Sunday, October 25, 2009

B論文「信仰心と無神論」第三章 メタ認知の必要性と不可能性

 私たちが何気なく観察する日常の現実は、そういうことがよく起こることであるなら、明らかにその生起する現実を支える因果関係というものが想定される。これは物事が生起する前後関係とか先後関係によって理解することが出来る必然的な展開をそこに見出すということである。このことはプラトン的な哲学観を私たちに想起させる。つまりある出来事をそのことそれ自体としてだけではなく、先にあった事例多くに共通する生起事実一般例の一つとして、その必然的な展開として理解するという見方を我々に齎す。例えば栽培植物を育てていた植木鉢がその植物が枯れた後、そのままベランダに放置しておくと、どこからともなく雑草の種子が運ばれてきて、その植木鉢に生息することとなる。これはある意味では必然的な展開である。
 例えば私たちの身体の各生理学的作用の一つ一つをそのような因果関係で捉えることはメタ認知レヴェルでは可能である。元来メタ認知とは、ある生起した出来事が何らかの自然界における因果関係を有していて、その法則通りにことが運ぶということから、その生起事実を前例によって理解すること、解釈することであるから、当然どこかで概略的記憶というものを通して因果関係的理解に依拠していることになる。大概そういう記憶とは大筋のものであって、詳細ではない。従ってそのような理解の仕方を常習していると、つい初めて起こることを見逃しがちになる。そのものをそのものとして「初めて生起する固有の出来事である」と理解する必要性は、実は前例のある一般的ケースとして理解することと同じくらいに重要な物の見方である。
 しかし身体的な生理作用の全ては何らかの形で身体的な反応の記憶を踏襲したものである。
 例えばフランシス・クリックの
「認識という点では、脳が認識するのは外界もしくは脳以外の身体部分についての情報である。このことは、視覚を司るニューロンは私たちの頭のなかにあるにもかかわらず、私たちが見るものは体の外にあるように見えるという理由でもある。(改行)たいていの人にとって、これは大変奇妙な考え方に思えるはずだ。「世界」は体の外にあるのであるが、ある意味では、それはそっくり頭のなかにあるのだから。同じことは、あなたの体についてもいえる。あなたが自分の体について知っていることは、あなたの頭のなかにあるのだから。(改行)もちろん、頭蓋骨を開けて、あるニューロンが送り出している信号を取り出し、そのニューロンがどこにあるかを言うことは、第三者には可能である。しかし私たちが研究しようとしている脳は、その情報_ニューロンの位置に関する情報_は持っていない。これは、人間の認識や思考が頭のなかのどこで行われているかを私たちが知らない理由でもある。つまり、そのような_位置の_情報を信号化するようなニューロンは、ないのである。」(「DNAに魂はあるか驚異の仮説」150ページより、中原英臣、佐川峻訳、講談社刊)
 という叙述からも明白であるが、我々は我々の身体のメカニズムそのものを頭で理解するようには作られてはいない。つまり身体の能力が顕現されるという意味では、肢を動かしたり、瞳をしばたたかせたりすることが容易に可能であるが、その身体能力そのものを司るメカニズムそのものはブラックボックスに仕舞い込まれたままなのである。
 しかしこのことは一面では我々の精神的安寧という観点からはメリットもある。何らかの身体生理的トラブルに見舞われた時、その身体生理的メカニズム自体の不調を即座に認知し得ないということが、逆に楽天的な行動意志決定の合理化を促進するからだ。しかしじきに我々は体調の不良を訴えることになる。そしてその時には医師に診察して貰う必要があるのだ。
 この身体生理的機能のメタ認知の不可能性は、ミシェル・アンリが特筆している。最晩年のテクストの一つである「受肉」においてアンリは
「かつて誰が自分自身の視覚を見たことがあるだろうか。」
 と言っている。これは私が例えば海岸において水平線を見ている時に感じたことである。
 例えば私は夕日が沈み水平線が紅に染まっているそのさまを見ることは出来るが、その時水平線というもの一般を眼にしているわけではない。それはその時固有の空気、天候に左右されたその時だけの水平線の描く風景である。しかしその時のことを時間がたって想起する時、私はどこかで既に曖昧になりかけた記憶を頼りに、思い出す時、明らかに水平線一般のさまを引き出しつつ想起していることに気がつく。つまり何かが「存在すること」とは想起においては認識可能であるが、何か存在するものを見ている時には、私たちは「存在すること」そのものを見ているわけではない。そこに存在するものの物質的なクオリアとか、その存在する物質と周囲の物質が醸し出す状況的なクオリアそのものを見ているのであり、その状況が存在することを見るという意識にはなれない。しかし一旦その状況から別の状況に転換している時、我々はその前の状況全般に対して想起するわけだが、その時我々は前状況の存在を意識することが出来る。(実際アンリが影響を受けたメーヌ・ド・ビランが同じ主張をしているが、そのことは第五章と第七章で詳述する。)
 つまりメタ認知とは端的に現実生活においては記憶作用においてより容易である、ということである。
