Friday, November 6, 2009

A論文「原音楽と原羞恥」 6、意味と羞恥

 私たちは今まで報告内容を意味内容としてきたが、私は単純に前者は発声顕現としての意味内容、後者は意味作用的に聴者が受理した意味内容(文脈的理解)と考えていた。しかし意味は実はそれほど単純ではない。というのも「AはBである。」が同時に「AはCである。」を意味するというような意味で、私たちは意味を一律的にAならAというトートロジーにおいて受け取っているわけではないからである。
 意味に内包と外延があるのなら、その領域性における中心と周辺というものの、あるいは本道的なことと、派生的なことというのが存在するのであろうか?だが派生的なことと、周辺的なことと言うと語彙そのものの意味が、実はその語彙をどのような文脈で使用するかという、語彙を伴った文章、表現というレヴェルの問題へと我々を誘うからである。例えば犬とか猫という語彙を使用する際に我々は犬という語彙が、我々が生活する社会とそのエリアにおいてどのような意味(ペットとしての犬とか人間にとっての動物としての犬とか、その性格論的な存在理由とか、例えば番犬といったような。)を有しているかに関する言語共同体成員としての了解一致事項としてのそれである。それを取り敢えず文脈論的な意味としておこう。
 そしてその文脈論的な意味の中に直示する時に我々が犬と呼ぶ範囲のもの、猫と呼ぶ範囲のものが決まってくる。例えば家猫とか山猫とかを猫と呼ぶことはあっても、虎やライオン、豹、ピューマ、チータを猫と呼ぶことはないだろう。そういう意味では猫は犬よりは、何かを指して猫と呼ぶ範囲は広いが、犬は人間が狼から育種して派生させたさまざまな類別性とヴァラエティーがあっても尚、それらは全て一種内の差異でしかない。
 そしてその直示としての語彙における一対一対応と、直示以外の不在対象に対する言及はそれほど違いないだろう。しかし恐らく「犬とは」とか「猫とは」と言うような文章構成上での文脈的意味にした時、我々は更に直示された時の犬の範囲から更に絞られた、ある特定の定型としての犬を示している。そしてある話者同士が「犬は」とか「猫は」と語る時、犬を飼ったことのある人同士と、飼ったことがある人とそうではない人同士と、飼ったことのない人同士と、あるいは好きな人同士と、好きな人と嫌いな人同士と、嫌いな人同士としてでの会話では自ずと異なった様相で、犬という語彙使用のニュアンスが生じてくることは容易に想定出来る。つまり話者同士のある語彙の使用というものは、意思疎通相手のその語彙に対する意味論的感情レヴェルでの了解と想定と推定によって微妙に状況論的に差異が生じてくるのだ。 
 そしてそれは直示としての犬とか猫ではなく、不在対象としてでもなく、文脈論的な犬とか猫という語彙の使用には、ある社会にとっての犬とか猫というものに与えられた一般的意味とか常套的意味とか通念とかが大きく立ちはだかるのだ。そしてその通念に対する相互理解と相互了解と同意が話者同士を「犬ってのはさ、~だ。」とか「猫ってのはさ、~だ。」というような謂いを可能にするのだ。要するに第一義的な犬理解とか猫理解と、そのように定義された犬とか猫に対する我々(話者としての自分たち)の感情、認識といった個的経験把握レヴェルでの犬、猫理解とは要するに第二義的なものとがあるである。それらは言語の超越性(直示的対象指示性ではない、過去事実報告における不在対象指示は直示とそう変わりないが、問題は犬という一般概念としての犬といったこと、あるいは犬一般に対する話者の認識と感情といったレヴェルでの文章、文脈における犬といったことである。)における文脈論的な意味は、ある時は社会一般の通念であり、ある時はそれに対しての自分の経験による認識(一般通念に対する批評、同感、批判、懐疑)である。例えば『犬は人間につき、猫は家につく』という諺は通念的な陳述である。しかし私自身猫を長年飼った経験からすれば、それは当たらない。「『犬は人間につき、猫は家につく』っていう諺って、あれ嘘だよね。」と私が猫を飼ったことのある友人に告げれば、それは自分の経験による認識の報告であり、詠嘆的告白となるであろう。
 だから社会通念的な意味を受け入れる限りで、我々は犬や猫の意味は相対化される。だから犬や猫を飼ったことのある人でも、そうではない人でも共通して言えることとは、真理に近く、それを語る時直示する行為(今見ている犬とか猫のことを形容したり、話題にしたりする。)での犬や猫よりは相対化されている。不在対象に対する言及は話者同士が同じ見た経験がない場合には、犬とか猫に対する説明は直示よりは多分に相対化される。見た者はその過去の具体的映像記憶によってそれを言語化して語ろうとするが、それを聞く者は言語化された言葉のニュアンスから想起し、想像し、ある特定の犬とか猫を心的に表象するのだ。そこで話者が発する犬とか猫と発する時に彼(女)の心中に表象された犬や猫と、聴者の表象された犬とか猫は、その言語の意味作用に依拠した範囲で間口は広がるが、二人のイメージしているものが重なっているかどうかを確認する術はない。
