルになる。

主観的に納得し得ることを客観的に説明しようとする
 
 この主観的納得が他者には容易に理解されることがないということを我々は知っているにもかかわらず、それでも敢えてそれを告白する場合、私たちは主観的納得という私的言語をどこかで自己欺瞞を承知で、一般的真理に拡張しようとする。この際のディレンマを切々と訴えている哲学者こそ永井均氏氏ではなかろうか?そして永井氏のテーマを郡司ペギオは言葉を換えて次のように述べている。(「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」)

 Y 部分から全体へ。無限概念を介してイメージされるのは、様々な主観的視野から、客観的視野へ、という操作だよね。でもそういう言い方をすると、(中略)客観・主観と逆になるんじゃないかな。
(中略)様々な属性のコレクション、つまり外延を、客観的描像と呼んだよね。逆に様々な属性を一つにまとめあげること、もしくは一つの選ぶこと、つまり内包を、主観的描像と呼んだんだよね。ちょうど逆になっちゃう。
 P いや(中略・以前の議論のことを言っている。河口注加入)と極限=客観を集める全体という議論との間に捩れがあるのは、寧ろ自然なんだよ。(上と同)は、内包と外延を一致させられない観測者=わたし、というところで考えている。神様のようにすべてを見渡す者はいない、という、いわば地べたに這いつくばった私という立場しか、想定していないんだよ。すべての属性を見渡すことは原理的にできなくて、無理に仮想しているだけなんだよ。だから外延は、途中までいくつかの属性を列挙して、あとは「⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅」みたいな無際限さに言及するだけ。逆に、全体としてのあり方を一個に決めるという規定のしかた(内包)は、すべてを網羅して決めるわけじゃないから、勝手に、恣意的に決めてる、という性格を免れない。だから主観的になるんだよね。
 この捩れはとても重要な論点を含んでいる。数学的な形式は、超越的視点しか用意していなくて、主観は限定的知識、不完全な知識によってしか規定できない。このとき部分=主観、全体(超越者)=客観、となっている。他方、経験世界では、観測者は有限の立場にあって、外延(部分の総和)=客観、内包(全体としての規定)=主観となっている。
 僕たちの扱っている問題は、経験世界の描像を、いかにして形式的に表現するかということなんだ。ところが経験的な主観っていうのは、勝手に決められた個物であって、これをまた数学の中で考えると、外延ということになる。つまり数学的形式によって経験的主観・客観を構成しようとすると、それは数学的な客観=内部構造、を見出すといった展開になる。点の中の点、こうしてオープンリミットの意議が再確認されるわけだ。(201~202ページより)