 ところで賢明なる読者諸氏は、私のこの論文が第一章から既に我々「考える主体」が自己‐他者の相関性において不可避的に「世界」の一部として生活することそれ自体に内在する競争の論理に晒されているということに対する認識に基づいて書かれているということにお気づきになられているのではないだろうか?実はそうなのだ。しかしそれは意図的なものからではない。私たちは実は自己‐他者という相関性において自分の世界を「世界」一般へと同化している時、明らかに既に他者との間で交わされる競争の鳥羽口に立たされているのである。そのことをリチャード・ドーキンスの「ブラインド・ウォッチメーカー」(下巻)において示された論述から幾つか引用しながら考えてみよう。そしてその後で現象学者間のある種の競争の実態について触れてみることとしよう。
「たとえば、森の樹木はどうしてあんなに高いのだろうか?簡単に答えれば、他の樹木がみな高いので、どの樹木も高くないわけにはいかない、ということになる。そうしなければ、覆われて日陰になってしまう。これは本質的に正しいけれども、経済観念の発達した人間の気分を損ねるものである。どうにも無駄だし、浪費なのだから。(中略)すべての樹木がそれより低ければどうだろうか?森林の樹冠部として承認を受けた高さを低くしようという一種の労働組合の協定のようなものがありさえすれば、すべての樹木が利益を受けるだろう。相変わらず、ちょうど同じだけの太陽光をめぐって樹冠部で競い合っているのにしても、どの樹木もはるかに低い成長コストを「支払う」だけで樹冠部に届く。だが、残念ながら、自然淘汰は全体の経済に気遣いを支払わないし、カルテルや協定をとり結ぶ余地はない。森の樹木が世代を経るにつれて大きくなったのは、軍拡競争があったからである。軍拡競争のどの段階にあっても、高くなることそれ自体は何の内的利益もない。どの段階にあっても、高くなることの唯一の要点は、隣接する樹木それ自体よりも相対的に大きくなることだった。
 軍拡競争がどんどん進むにつれて、森林の樹冠部における平均樹高は高くなった。しかし、樹木が高くなることによって得た利益は大きくならなかった。現実には成長のためのコストが増したために、利益は減ってしまっている。樹木は何世代にもわたってたえず高くなってきたが、ある意味では高くなりはじめる前のままでとどまっていた方がましだったかもしれない。(中略)誰もがエスカレートしなければ、全員の暮らし向きはいっそう楽になるのに、誰かが一人でもエスカレートしだすと、もはや誰もそうしないわけにはいかない。これが人間のばあいも含めて軍拡競争の一般的特徴なのだ。ところで、ここでも私は話を単純に語りすぎたと、強調しておくべきだろう。どの世代の樹木でも、前世代の同じ樹木よりも高くなっているとか、軍拡競争はもちろんいまもなお進行しているとか、言おうとしているのではない。
 樹木の例で示されているもう一つの点は、軍拡競争が必ずしも異種のメンバー間ではなくとも生じるということだ。一本一本の樹木は同種のメンバーによっても、異種のメンバーによるのと同じように日陰にされて被害を受けるだろう。おそらく、実際にはそうしたばあいの方が多いはずである。というのも、すべての生物は異種よりも同種との競争によってより厳しい脅威にさらされているのだから。同種のメンバーは同じ資源をめぐる競争者だが、その程度は、異種のメンバーに比べてはるかにきめ細かな点にまで及んでいる。種内では、雄の役割と雌の役割のあいだでも、また親の役割と子の役割のあいだでも、軍拡競争がある。(中略)
 樹木の話によって、対称軍拡競争と呼ばれる二種類の軍拡競争のあいだにある重要な一般的相違点を紹介することもできる。対称軍拡競争はお互いにおおむね同じことをしようとする競争者間のものである。光を求めて争っている森林の樹木が演じている軍拡競争はその一例だ。異なった樹種のそのすべてが正確に同じ方法で生計を立てているわけではないけれども、いまわれわれが語っている特定の競争、つまり樹冠部の太陽光をめぐる競争に関するかぎり、それらは同じ資源をめぐる競争者である。これらの樹木は、一方の側の成功は他方の側にとって失敗になる、そういった軍拡競争に参加している。そして、それが対称軍拡競争だというのは、両方の側にとって成功と失敗の性質が同じだからだ。つまりどちら側にとっても成功とは太陽光の獲得であり、失敗は日陰になることである。
 しかしチーターとガゼルの軍拡競争は非対称的である。それはどちらか一方が成功すれば他方は失敗したことになるという点では本物の軍拡競争なのだが、成功と失敗の性質がその両者で大変異なっている。それぞれの側はきわめて異なったことを「しようとしている」のだ。チーターはガゼルを食べようとしている。ガゼルはといえば、チーターを食べようとしているのではなく、チーターに食べられるのを避けようとしている。進化的な観点からは、非対称軍拡競争の方がずっと興味深い。というのは、高度に複雑な兵器体系をつくりあげやすいからである。その理由は人間の軍事技術から例をとってもわかるだろう。
