Saturday, October 17, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」序

 私たちの生命が地球上の生命の記憶を、それ自体として携えていることは間違いがないように思われる。例えば地球誕生から大まかに十億年くらいしてから、生命が誕生し、それから三十億年間その後の進化をなすこととなる基礎を醸成したとして、その後今から大まかに言って五億年くらい前に動物が二億年くらい前に哺乳類が誕生し、我々はその進化の延長上に位置していると考えられている。しかし我々には哺乳類誕生以前的には動物の、動物誕生以前的には生物の基礎的な記憶を携えている。そして私は生命誕生期において既に羞恥が存在したのではないかと仮説するものである。そして五億年の動物の歴史は呼吸等による原音楽の歴史と捉えたい。
 そして通常言語活動というものは動物起源をベースに考え勝ちであるが、私は生命起源で考えたいのだ。そしてFOXP2遺伝子等の発現作用は、実はこの生命起源にまで遡ると考える。
 人間はしかし歴史的に見ても、自我が無私な態度を採ることを妨げてきている、そういう歴史の所有者である。そしてそれを戒めるという意味ではユダヤ教も仏教もキリスト教もどこかで一致している。カントは神を否定しなかったし、神への尊崇を訴えている。しかしそれは神の存在証明するための行為としてではなく、寧ろ神の存在を疑うことに存する不遜、頽落する傾向性への戒めとしてであって、その意味ではカントは神を認めつつも、その論理、倫理メカニズムにおいて純粋心情倫理への提唱という志向は、神の不在、つまり神に対する応答として倫理を実践するのではなく、自らの意志で実践すべしという意味では、明らかに神の不在という事態を招聘してさえも、意志の優位性をどこまでも主張するという観点から彼が無神論者としての魁であると捕らえても間違いとは言えない。それはP・F・ストローソンの「意味の限界」においてもよく捉えられている。
 「従って、経験が経験的認識に要求される客観性の性格をもたねばならないとすれば、我々の「感性的表象」はかの不可知な対象の意識を何らかの形で代用ないし代理するものを含んでいなければならない。この代理こそまさにあの規則に従う表象結合のことなのである。この結合は、知覚の主観的順序から区別されかつこの順序を規制するそれ自身の順序をもった統一的自然世界を形成すると考えられる経験的諸対象の概念使用において表現されている。実際、我々の経験的領野にはこうした主観的知覚それ自身の他には何も存在しないのであり、対象の経験的認識ということで我々が理解できるすべては、そうした主観的知覚の間に見られる規則および秩序の存在なのである。かかる規則および秩序によって主観的知覚は、我々の知覚順序を結果としてもたらすそれ独自の秩序をもった一つの客観的世界の知覚と見做されることができるのである。対象の経験という観念はこれ以上の意味をもつことはできない。しかし同じ理由で、これ以下の意味をもつこともできない。」(98~99ページより)
 ここにはヒューム的な視点も見えるが、同時に概念相対論とでも言うべきものも見られる。概念というものはそれが対応する対象とか事象に対して対応する様相そのものが、相対的である筈のものであるという主張それ自体は、遺伝子が遺伝子座として相対的に捉えて初めて(つまり局在単一的ではない、複合相関的であるという意味で)自然科学的な意味を持つこと、あるいはニューロン、とりわけ考え方として脳内のニューラルネットワークそれ自体が相対的に捉えて初めて自然科学的な意味を持つことにも対応している、ただそれだけであるばかりでなく、概念というものの存在意義そのものは、遺伝子やニューロンの相対性から引き出されるものなのである、と私は言いたい。
 トーマス・ネーゲルは「あなたの行動を動かすものは、他者や制度や共同体へのあなた自身の関係であり、総体的に何が最善であるかという客観的な関心ではないのである。」(「コウモリであるとはどのようなことか」208ページより)という言葉には、我々の行動を決定させるものは、我々自身の我々自身をも含む生態系の弛まぬ変化そのものであり、我々が一時たりとも同一の状態にはないように、生態系そのものもまた一時も同一の状態にはないという一事においてのみ普遍であるような状態である。そこにはやはり意味の相対性という主張があるが、それ以上にそこで述べられていることとは、要するに変化し続けることそれ自体の恒常性(ホメオスタシス)である。
