Monday, October 19, 2009

A論文「原羞恥と原音楽」1、自己スタンスのバロメータとしての羞恥

 通常私たち日本人はブログの書き込みにおいて匿名をモットーとするが、アメリカではそうではない、と梅田望夫は「ウェブ進化論」において述べている。このことは一面では非常に顕著な日米の国民性の違いを見せつける。つまりかつてよく言われたように日本人は集団の和と協調性を尊び、そのためには遠慮するという精神が美徳とされ、アメリカ人は個的主張をする勇気と行動力を尊び、そのためには自己責任を明確化するというようなステレオタイプは徐々に時代的には古びた観念になりつつあるとは言え、実際、今でもこの二国のみを比較すればそういう要素は多々見出せる気もする。このような比較はじゃあ、中国人、韓国人、フランス人、ドイツ人とさまざまな国民をも含めて比較するとまた全く異なった様相になってゆくであろう。しかし今は取り敢えず日本人とアメリカ人という比較しやすい対象を私がたまたま選んでいるということである。そしてその時我々が気づくこととは、アメリカ人にとって羞恥とはそれを克服し勇気を生じさせるためのバロメータであり、日本人にとってはそれを美徳として他者に対して自己主張することを抑制する慎みとして作用するバロメータである、ということである。アメリカ人は、と言うより日本人よりもそうすることが多い民族は、皆自分を、自分の家族を、自分の郷里を他者に自慢する。しかし日本人は「これ、つまらないものですが、どうぞ。」とかいうような言い回しをすることを全く止めたわけではない。そして自分の家族の自慢は目上人間が目下人間に対してすることくらいで、大概遠慮するものである。
 要するに羞恥はそれを克服して他者に正々堂々と挑みかかるような障害として作用させるか、それを温存させ他者に対して遠慮して他者を引き立てるための美徳として作用させるかで、文化的な相違をそこに生じさせる。しかしそれは今では国民性から徐々に個人の行為選択のレヴェルにまで引き下げられてきたという面も見受けられる。しかしこのことではっきりすることとは、あくまでそれをどう捉えようが、厳然と羞恥という感情はどの国民にも存在する、ということである。
 大ヒットしたドラマ「冬のソナタ」を見ると感じることは、これが日本のドラマだったら、結婚するかどうかを別にしても交際している恋人たちは直ぐに深い関係になるだろう、ということだった。しかしこのドラマではラヴシーンらしきものというのはラストシーンで主役の二人が結ばれるまで殆ど一回もない。所謂この清純は、韓国でも離婚が今では多くなったのかどうかのデータが私の手元にはないので、断言は出来ないが、少なくとも倫理的には結婚というものは人生の一大事であり、男女とも相互に一回の決断には慎重にならなけれならないし、だからこそそう容易に肉体関係を取り結ぶことに対して躊躇があるということを示してはいないだろうか?そこには相手を結婚するまでは安易に婚前交渉にまでは至らないように心配りをするという観念の定着を私は見た。ここには明らかに羞恥の構造が垣間見える。 それに対して対極にあるものはスペイン映画の巨匠アルモドバル監督の「オール・アバウト・マイ・マザー」に出てくる人たちの恋愛形態である。しかしここにも実は羞恥というものはある。ストーリーを簡単に紹介しておこう。
 主人公の女性は臓器移植のコーディネーターをしているが、それ以前はナースで、ナースをする前、つまり彼女の一人息子が誕生する前の人生は彼女の息子にもひた隠している。つまり売春とヤクの巣窟である広場で過ごした青春があったが、それを息子には隠していたのだ。そしてそのことに対して常々息子は知りたがる。勿論彼は知りたがる、実の父親のことも。しかし映画を見ていると分かるのだが、同性愛者(ゲイ)の男性を巡って彼の息子を産み、そのことを父親には終ぞ知らせず、隠したまま育ててきた主人公は、ある日息子と(後で分かることなのだが)若い頃そのゲイの男性と知り合うきっかけともなった思い出の舞台を息子と一緒に映画を見に行った雨の日に、彼の憧れるスター女優の乗るタクシーを息子がおっかけをしていた矢先向こうからやってきた自動車に轢かれて死ぬ。