 例としてアメリカとソ連を使ってもいいのだが、特定の国に触れる必要はさらさらない。どこかの工業先進国の会社で製造された兵器は、最終的にはさまざまな国のどこかに買われていく。海面すれすれを飛んでいくエグゾゼ型のミサイルのように、成功をおさめた攻撃用兵器の存在は、たとえばミサイルのコントロール・システムを「混乱」させる電波妨害装置のような効果的な対抗技術の発明を「招く」ことになるだろう。その対抗装置は、おそらくは敵国によって製造されるのだろうが、同じ国、いや同じ会社によって製造されることさえあるのだ!それというのも、結局、あるミサイルを最初につくった会社以上にそのミサイルに対する妨害装置をデザインできる能力をもった会社はないからである。同じ会社がその両方を製造して、それらを戦争で敵対する両陣営に売りつけるというのは、はなからありそうもない話ではないだろう。それくらいのことはいかにも起こっているのではないかと疑う程度には私はシニカルだし、この例は実質的な有効性が変わらないまま装備が改善される(そしてコストは増加している)という点をまざまざと描いている。」(「ブラインド・ウォッチメーカー」[下]7章建設的な進化、29~32ページより)
 要するにドーキンスが指摘していることとは軍拡競争だけが、それによってどちらかが勝利するとか敗北するということがないまま進展するような状況が自然淘汰(私は自然選択と言っているが、ドーキンスの訳者に合わせてこう言っている。)では行われ得るということだ。しかし先述の樹木の例ではある樹高の臨界点のようなものが見出され、我々は一定の高さの水準というものをある程度樹木に関しては知っている。しかし冷戦構造とかデ・タントといった構造は現在でも未だ何らかの形で残っていると世界情勢を鑑みて結論するということは間違いではないだろう。しかし最もこの記述の中で興味深いこととは、最後の兵器製造とそれに対抗する妨害装置の開発を同じ会社が行うという発想である。
 例えば、現代社会を象徴することとして、実際にそういうことがあったなら、驚愕の真実として考えられることとして、あるコンピューター・ウィルスを除去するソフト開発者として最も相応しい者とは、そのウィルス作成者である、と言える。つまり彼が何故適任なのかとは、実はドーキンスの言う発明と対抗発明の軍拡競争が、ある意味では双方の勝敗のアップには繋がらないが、何の進歩も、そのための努力もない状態だけは双方で回避出来るという、最低のラインだけは守ることが出来るし、その成果を上げることが同一者であるということが最も効率的には好ましいということによる。今の例で言えばウィルス除去システムの作成者と、そのウィルスを発明する者が結託したら、双方にとって多大な利益を望めるという意味では、考えただけでも空恐ろしい気さえする。
 つまり重要なこととは、自然界での自然選択的法則性というものの前では、敵対する者同士がいがみ合っているのかそうではないのか、ということよりも、そもそもルティンワークというものが成立し得るのか否かということなのである。それは与党と野党の政治家の論争を見ていてもよく分かる。重要なこととは、論争することによってより改善された結論を導き出すことなのである。だからこそドーキンスは発明者と対抗発明者(最初の発明の効力阻止者)が同一であっても何の不都合もないとまで言い切るのである。それどころか、そのような矛盾の同一性があったとしても、軍拡競争をルティンワーク化することを維持することそれ自体は、全ての生物種に「生きる目的」を与える。「生きる目的」とは行為の遂行であり、行為の遂行は一々その行為に意味があると意識する必要がなく行えるような状態をこそ望む。そのような疑問なく何かを行うことが可能となるためにこそ「目的」とは作られる。そしてその目的を最も順当に遂行出来る手段として軍拡競争が存在理由を持つのだ。つまり軍拡競争はそれ自体が目的である、と言うよりは、寧ろそれが平和であれ、実力向上であれ、目的が何であっても、その目的へ向けて何の疑問もなく邁進することが出来るような状態を作り出すというところに最大の効用があるのである。私は何もドーキンス同様世界でそのような軍拡競争があることが好ましいと言っているわけではない。寧ろそれは憂えるべきことである。しかし少なくとも自然科学的認識というものの前では対する相手が自然であれ、人間であれ性悪説的なことを見て見ぬ振りをすることが許されないということを言いたいのと、その認識可能性の推進者としてドーキンスのスタンスを科学者としては正しいと考えていると言いたいだけである。
 そして重要なこととは、無意識の内に私たちは多くの現実に対して何の疑問も抱かずに、それを当たり前のこととして受け容れているということである。そしてその多くはそう容易くは(それが間違ったことであってさえ)変更が利かないということである。例えばパソコンのキー配列の変更もそうだし、個人的な移動手段を自動車以外の手段に求めることもそうだし、資本主義以外の社会システム構築とか、貨幣経済以外の手段を講じることなどもそうである。(しかし哲学者も科学者もそれを考える必要はある、と私は考えているが、そのことは結論において詳述する。)
 そう考えると、私たちは日常における理想の多くを、実は目的意識よりも、その目的へ向けて何の疑問も差し挟むことなく邁進するその姿にこそ、心の中に描いていると言うことが出来る。それは実際私たちが背後の意味よりも、実際に確認出来る「現れ」をこそ重視する心的傾向があることが分かる。
 このことが実は私たち人類が哲学論争を延々と繰り替えてきた理由でもあるのだ。