 茂木健一郎は「「脳」整理法」でディタッチメント(detachment)という概念を大きく取り上げている。これは英和辞典(小学館プログレッシブ英和中辞典)で調べると、「超然とした態度、無関心、公平、感情超越」となっている。この観念は茂木によると、科学の認識がそれを見出した人、考えだした人の個性とか人間性とは無縁に、それ自体として有効で普遍性を持っていることとし、その対極にあるものをJ・S・オースティンの提唱した概念パフォマティヴ(performative)としており、これは思想などに見られるその思想の在り方がその思想を提唱した人の個性とか人間性と不可分であるような状態のことを指すこととして彼は使用している。さて後者は明らかに政治的行為なども含まれよう。それに対して前者は例えばある発明品(電話、電球、自動車、パソコン、貨幣)といったもの、つまり日常的発明品から経済活動とそれら一切が我々の生活に及ぼす波及効果であるということを考えてみると、大半のものが前者であることが分かる。少なくとも我々の日常においてはこちらの方が有用であることが了解される。しかし同時に後者を行わない人間は我々の社会には一人もいない。つまり個性とか人間性は誰しもが持つ一つの人間の特性である。そしてこの二つの対置を敢えて行った茂木の見識もさることながら、このディタッチメントそのものは、ストローソンがカント論で語った「表象結合」の仕方の自由な在り方、あるいは「それ独自の秩序をもった一つの客観的世界」のことである、と言ってもよいだろう。これはカントの定言命法とか善意志、道徳的法則を支える判断、あるいはそれを実行させる意志のことであるとも言える。これはそれが恣意的であるのではなく、ある説明可能な原理によって論理的にも倫理的にも正当であるとされるもののことで、そこにもまた神不在であっても尚、履行すべきコード、べき行為、つまり意志の優位性への主張が読み取れる。
 先程のネーゲルの言葉を思い出してみよう。ここには自己を即自とする考えからすれば、外界の全て、つまり他の全て、自然の全ての在り方に只管「合わせる」ことで生態系においてホメオスタシスを保っている我々の、つまり生命体の起源としての原羞恥というある種の実存的翻弄に対して、それを克服するプロセスとして代謝活動をする生命、呼吸する身体という考えから、原音楽(呼気と吸気の反復と連鎖)は即ち原羞恥に対する克服プロセスであるということ、つまり「生きる」とは原羞恥の克服過程である、ということが演繹される。
 ところで遺伝子座とかニューラルネットワークとかに内在する相対論的普遍性は、どこか言語、記号学者ソシュールのラングという概念を連想させる。彼の捉えたことの概念は、共時体としての共通理解構造、了解事項であるが、それは 「一般言語学講義」でも触れられているが、実は刻々変化しつつある横の連帯である。
 だから例えばIT化社会そのものに憂慮の情を示したり、極度に否定的感情を抱く人は往々にして過去の努力、そしてそれによって齎された成果に対する自負とプライドの高い人間に多く見られ、改良されていきつつある社会状況に対してネガティヴに捉え、極端な拒否反応(アレルギー)を持つことは、技術的な新機軸が立ち現れるという事態そのものが過去の自己の功績を無化するのではないか、という恐怖に根ざしている場合が殆どなのである。そうではないのだ。つまり過去の技術によって得られた成果そのものが今日の技術的新機軸の基礎となっているだけのことなのだ。例えば自動車はそれ以前の馬車とか牛車とかを基礎としているのだし、電子計算機は算盤を基礎としている。少なくともその目的論的意味合いからすればそうなのだ。そしてそれは共通理解とか了解事項の変化を表しており、ラングの変化、変化するラングの恒常性を物語っているだけのことなのである。