 郡司ペギオ氏が永井氏と異なる点は永井氏が主観の側から客観の立場を考えているのに対して、郡司ペギオ氏は明らかに客観の側、つまり数学的認識の側から主観の立場を導入しようと試みているということである。
 郡司ペギオ氏の全体と部分の反芻的なアプローチはジェームスにも多く見られる。彼の<多元的宇宙>はまさにそれだけによって成立している論であると言える。しかしそのアプローチはダーウィンが創造説を克服しようとしたり、もっと遡ればカントが「道徳形而上学原論」において神の完全性に対して懐疑的立場を採ったりしたことの系譜学としても認可出来るような心理的傾向とも言えるが、次の一節にはそのことが顕著である。
「したがって、神学においても哲学においても、もっとも抵抗の少ない考え方は、超人的意識を認めるとともに、それが一切の包含するものではないという考え方を認めることである。いいかえれば、神が存在し、しかもその神は能力と知力のどちらかにおいて、有限であると認めることである。いうまでもないことであるが、ふつうの人々が神との能動的な交流をもつのは、一般にこうした了解のもとにおいてである。これにたいして、神を完全者にする一方で、その概念を実際的にも道徳的にもあまりにも逆説的なものにしてしまう一元論者の考えのようなものは、彼にとってのみ存在する概念的代用品にたいして遠隔的に働きかけるような、よそよそしい専門家の精神が生み出す冷たい添加物にすぎないのである。」(<多元的宇宙>202~203ページより)
 ジェームスの記述心理学と宗教心理学としての認識論は、「純粋経験の哲学」の翻訳者である伊藤邦武氏の次の指摘において現代的視座を持つことを認められよう。
「認識論における伝統的な問題設定は、「精神に内在する観念や表象がいかにして外的で客観的な対象へと妥当するのか」という形で表現され、この問題設定のもとで懐疑論や「認識の自己超越」等の考え方が提起されてきたのであるが、この認識関係はもっぱら無時間的な出来事として理解されてきた。これにたいしてジェームスの根本経験論では、認識関係はそれ自体がひとつの時間過程であり、認識するものと認識されるものとの結びつきが、認識と行為というより大きな過程の内に組み込まれて理解されている。「機能主義」という言葉は、今日では、1960年代以降のいわゆる「心の哲学」において、人間とコンピュータの認知機能の類比的関係をひとつのきっかけとして提案され、主流となってきた考え方をさしており、当然のことながらジェームスのなかには、こうした人間と機械の類比という考えはない。しかしながら、認識が人間精神の果たす機能であるという考えそのものは、ジェームスや(その盟友であった)パースによる伝統的な認識論の格闘のなかで初めて生み出されたアイデアであり、その意義は現在においても決して失われていないのである。」(解説、281~282ページより)
 人間が宗教的心理になることの発端は、恐らく私の考えでは願望が満たされないということに対する極端な現実そのもののシニシズムが我々に齎す不安と、苦悩であろう。勿論その場合の願望とは最低限の人間生活の幸福を保証するものであり、それさえ手中に収められないという状態に起因する不安が宗教的心理を自然に招く。しかし願望とはそれが些細なことであってさえ実はデモーニアックなことである。つまり精神の合理主義を考えれば、それは無意味な心的作用である。何故なら全てはなるようにしかならないのであるからであり、そして何かを望むという心理は全て神頼み型の心理であるからだ。しかしそれを克服出来る人間はいない。全ての行動を誘引するものは何らかの欲望であり、それは実現されていないという何らかの形での欠乏感に端を発している。そして行動とか決意といったものは全て何らかの形で野心と関わっている。野心とは上昇志向である。その上昇志向を支えるものは、他者に対して遅れを取りたくはないということであると同時に、何もせずにいることで無為に時間が経過してゆくことで生じる不安を招聘しないようにすることである。幸福もまた何か行動を起こすことでしか実現され得ないということを我々は知っている。
 ジェームスが心理機能主義的な認識論に到達したことの背景には自分自身の極度の生に対する不安があったものと考えられるが、不安を招くことそれ自体もまた、人間が願望という不条理な思念を抱かずには生活出来ないという事実に起因するのだ。だから仏教では解脱という心的作用を常に志向してきたのだし、西欧哲学もまた、近代以降多く意志とか、欲求という問題に翻弄されてきもしたのだ。願望とは欲求であるし、それは意志的な志向性と不可分である。しかし意志することが願望によって誘引されるにしても尚、私たちは願望が肥大化すると、空虚感を味わうようになる。つまり欲求が実現されると欲求が実現される事態そのものに倦怠感を抱き始めるのである。願望が肥大化されるという事態は、ある意味で願望が実現されることに纏わる空虚感という、精神的充実の喪失が、欲求実現によって齎されることによって空無として実感されるが、もっと充実した達成感を得るということ、例えば金銭的なことではなく精神的なことを求めるということでさえ、願望の肥大化であるとも言えるのだ。
 関心の質量とは欲求(あるいはその内容)が一定の認識によって理性的に昇華されたものに他ならない。だからそれは満たされないという不条理を前提しているのだ。あるいはこうも言える。願望を抱くという心的作用を払拭することが出来ないでいる生の実存に向き合うということから、その事実に対する客観的視点を獲得することが関心を行動の意欲として用意するのである。