 「現れ」に背後性を付与して認識するか、「現れ」そのものが全てで、背後そのものが幻想であると認識するか、ということに関して言えば、明らかに現象学は後者の立場を採っている。ある意味では現代に生きる我々が確認出来る「現れ」をこそ重視する心的傾向があるとしたら、それは現象学のお陰であるとも言える。つまり現象学では「現れ」こそが最もその中味(中身)を表している、と言うより中味が現れと違うということなど通常はあり得ない(全くあり得ないとも言い切れないが、そういうことはよくよくのことでなければ滅多に起こり得ない)という立場で考えている。
 それは最も理解しやすいものとして我々が例として出し得るのが、スポーツであろう。スポーツ選手たちはその競技上で上げる成績こそが実力のバロメータである。実力とはどんなに日頃練習中に高記録を出せたとしても、本番の競技で十二分にその日頃の実力を発揮しなければ何の意味もない。つまり彼らにとって本番の競技こそが彼らの実力を公式に示し得る最良の舞台なのだ。だから実力とはスポーツ選手にとって隠すものではない。よく「能ある鷹は爪を隠す」と言うが、彼ら鷹とて重要な時にはその狩猟本能を発揮して爪を十二分に利用するだろう。だから仮に日頃は実力があるのに本番では金銭授受目的から八百長をする選手がいたとしたら、そういう選手たちのことを我々は真の実力者とは呼ばないだろう。そういう者たちはそもそもスポーツマンシップを理解していないのだから、卑劣漢なのである。
 ここら辺はギルバート・ライルの行動主義哲学の考えを持ち出しても説得力がある。つまりある人間の行動とは最もその人間の心の真意を表しているという主張がそこにはあるからである。つまりその人間の真意の「現れ」とはその人間の外面的に確認出来る行動である、と言えるだろう。
 「現れ」そのものの本質とは、現象や背後に存在するのではなく、本質というものはそのまま「現れ」るものだ、「現れ」出るものなのだ、ということこそが現象学が掴んだ真理である、と言ってよい。
 そのことは次のように言い換えてもよい。私たちは何かが「現れ」た時、その出来事の本質を理解しようとする。しかしその出来事を誘引したこととは、その出来事が起きる以前に何らかの伏線があり、その原因となって作用することが事後的に位置づけられよう。しかし実際その原因が持ち出された事実とは、実はある結果が、つまりこの場合にはその出来事が起きたという事実によって誘引されたものなのであって、要するに原因とは何らかの結果として認識された出来事があったから、と言うより何らかの事実を「出来事」として認識した、という我々が<事実に対して意味を付与する>という行為があったからであり、それなしには原因となる事態そのものは終ぞ認識され得ずに終わったことであろう。
 例えばそれは私たちが利用する言葉に関しても言える。言葉とは私たちのその言葉を吐く度に心に思い描いていたことに対する表明のための道具である。だから何かを述べている時、私たちの脳は既にその吐かれる言葉(つまり身体的に発声される)が言葉によって示されるべき内容よりも先に考えが行っている。
 しかし言葉とは保守的であり、その直前に考えていたことをなぞる。そしてその自分の寸前の脳内での考えの表明に適した言葉とは、自分の心の中にその考えをしまって置くことにおいてとは必ず異なった様相で立ち現れる。何故ならある言葉を吐くこととは、その言葉を通してその言葉を聴いた他者が何らかの言葉から得る理解というものを既に想定しているからだ。その想定とは、どのような言葉を、つまり文章とか、語彙とか、ニュアンス表現とかを選択して今述べるべきかという考えの下に、その都度文章の形態や語彙や、表現を採用しているのだ。
 例えば我々は物質や肉体というものに対する対立項として精神という語彙を想定している。何故そのような対立項を設けるかと言えば、それは我々が物質や肉体という言葉をより理解しやすくするために精神という概念を利用しているからだ。勿論それは物質や肉体という語彙に関しても言える。それは精神とか生命とかいった言葉をより理解しやすくするために存在する概念である。勿論我々はそれらの対立項を意識して設定しているわけではない。しかし会話とか陳述とか、記述の際に我々は内的にはそのような我々自身の発話や書記を巡る自分の考えに対する理解を滞りなく捗らせるために、対立項を相互に保有する概念を使用するのだ。だから逆に「では精神とは一体何なのか」と問われれば途端に我々は返答に窮するのだ。つまり我々が精神と言う語彙を使用する時、明らかに我々は精神というものが肉体に宿ったり、物質には通常我々が精神と呼ぶものは存在しなかったりといった、そういう想定の下でその語彙を使用するからだ。それは要するに言語行為というものが、その発話行為を通して何らかの感情のニュアンスを他者に伝える際に我々が、語彙間の関係、つまりこの例で言えば、精神と肉体と物質の関係(例えば肉体そのものも物質の一部であるが、それは同時にただの物質とは違って精神を宿すというような)を前提にして、何らかの内的感情を他者に理解しやすいように概念使用とその概念使用を滞りなく遂行させる論理(統語秩序)を利用しているからである。
 近代以降の多くの言語学が欠落させてきたものとは、実はこの語彙間の関係性(そのことはソシュールが考えていた。)のことではなく、この語彙間の関係性を利用しようとする人間の内的感情であった。この内的感情に関しては寧ろ言語学よりも、社会学の方に多く論究されてきたし、脳科学が現代になってようやく取り入れ出した。