 しかし少なくとも言語とはそれが語彙として発語された時に「あっ、犬がいる。」と語られる時、それは犬一般のカテゴリーに我々は指示対象を押し込めているのである。それは例えば友人の家に訪れた時に、友の飼い犬のことを固有名詞を教えられて呼ぶような場合以外は全て、我々はあるカテゴリー認識に閉じ込めて現前する具体的対象を認識しているのだ。それはそれ自体で既に相対化作用と言える。対象認識には固有性を一挙に一般性へと閉じ込める作用があるとここで考えることが出来る。語彙化とはそのようにされた時点で非固有名詞化されているわけだから、意味相対化作用がなされているのだ。
 しかし経験による認識の報告とは、それを語る時に語る相手に対する感情、つまり権威的な立場にある言語学者に対して言語活動に関する本質に対する独自の考えを披露する時の我々の心的様相と、そうではない通常の一般人に対する心的様相とではかなりな開きがあるだろう。対象認識が一般人と専門家の間でもそうは変わらない語彙使用を巡るソシュール的ラングの採用という一事で済まされるとしても、経験による認識という真理に対する言及では、権威者同士が発話する、権威者に対して発話する非権威者、非権威者同士が発話するという三つのケースでは微妙に異なってくることは言うまでもないであろう。
 最初のケースでは譲り合う心的様相が、第二のケースでは同意的発言の場合には尊敬心が、しかし批判的発言の場合には対抗心、攻撃欲求が満たされており、第三のケースでは相互の意見に対する信頼性はないし、確信もないだろうけれど、リラックスした心的様相であることは間違いないであろう。仮に間違った真理でも相互に困ったり、恥をかいたりすることはないからだ。尤も第一のケースでも相互に他者を攻撃する必要性を感じておれば、その者に対して権威者であれ第二のケースと同じことになるだろうし、また相手の権威者に対して共感と同意をしておれば、譲り合うという心的様相になるであろう。
 ここで考えられるのは、心的に羞恥感情というものが最も作用するのは、自己確信に満たされていなければ、第二のケースであろうが、そもそも権威者に対して確信なく抵抗することは自己の立場とか自己に対する権威者からの人物評定に関して著しく第一印象を損なう危険性があるので、そうたやすくは我々はそういう行為という暴挙には至らないであろう。しかしことは権威者同士の反目ということになると、そこには自己防衛心と対他的な攻撃心とが共存することになるだろうから、対他的に羞恥感情を巣食わせることは不可避となるだろう。それは犬を飼ったことのない人が犬を飼ったことのある人に対して一般通念とかそれに対する批判をしたり、一般通念上での犬を飼ったことのある人の多くが疑念を抱くことの多い事柄に対して安易に信用するようなことを告げることで、権威者に対する非権威者の羞恥の克服(間違ったことを主張して恥をかくことで、真実を知りたいと願う場合)が発揮されるだろうし、また権威者同士の反目は自己主張することで、その権威分野における自己の思想の正当化を図ろうとする意思のぶつかり合いなのだから、他者(敵対する権威者)に対する評定<大物であるかそうではないかという評定>如何で、その者への羞恥の度合いは異なってくる。例えば仮に反目していても尚大物であると思えば羞恥感情とその克服は一大事となり、逆に反目していてもその者がそれほどでもないだろうと確信している場合には、羞恥克服はたやすいだろう。
 そしてある論、犬とはこれこれこういう動物であるという真理とか、言語学上での語彙とか、意味とかはこういうことであるという真理というようなこと一切も、語彙における意味同様、一般的真理とか専門的真理とか全体の意味と捉えることが可能である。そしてそれらは経験による認識の報告という主観性をより高次の普遍性へと昇華させることによって成り立つ真理に対する信念であるから、相手に対する信頼性(権威者同士でも相互に信頼し得る関係であるような)があれば、第一のケースでも第二のケースでもよりフランクに告白することは可能であろう。しかし対立したり、抵抗したいと願っている相手に対してならば、それは真意の告白を憚るという現実は出て来るであろう。相手に弱みを握られたくはないという心理が発生するのだ。主観の告白は話者同士の信頼性に依存するのだ。

付記 論文修正と作成のために休暇を頂きます。2010年正月明けに再び更新致します。(河口ミカル)

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