 「「脳」整理法」で茂木はディタッチメントとパフォマティヴとを対置させていると述べたが、私たちはこの二つを巧みに使い分けている。例えば後者はウィトゲンシュタインの有名な言葉「世界は事実の総和である。」があるが、これは私が今立たされている位置、それまでの経験的事実といった全てが複合された全体像こそが私の人格であり、それは私の固有性(それは勿論遺伝子レヴェルでの私の個人情報というものはあるが)であるが、同時に他者が仮に私がいる空間的同定のポジションにいて、そこで私のプロクセミックス的テリトリーにいて、かつ私の経験的事実を持てば誰でも私と同じように考え、行動するであろうという主張であり、説得である。これはある意味では個人的事情を鑑みたディタッチメントであると言える。私とは私の有する事実とそれによる固有の事情に他ならない。つまり私に固有の事情が私に個性を与え、私の人格を形作る。しかしそこには私が両親から受け継いだDNA以外には何も神秘的に固有なものは何もない、つまりそういう風に考えること自体が幻想であると私は私の視点と立場から発言する。例えば私に固有の事情を他者に説明し、明日夕方誘われたパーティー出席を丁重に辞退する、というように私は他者に説得する。その辞退の時、ただ闇雲に「お前とは付き合いたくはないのだ。」と言えば角が立つし、それは説得力を持たない。つまりそれが私固有の神秘的な事情であり、論理的説得力を持つ事情ではないからだ。そこで私は考え、もし仮に私がそういうただ単に生理的に気が進まないという時には、エクスキューズする理由、断る理由を建前的に認可され得る巧い理由を考え、それを盾に他者を説得しようと試みる。パフォマティヴとはそのようなものとして考えれば、それは神秘的に個人性に根ざしているわけではなく、個人の事情のディタッチメントであることが分かる。
 さて辞書による翻訳として超然とした態度とあるが、私は「羞恥論」という論文でいじめにあいやすい態度とは超然とした態度である、と述べた。これはある意味では反「情」であり、理を優先する態度である。そしてこれは政治的指導者とか経営者とか株主とかには要求されるスタンスである。しかしこれを個人的な付き合いに応用すると途端に「冷淡な人間」というレッテルを貼られる。個人的付き合いというものにはあくまで個人的事情のディタッチメントが要求されるのだ。つまりパフォマティヴである。そして行為遂行的発言というこのパフォマティヴを有効に活用することで他者を説得出来るわけだから、我々は超然とした公平、真理、普遍的事実、尺度、法則といったものは個人的事情を離れて存在し、それは私もあなたも全ての人に共通の尺度であるから、当然非個人的である。そういう非個人的なものを個人の選択基準にすることは、個人の事情のなさを表明することになるからいじめの対象と化しやすいということなのだ。
 例えば七時に退社するのはそれが一般的であるから、と言って社全体が大忙しの時に帰宅する選択は確かに問題がある、と誰し思うであろう。だから原羞恥と私が呼ぶ原生命的秩序とは、個人的事情と公の責務を入れ違えた態度であるようなことを直感的に誰しもおかしいと感じる感性に宿っていると私は考えている。これはカントが定言命法とか、道徳的法則と呼んだものとも深く繋がっていると思われる。
 そして個人的事情というよりは誰しもがある一定の呼吸のリズムを持っており、その中でも一時間という時間が意味する時間論的観念を一人一人の個人が受容し、自分なりの遣り方で消化している事実こそ原音楽と私が呼ぶものである。そしてその固有の身体的条件と、それに対応した処方によって我々は私的時間と公的時間を使い分け、個人的事情と公の責務とを両立させているのだ。それがネーゲルが「他者や制度や共同体へのあなた自身の関係」と呼ぶものである。そしてこの行動を誘発するものにおいてある時は個人的事情を優先させ、パフォマティヴな発言をし、ある時はディタッチメントを応用し、個的生活、公的任務の双方にそれを利用する。あるいは上司の命令に従い、部下に命じる。(パソコン、携帯の利用)

 私たちは外部世界(=生態系)へと働きかけ、外部世界自体も私に働きかけられることによって刻々変化している(勿論私一人の力ではなく他の全ての生物の働きかけによってであるのだが)そのシステムの中で私たちは考え、言葉を使用する。言葉には外部世界を忠実に再現するために言語行為を行う(例えば花を見て「この花は~」という叙述を可能にするような意味で)ばかりではなく、そのような具体的な花に対する叙述一般を指して「花を見る時には人間の心は和む。」のような叙述も可能である。その時示される花とは花一般である。つまりこのような具体的指示を離れても成り立つ言語行為上での叙述の全てを不在対象に対する言及、不在事実に対する言及、不在現象に対する言及というように捉えてもよいし、茂木健一郎の言うように言葉の超越性と呼んでも構わない。