 私はこのような体たらくが、実は宗教的戒律とか、宗教的モラルにあったのではないか、と考えている。そのことに関して西欧も東洋も違いなどないように思われる。
 そのことの論究の入る前に本論文の主役の二人ミシェル・アンリとリチャード・ドーキンスの宗教的位置について少し考えを纏めておこう。
 ところで我々日本人とは無神論者である、と言えるのだろうか?私は「それは違う」のではないか、と考えている。勿論中には無神論者と言える人もいることだろう。しかし通常民族的な一般的傾向からすれば、それは違うのではないか、と私は思うのだ。つまり無神論という立場を表明し得ることとは、まず神とはどういうものであるか、ということの理解を実感として体得していて、然る後その神を否定するのでなくてはならないだろう。そういう意味では日本人とはそもそも否定すべき神なる確たる宗教心とか宗教文化を有していないというのが実態ではないだろうか?つまり躍起となって否定する対象としての神というものを我々は持たない。だから我々日本人は無神論者であると言うよりは、寧ろ非神論者であると言った方がよいかも知れないし、敢えて位置づけるとすれば日本人の中で無宗教論者とは、無・カミ論者、それも無・カミガミ論者であり、無仏論者なのではないか?
 そういった観点から言えばリチャード・ドーキンスをこそ無神論者であるとすることはまさに定義づけとしても呼称としても相応しい。彼は西欧人(イギリス人)として自国の宗教文化を熟知しているし、西欧全体の宗教事情にも精通している。そして彼の考えでは西欧のみならず、殆ど地球上の全ての宗教が神を志向し、その事実に対して妄想であるとしている。と言うことは我々日本人もその中に含まれるということになるが、そのことは後に詳述することにして、ドーキンス自身は、私たちが志向する神、つまりカミガミではない文化圏の人であるし、その立場からまず一神教を否定し、その延長線上で、仏教その他の宗教心を否定するのだ。
 さてミシェル・アンリはどうだろう?彼は確かに有神論者である。しかし彼をもし一言で定義づけるのなら(それがいささか強引であるということを承知で敢えてそうすれば)寧ろ神学論者である。
 つまりアンリにとって神とは、ユダヤ神でもないし、ましてやそれ以外のカミガミでもない。それは端的にイエス・キリストその人一人であり、その人の人性=神性そのもののことである。この点では彼をイギリスにおけるC・S・ルイスと同じような立場にある「フランス人」であると考えてもよいだろう。そしてアンリの考えではキリスト教倫理全体の尊崇というものがまず前提としてあり(少なくとも生涯を通して確認出来る資質としては)、彼の哲学の骨子には、明らかに現象学の普及と、キリスト教倫理世界との融合が確認出来る。それは初期著作から晩年のものにまで通底している。
 ドーキンスは、飯田隆が「ウィトゲンシュタイン」で『ソクラテスが、皆が知っていると思っていることが、本当は知らないことなのであるということを伝えようとしたとすれば、明らかにウィトゲンシュタインは皆が知らないと思っていることの多くが、実は皆がよく知っているのに、何らかの障害によって知らないこと、つまり神秘的なことと思えてしまうということを問題とした』ということが正しいとすれば、アンリはキリスト教倫理の持つ説得力を曲解から開放して論説し、ドーキンスはその説得力を認めた上で、神そのものの存在を否定した、と言うことが出来る。
 哲学者であるアンリが仮に自分では神を信じていたとしても(実際はそうなのだが)、そうでなかったとしても(事実彼は無神論者に自分のテクストを読んで欲しくないという風には書いていない。)神の存在証明、不在証明(つまり神の存在証明の反証可能性を証明するということ)如何が最も大きな命題ではなかったように私には思える。
 その点ドーキンスは一生物学者であり、それ故科学者としての職業的使命から神の不在証明をする必要があった。ここに哲学者と科学者のライトモティーフの違いが横たわっている。
 しかしだからと言ってアンリに科学的洞察力が欠如していたとか、ドーキンスに哲学的洞察力が欠如していたとは決して言えない。
 例えば「受肉」(法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス868中敬夫訳)中第一部、第四、第五節においてアンリは次のように述べている。
 「存在を引き渡すのは現象性である。」(73ページより)
 「しかし、まず、こう自問することにしよう。かくもありそうもない状況に、存在と現れることとのこのような相互排除に、われわれを現前せしめるようなただひとつの事例、ただひとつの実例でも、ひとは引証することができるだろうか?」(73~74ページより)
 「現れることと同じだけ、それだけ非実在がある。」(78ページより)
 「たとえあらゆる見‐させることを可能にする現われることの欠如を言語が再生しているとしても何を驚くことがあろうか。」(79ページより)
 最後の二つでは言語は語られ、指示されるものを通して、語られない(意志)、語られ得ない(可能)もの、及び指示されない(意志)、指示され得ない(可能)ものを自ずと(好むと好まざるとにかかわらず)語る、ということを述べているのだ。このことはレヴィナスの「存在の彼方へ」中に幾つか共通する主張が読み取れる。例えば次のような言説と比較してみよう。