 郡司ペギオ氏の次の一節(「生きていることの科学生命・意識のマテリアル」はその私の考えをよく説明してくれる。
「翻って質量って何だったか。マテリアルって何だったか。可能・実現態の区別を創りだすため、その素材性を規定したときには、決して窺い知れなかった機能が潜在するもの、だった。ボールペンの場合、インクがあるから筆記用具と理解されていたものが、インクがなくなってただのモノになったとき、尖った先で紙に傷をつけて何か書けるという機能がはじめて発見されたんだった。水道管をつなぐための、太いレンチを考えてみよう。この道具は、水道管という太いパイプをつなぐために特化していて、だから結構大きくて、長さがあり、ずんぐりと重い。質量性とは、まさにこの大きくてずんぐりと重いって、性格が担う事態だよ。この性格ゆえに、レンチは、水道管なんてないような場面でも、壁を壊す大きなハンマーのように使うことができる。ハンマーとしての使用が潜在している、これこそが質量性だった。」(231ページより)
 ある道具がその道具が作られた機能と目的を発揮しなくなった時に初めて発見出来る別の用途への転換可能性とは、災い転じて福となす式の発想転換を私たちに教えてくれる。シュールレアリスムやダダズム、あるいはポップアートのオブジェという考え方は、本来の目的と機能を剥奪して発見し得る別用途、あるいは美感受の可能性からの引き出されたものである。そしてそれは道具に対する感謝の念をも私たちに教えてくれる。
 水道から水が出なくなった時私たちは初めて水の有り難味を知るし、停電した時に初めて電気の有り難味を知る。しかし感謝の念を得る時にも神を感じるが、巧くゆかず怨念めいた気持ちになる時にも神を感じるのが私たちだ。それは即ち願望の充足という快の原理を基軸に私たちが幸福状態に対する判定を行っている証拠だ。願望が充足されるということは、ある意味では日常的な努力によってであることを我々は知るが、願望は常に私たちの努力によって得る当然の報酬よりも先を行っている。そしてそれが意欲に繋がってもいる。しかし問題なのはそのような実現されること、達成されることの青写真というものが選好性の判断によって成り立っていることを我々はつい見過ごしがちである。
 例えばスポーツが不得手な人間はそもそもオリンピックに出場する夢を抱くことなどないだろうし、音楽的才能のない者がカーネギーホールで演奏会を開くことを夢想することなどないだろう。願望は実現可能なものと、そうではないまさに妄想と言っても過言ではないレヴェルのものとでは、その願望充足へと向けた行動は変わってくる。例えば音楽的才能のない者でも、プロの音楽家のCDを鑑賞することで願望を充足し、スポーツの苦手な者でも大リーグやワールドカップを観戦して代理感情として贔屓のチームや選手を応援し、彼らが勝利することを見届け欲求を充足する。そしてそういう場合贔屓のチームとか選手を選ぶ理由に、特定の規準とか、説明可能な合理的理由というものがあるとすれば、それは真にファンである心理からはほど遠いと言ってよいだろう。そしてもし合理的説明が可能となったとしても、それは非合理的理由を正当化するという目論みが成功していると言うに過ぎない。
 人間は社会的に理性的判断が出来る人であるというクレディビリティーを有する人間も、その内実においては子どものような夢を持っていたりするものであり、要するにそれを公の場で表明することを憚るということにおいて信任出来ると一般には考えるのであり、常識的な見解を論文で述べる人が即ち理性的判断だけで生活しているとは限らない。寧ろ非常識なことを言いふらす人の方が日常的にはずっと常識的な考えを脳内で抱いているということはよくあることである。
 つまり願望とか想像とか空想といったものに枷のようなものは一切なく、全てどう想像しようが自由である。だから人間は内的には非合理的思念の動物である、と言い切ってよい。常識的見解を主張すればするほど逆に日常的に非常識な思念に支配されているということを暗に認めているようなものである。しかし日常的で個人の内面で思念することが自由と違って表立って何かを真理であるか如く吹聴することとは、それだけで責任倫理に抵触するので、ドーキンスが非科学的発想を真理の如く扱うマスコミに対して批判を加えていることそれ自体には意味がある行為であると我々は裁定してよいだろう。ただ人間はどんなに公平な視点でものを見ていると表明しても、内実的にどうしても受け容れられないタイプの考え方とか、あるいは受け容れられないタイプの人間といったことの無意識の嗜好というものを払拭することなど出来ない。それは公では認められていることに関してもそうなのである。それは偏見であるというよりも、寧ろ性格的な相性の問題である。だから人間とはそういう傾向があるのだ、ということを踏まえて公平を期する必要のある時に、その都度対処してゆかねばならないだろう。
 このどうしても相性的な判断でしか切り抜けないことというのを、ドーキンスは選好性の遺伝子と捉えている。これはもともとサー・ロナルド・フィッシャーの考案した概念である。しかしそれをより分かりやすく私たちに伝えたという意味でドーキンスに功績がある、と言ってよい。この選好性の遺伝子については結論の<私の採る立場>でも詳しく論じるが、その前に「ブラインド・ウォッチメーカー」で彼が示している選好性の遺伝子に纏わる内容をテクストから抜粋引用することを通して理解しておこう。(つづく)

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