しかし少なくとも具体的指示を離れた叙述に使用される語彙、例えばこの場合「花」とは花一般に纏わる知識、あるいはその知識へと至る物語、文脈、エピソードによって構築される個人にとっての「花」という語彙が示すイメージの差違、つまり個的意味がある。それは少なくとも「花」という語彙を音声を伴って発する時に、その語彙使用者によって齎される花一般のイメージ、あるいは語彙に対して抱く意味論的世界が、実はその語彙を学習した際に得た何らかの体験、それは往々にして正確に記憶していない場合が多く、従って無意識にその原体験をその語彙を使用する度に思い出している筈なのでが、その内容を正確に叙述することは出来ない場合が多いと考えられるが、要するにその個的意味の世界を離れてはその語彙をある叙述を可能にする文章、話題の文脈において使用することは出来ない。
 ある世界的に知られた事件(盧溝橋事件、ウォーターゲート事件、同時多発テロ等)に関する語彙を使用する時、我々はその事件の名前を覚えることとなった経緯を通して語彙の意味を心的に生じさせる。それはまさしく自分が生まれる以前のことなのか、自分が生まれてからのことなのかということも大きく関わるが、要するに事件の様相とか社会的影響力とその重大性に対する認識とは、それを学習した際の文脈的理解、つまりどのような形でその歴史的事件を自己内の知識として位置づけたかということに拠る。学校で教えられたか、ニュースで聞いて知ったか、他人から告げられて知ったか、ニュース映像を見たかというようなその事件に対する知識を得ることになった経緯は重大である。しかし同時にその経緯がどのようなものであれ、その事件が世界に社会にどのような影響を与えたかということに対する個的意味(その事件が好ましいのか疎ましいのかというようなこととか、その事件に対する自分の感想)を離れた世間一般の考え、定着された意味、つまり通念といったものが大きく立ちはだかる。それはその語彙を使用する際に我々をある程度強制するイメージ、つまり概念である。
 今述べたことはあくまで歴史的事件のことであるが、ことはもっと基本的語彙に関しても全く順当することである。例えば「水」を考えてみよう。「水」という語彙が我々に通常与えるイメージは幾つかの意味論的なカテゴリーに分類され得る。<飲み物、液体>といった日常的な意味合いから察する形状的、物理的イメージ、用途的イメージ、そして<コップ、洗面器、蛇口、水道、ダム、水力発電>といった水そのものに纏わる付帯的イメージ、社会機能上の水に関わるイメージ、そして<川、海、湖、雨、雪、雹、霰>といった、水を構成要素とする自然の現象、地理、気候的イメージといったカテゴリーを取り敢えず採用することは可能であろう。我々は「水」という語彙を使用する時、このようなカテゴリーを通して水のイメージを付帯させつつ、文脈上「水」という語彙を使用する。それはその会話での話題とか意味論的文脈にも左右されるし、その「水」に対するその語彙習得をも含めた話者の「水」という語彙使用決断に纏わる意味論的世界にも左右される。しかし同時にそのような個的体験性とか個的意味を遊離して、一般的概念使用的常套性にも左右される。つまり「水」という語彙を使用する時、常にこの個的、一般的という二つの性格論的要素が鬩ぎあっていることになる。一般的意味論的世界とは通念であり、制度的意味である。端的に言えば「水」であるなら、人間全般にとっての水のことである。それは水に対して特に自分が関わりが大きくても、そうではなくても人間一般に対して水が与える恩恵、相関性を通した概念である。概念として語彙を使用するという事態は、人間が意思疎通の際に我々が心的に抱く「合わせる」行為誘引的心的様相が考えられる。我々は一般性に依拠することによって言語行為を成立させているのだし、かつその「合わせる」行為の中で個的意味の主張をなし、個的意味が一般的意味論的世界とのずれを主張することによって初めて発話する際に、今挙げた水の意味の拡張と拡充を図っているのである。つまり話者という個的存在における陳述の意義とは、伝統的、常套的コードとしての「水」に対する言及の意味内容的な新奇さであり、その伝統、制度的現状に対する言及であり、それに対する追認、容認、批評、確認、異議申し立てである。
 さて問題として立ちはだかるのはこの言語行為における個的意味論的文脈と一般性との鬩ぎあい、つまり現状に対する批評性が、羞恥とか音楽と私が呼ぶ内的構造とどのように関わるかということである。