 ①「<語ること>は<語られたこと>の肯定であると共に<語られたこと>の撤回でもあるのだ。還元は括弧入れによってなされるものではありえない。むしろ逆に、括弧のほうがエクリチュールの所産であり、還元は存在することを倫理的に中断するエネルギーによってつちかわれているのだ。」(115ページより)
 ②「語りえない<語ること>さえ<語られたこと>にゆだねられている。」(116ページより)
 ③「還元をつうじて、<語ること>の意味にも溯行することができるのは、現出するもの、言い換えるなら、存在すること、ならびに主題化されたエオンを起点とすることによってのみであり、_存在すること、ないし主題化されたエオンについてのみ、現出は存在しうる。だが、現出に問いかける視線は一つに集約しえないものの不可能な共時化、メルロ・ポンティーのいう根源的歴史性にすぎない。近さの隔時性は、この根源的歴史性からすでにこぼれ落ちているのだ。」(117ページより)
 ④「<語ること>、それは剥きだしにされた皮膚の呼吸そのものであり、この呼吸はどんな志向にも先だっているのだ。」(126ページより)
 ⑤「(前略)<語られたこと>はそれに先だつ知に付加されるものではない。<語られたこと>は知のもっとも奥深い能動性であり、知の象徴性そのものである。」(155ページより)
 ⑥「主体性は感受性であり、他人たちへの曝露であり、他人たちへの近さゆえの可傷性と責任であり、他人のために身代わりになる一者、言い換えるなら意味である。質量とは「他のために」同時性の体系‐言語学的体系‐のうちで<語られたこと>として現出するに先だって、意味が意味する仕方である。だからこそ主体は血肉をそなえた主体として、飢えを覚える人間として、自分の口にくわえられたパンを贈与し、自分の皮膚を贈与することができるのだ。」(187ページより)
 ⑦「語られた主体性が現れる場としての普遍性にとどまることなく、哲学者は隣人によって強迫される主体性でありつづける。(後略)」(201ページより)
 ⑧「ある存在を意識するとき、私たちはつねに、一個の理念性を媒介とし、<語られたこと>を起点として、この存在を把握していることになろう。個的な経験的存在への接近でさえ、ロゴスの理念性を介してなされるのだ。」(233ページより)
 
 取り敢えずこれくらいに留めて、少し検証してみよう。(またレヴィナスの<語ること>についての記述は詳述する。)
 それにしても今レヴィナスを読み返してみると、アンリの方がより「存在の彼方へ」を意識して書いてのではないかとさえ⑥においてより私たちにその共通性を感じさせる。アンリは「受肉」の冒頭で、「テーブルのうえに置かれた茶碗は、自らを私に示す。それでも、テーブルも茶碗も、それら自身によっては、「諸現象」というそれらの条件のうちに自らをもたらす力量を、有していない」として人間としての存在者たちが物質と異なるのが肉によって存在を覚知することに他ならないと考えている。
 レヴィナスが言う「語ること」とは主体の語りであると同時に神の語りであり、神との語らいである。しかも「書かれたもの」とは自らの意志を綴るものと同時に聖書である。そして彼にとってそれらは他者、隣人に纏わる思惟と一体化したものなのである。そしてそれは神との契約を果たすべく生を生きる存在者にとっての語りという位相から捉えなくてはならないだろう。そして彼にとってそれは隣人にとっても、他者にとってもそうあるべきであるという視点から語られる隣人であり、他者である。
 その点アンリにおいて他者は自己との壁をレヴィナスほど大きく感じさせはしない。そういうところはメルロ・ポンティーにとっての他者と近い。それはレヴィナスがディアスポラを経験したユダヤ人であったということから来る特殊な青春から紡ぎ出された思想であるということだけに起因するのでもないだろう。哲学者は自ら自らの信条と神を選び取る。そういう意味ではレジスタンスの経験を持つアンリがキリストに原体験として邂逅することの意味は、恐らくレヴィナス同様体験としての会得という面だけではなく、自らが出会ったテクストや哲学的思惟との折り合いから決定されていったものであろう。アンリもまたある意味では神をキリストだけに限定しているわけではないものの、その神とはより現実社会において私たちの日常において語りかけてくる筈のものであっただろう。そういう点ではレヴィナスの語る神と相同のものを持っている。つまり私たちが目撃し得るこの二人の哲学者間の共通性と異質性とは、哲学者としての資質と、同時代の同テクストから受けた洗礼と、これが大切なことであるが、私たち自身の彼らに対する眼差しによって理解されるのだ。確かに「受肉」の翻訳者である中敬夫氏のご指摘されるようにレヴィナスほどの他者哲学的ニュアンスはアンリにはない。しかしアンリの哲学には自己‐他者という位相からではない、人間と自然との出会いという観点からの洞察がよく表されている。例えば次の一説にそれを読み取ることが出来る。
 「(前略)つまり神は、自らを顕現するために、世界を創造したのである。このような顕現がもつ現象学的構造は、明晰に指摘される。この構造は、ひとつの客観化のうちに、世界の客観化のうちに存しているのであって、したがって_ギリシャにおいてと同様、ルネサンスのこの終末においても_顕現を出現せしめるのは、自己の外へ自己を立てることなのである。この場合、問題とされているのは、神の顕現_ベーメが神の<知恵>(<言>の別名)と呼ぶ顕現_であるからには、してみると神の<知恵>が産出されるのは、或る第一次的な<外>の客観化としてなのである。」(「受肉」79ページより)

 ところでリチャード・ドーキンスは「神は妄想である」において、欧米では多神論は原始的であるとされているとし、更に
「汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論である。」
 と述べている。
 そしてアンリの指摘(「受肉」72ページより)、
「『聖書』の語っている光、義人たちのうえにも悪人たちのうえにも光り輝く光のように、世界の現れることは、それが照らし出すあらゆるものを、諸事物や諸人格を特別扱いすることなく、或る恐るべき中立性のうちに照らし出す。犠牲者たちや死刑執行人たちが、慈善行為や大虐殺が、諸規則や諸例外が、そして権力の濫用、風、水、地が、「有る(Il y a)」と言うことによってわれわれが表現している究極的な有り様において、われわれのまえに位置しているのである。」(同書、72ページより)
 これは明らかに有神論の矛盾である。神は完璧である筈である。しかしそれは人間にとって完全であるという意味においてだけではないだろう。そこに私たちにとって神を信じることの苦悩がある。
 ところで私たちはアンリが「現出の本質」で主張しているように、全てのメタ認知に関して、そのメタ認知そのものを支えている感情までをメタ認知することは出来ない。つまりもしそれが出来るとしたら、今現在の感情ではなく、少し過去に遡ったそれである。つまりこのすこしずつ感情そのものの方が、感情そのものをメタ認知しようと試みる我々に対して先んじているということそのものの支配から我々は決して自由にはなれない。
 脳科学者の茂木健一郎氏は自著「脳と創造性」(PHP研究所刊)において現代では脳において感情はそれが表立って際立った感情ではない冷静な場合でも、尚感情そのものが思考を支えているという考えにおいて脳を理解する方向に来ていると言う。
 つまり脳が感情という原始的な脳幹、小脳といったより基本的ホメオスタシスにかかわる部位によって行動を誘引しているとしたら、その意志決定の合理化において意識レヴェルで我々にその決定を納得させるものとして前頭葉が存在しているのではないだろうか?このことは多くの脳科学者たちの指摘しているところである。つまり認識や思考や理性以前に無意識レヴェルでの脳の感情コントロール機能がまずあって、その後前頭葉が理性とか意識の味付けをしている(それは進化論的順序で言っているのであり、現在の人間の脳作用で言っているのではない)というわけである。
 すると我々はその「感情が我々の思考を支えている」という事実を認知しようとしても、その認知そのものを支える感情を更に認知する必要が生じ、つまり意識の志向性を意識することは、その意識すること自体を意識する志向性を意識する必要性を生じさせるように、無限後退をきたすこととなる。つまり意識の志向性はそれ自体が意識内容に転化した瞬間から、その意識志向性を意識内容と化すもう一つの意識が立ち現れ、といった無限後退を余儀なくさせるのだ。だから我々は認知そのものもまで感情に支えられているという事実を知ると、茂木氏が常々主張されているように、脳の作用を認知しようとする我々の思考もまた脳によって行われているという認知を我々に呼び戻し、そこでも無限後退をすることと相同のメカニズムがあるということが了解される。
 アンリが示した「存在を引き渡すのは現象性である。」(73ページより)と「しかし、まず、こう自問することにしよう。かくもありそうもない状況に、存在と現れることとのこのような相互排除に、われわれを現前せしめるようなただひとつの事例、ただひとつの実例でも、ひとは引証することができるだろうか?」(73~74ページより)という二つの言説は、その前に諸事物と諸事物が自ら示す仕様、諸現象と純粋諸現象性との区別を、ハイデッガーが「世界‐内‐存在」として無効化する認識以前的には矛盾として立ちはだかっているということをアンリは指摘している。(第四節)
 アンリの言う存在とは存在してしまっているその事実のことであり、現れることとはそのような状態になりつつあるその動的事態のことである。しかし後者の言説によってその二つを容易に峻別する術は我々にはないと彼は示している。つまりそれが示すこととは私たちがある一つの事実、出来事に対して異なった二つの認識から証明を当てて、その際に出来る影を利用して言説しているだけだということなのである。「存在」は事実や出来事を必然化作用として解釈すること、そして名詞的に静止画像として捉えること、そして「現れる」ことは、端的に事実や出来事を生起しつつあるその状態として、つまり偶然的にその事実の観察者からすれば捉えること、そして動詞的に再生することである。
 全ての事実を偶然と必然双方の見方から一つの言説の中に閉じ込める手法そのものは既に龍樹の編纂とされる「中論」に顕著に見られる態度である。そして恐らくその認識に洋の東西はない。