 例証として「水」が出てきたので、いっそこの例でこれからもずっと考えていってみよう。水に関するデータは一般人と科学者とでは開きがあるだろう。それはH2Oということにおける分析的データであるし、その自然界における作用とかである。しかし同時にそういった知識がいかに豊富でもサーファーとかスウィマーとかにとっての水のような意味で、あるいは暴風雨の季節に活動する作業員の知る水の意味とかさえ、実は科学者が身をもって知るということはないだろう。つまり水に付帯するイメージとか捉え方の全ては実は水に纏わる個人的経験と知識とデータである。個人的経験は体験として身をもって知ることであるが、知識とデータは客観的な信念である。個人的体験というものは主観が介在していることは言うまでもない。しかしいずれにしてもそのような二つの水に纏わる外延を持っている場合、通常日常生活において過不足なく水を使用している一般人に対して彼等(科学者、サーファー、スウィマー、作業員等の全て)が主張する水に纏わる意味論的世界は、極めて過剰なイメージを提出するだろう。それは通常のイメージを裏切るような装いもあるだろうし、通常のイメージの持つ生ぬるさに対する批判も含まれるであろう。
 この水に付帯するイメージによる意味論的世界に対して確信がある度合いに比例して、水一般の人々へ与えるイメージに対する懐疑のなさに対して批判が付け加えることにおける確信を支える信念、信じることが増加するだろうから、当然そこには話者の主張それ自体に自信を与えることとなる。しかしその逆でただ他者から聞かされた知識、耳学問的知識である場合、それを殊更主張することにおいては躊躇があり、それは主観のなさから来る客観的データの追認にしか過ぎなくなるから、発話口調は自信のなさが介入してくる。自信を持って発話する時の口調は明確であり、他者説得要求に対してオープンであり、真摯に主張することそれ自体の表明性において偽装がない。しかし他者に対して主張する時に他者から伝え聞いたデータであるだけで主観が介入しない場合、自信を持って他者を説得するようには展開せず、ただそのような事実が確認されるという報告にとどまることとなろう。
 羞恥感情が発生する場とは明らかに後者の発話状況である。そして他者から聞かされてそれに対する主観を持ち得るほどの経験を持ち合わせていない場合、我々は通常その主張に対して控えめになる。つまりその遠慮という感情に、「だけれど、それを知っていなければ恥ずかしい、知っていると表明することで辛うじて経験のなさをカヴァーしたい」という主張が読み取れる。第三者に何らかのデータ内容を報告する場合、それを報告することで自己のその報告事実に対する知識所有の表明に、そのことに対する認知をしていないことに対する他者からの想像を払拭する意味合いもある。「それくらい俺だって知っているよ。」ということの表明なのである。そこには明らかに羞恥感情が発話を促進するという事態が読み取れる。経験しておかなければならない筈なのに経験していないことに対しては、経験しておかなかればならないということだけは表明することを通して未経験であることを許して貰う、あるいは経験していないことの羞恥を敢えて率先して表明することで、経験していないことそれ自体だけは承知していることで、未経験からくる不足を、不足に対する認識の表明を通して免除して貰うという意味合いが他者から得たデータの報告には含まれる。
 ある事実に対して自らの経験に根差した自信(確信)があるために、その事実の認可を他者に迫るような説得をも目的として含む報告がパフォマティヴであるなら、逆に体験していた方がいいけれど未だ経験はしてはいないが、経験した方がいいというものだということだけは知っている表明(つまりそれを知っていなければ恥ずかしいから報告する、本当は経験していなければ恥ずかしいのだが、少なくとも知らないほど無知ではないという表明)としての報告もまた消極的なパフォマティヴである。当然前者は勿論積極的パフォマティヴである。要するにパフォマティヴは羞恥がない表明(前者)と羞恥があるのだが、その事実に関する報告をすることによって羞恥を払拭する、あるいは免除されることを精神的目的として表明(後者)があるということである。そしてあることの表明とは取りも直さずそのあることを巡る羞恥の様相の報告である、と捉えることが出来る。

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