 このことはメタ認知そのもののあるレヴェル、つまり感情そのものを客観的に認識するその認識そのものを客観視した時、陥る無限後退という現実を直ちに我々に想起させずにはおかない。と言うのも「今起きつつある出来事」とは、即座に過去に後退してゆくが、未来も常に我々の現在には押し寄せてきており、その二つは常に交差的であり、決して区別出来るものではない。今起きたことが既に過去になった時、さきほどまで未来であったことが現在になり、更に未来に対して我々が思いを馳せる時、そこに立ち現れるのは過去に起きたことの想起である。
 つまり私たちは何ものかに対してメタ認知を行う時、必ずそのメタ認知をしようと思う自我を払拭することが出来ずにいる。そういう意味ではドーキンスが宗教自体を批判し、神の不在を証明しようと試みる時、不可避的に立ちはだかる自分自身の幼児期の宗教体験抜きに語ることが出来ないと自覚していた筈であるが、その反宗教、反有神論的スタンスそれ自体を支える自らの感情から彼もまた自由ではない。
 ここにラッセルのパラドックスを持ち出すことは無意味ではあるまい。(注釈及び結論<私の採る立場>を参照されたし。)

 この章では私はアンリの中にある科学者的認識力と、ドーキンスの中にある哲学者的視点について考えようと当初思っていたのだが、ドーキンスに関しては性悪説的な哲学系譜からの水脈として位置づけられるような軍拡競争進化論に重きを置いて考えてみたが、これとて哲学者とか科学者といった位置づけを無効にするようなもっと普遍的な認識方法からのものである。そういった意味で現代ほど哲学、論理学、倫理学、生物学といった分野が合流したり、融合したりしやすい時代はないのかも知れない。
 その最も基本的な認識方法として主観と客観の問題がアンリにも「現出の本質」期以降晩年に至るまでネックになっていた。例えば「受肉」80ページの
 「このような状況を、われわれは、世界の現れることの実在論的赤貧(この現れることが、そこにおいて現れるものについて、釈明することができないという無能)として記述したわけなのだが、一方では可視化の一地平の客観化という、他方ではこの地平のうちで可視的になるべく要請されている具体的内容の創造という、まったく異なる二つの力能が、同じひとつの神学的‐形而上学的審級に帰属せしめられ、かくして混同されているのである。しかしながら、世界が或る差異化されない空虚な場とは別のものであるためには、或る「自然」、或る「物体[身体]」_或る存在者_が世界の現れることに付加されねばならない、ということを示すことによって、ベーメは、それ自身に引き渡されたこのような現れることの欠乏を、同時に告発しているのである。ここでは神の権能は、客観化としての客観化の無力を包み隠すことにしか、役だ立たないのである。」
 という記述から了解されるように、彼は明らかに神学的論理性を、知覚生理学的視点と一致させることを試みている。可視化の一地平を取り敢えずデカルト座標と、ユークリッド幾何随順的遠近感といったものと考えてみよう。するとその可視空間上での生成的事実が、具体的な主体にとっての関心事となるという「世界」の事実が、私たちがアンリの記述から読み取れる関係であり、それは恐らく一方が主体となれば他方が脇役となり、その逆も成り立つという客観化と主観性の問題を誘発するが、実際メタ認知のメタ認知としての定義上、我々は自分の世界の「世界」化しか方法を持たない。しかし現代の脳科学その他の自然科学分野によるさまざまな証明によって徐々に従来型の客観が陳腐な幻想であるということが明確化してきたので、その発端を作った一人であるドーキンスの利己的遺伝子説も、アンリの言う空虚ならざる意味化された場であり得るために、主体の欲求を、生物学的に言えば適応的進化として捉えることが求められている。その際に客観化の無力を知ることがまず手始めとなるという主張としてアンリの神学‐自然科学一致志向の考え方を理解することが出来る。
 そしてアンリの現代脳科学を先取りしていたかの感もある次の記述から、我々は次章から存在者の主体的欲求と感覚の関係の問題により切り込むこととなろう。
 「(前略)われわれにとって重要なもの、『批判』が繰り返し述べているテーゼとは、これら多様な見させることの、結合された整合的な行為において、世界を現象学的に形成する働きは、それ自身によっては永遠に、この世界の具体的内容を構成する実在を、立てることができないということである_カントはこの実在を、感覚に求めなければならなかったのである。」(82ページより)
 「(前略)フッサールの言語でいうなら、一方で対象のうえに統握され、見えない色彩(Emprifindungsfarbe [感覚色彩])とを、区別すべきなのである。ところで、色彩の実在性はもっぱら、色彩がわれわれのうちで感じ取られるところ、印象的ないし感覚的な色彩のうち、感覚色彩(Emprifindungsfarbe)のうちにのみ位置している。カントにおいてと同様に逆説的な、しかし等しく明示的な仕方で、感性的世界[感覚界]の実在的内容は、感性的世界の現象学的構造_一方[カント]においては表‐象、他方[フッサール]においては志向性_の管轄に属しているのではなく、印象の管轄にのみ属しているのである。」(83ページより)
 

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