傷心の主人公の女性は、その息子が生まれることとなった若き日の追憶に従って旅をして、そこで再びあのゲイの男性(死んだ息子の父親)と出会い、その男が売春をする吹き溜まりである広場の生活から逃れるために元恋人と共に教会が主催する社会復帰プログラムに知り合いの女性を訪ねる。その若い女性は、実はそのゲイの男性の子供を身ごもり、しかも後にエイズに感染していることが発覚し、やがて彼女は死ぬ。その間にあったさまざまな出来事が映画では描かれる。例えば主人公の女性が息子と見た舞台の女優の下にも訪ね、そこで大女優が娘の非行に悩んでいることを告白され、彼女の娘が関わるぐれた若者の巣窟まで車で連れて行くことになることがきっかけで彼女の付き人として採用されるのだが、例の轢かれて死んだ息子が憧れていたその女優は彼女と息子が死んだ日に見た同じ演目(主人公の女性にとって思い出の舞台)を舞台でその時も上演しているのだが、そして大女優の娘もまたその舞台の女優の一人なのだが、再び悪い友達に誘われつきあっていて、舞台に穴を開けた時、主人公の女性は「全部台詞を暗記しているから私がするのってどう?」と舞台に出て演じるくだりがあるが、ここが素晴らしい。彼女が代役をやった役をする予定だった大女優の娘がそういう主人公の行動を訝しげに問い詰めて、結局なぜ大女優に近づいたかを「死んだ息子の追憶のためにここに来た。」と涙ぐみながら告白した時、雨の日タクシーの外でサインを強請った青年のことを一瞬大女優が想起する場面も素晴らしい。結局社会復帰プログラムの女性はエイズで死に、葬式にはゲイの男性(死んだ女性の恋人)も出席する。死んだ彼女が妊娠していて死ぬ前に産み落とした彼女の息子(主人公の女性の死んだ息子の腹違いの弟である。)を連れてエイズ検査その他のために保守的なエイズで死んだ女性の両親(父親は精神疾患である。そのことを母親は世間に隠している。)から孫を引き離し、彼女の責任で死んだ女性の赤ん坊の面倒を見るために、かつてゲイの父親には内緒で産んで一人で売春広場のある地から列車で去ったと同じ行為を繰り返す。そしてその後その赤ん坊はエイズに感染していないことが分かるのだがそれより前にゲイの父親にも赤ん坊を主人公の女性は引き合わせる。その時実は自分にはあなたとの間に息子がいて、しかも半年前に彼は交通事故で死んだということを告白し、ゲイの父親に亡き息子の顔写真を見せる。その時のゲイの男性の父性表情もまた素晴らしい。このゲイの男性は父親である時の表情と女性役のゲイである時の表情が異なっているのもこの映画の魅力の一つである。
 この映画には所詮社会とは、性とか結婚に対して保守的であろうと、自己意志優先主義的行為をなそうが、隣人、つまり他者との協調であるという人生哲学が主張されている。それは自己対他者、自己対自己、他者対他者との相関性の中からしか幸福も不幸もあり得ようがないという主張がある。そしてそこに息衝くのは明らかに羞恥である。主人公の女性は父親がゲイであったことを一人息子にはひた隠してきた。しかし死んだ自分の息子が知りたがっていたが終ぞ息子には引き合わすことなく終わった息子の父親を巡る過去の自分、そして彼の実の父親との再会を通して次第に息子を育てていく過程で息子に秘密にしてきた過去の自分の姿と再び向き合う中で、羞恥を克服していき、その過程で知り合った他者たちが未来の自分の生き方に重要な指針となるような掛け替えのない存在となっていき、相互に信頼感を深めていくさまは、ヒューマニズム(キリスト教的な部分もあるが)を感じさせる。
 この映画の主題とは羞恥が他者に対する虚栄として存在するのなら直ちに克服せよ、そして他者を慮るという慎みの中でこそ羞恥を役立たせよ、という倫理的な主張がある。主人公の女性は最愛の存在を失った時初めてそのことに気づくというシビアな現実をここでは描いている。
 しかしここで問題にしなければならないこととは、「冬のソナタ」における韓国の性的な保守性と「オール・アバウト・マイ・マザー」におけるスペインの性的な奔放といった単純な二分された図式には割り切れない人間の絆の問題である。そもそも「冬のソナタ」では主人公の三人の青年を中心にもう一人加えて四人の男女が、昔彼等の両親が経験した青春の蹉跌によって現代の現時点で翻弄されるさまであり、このドラマを両親たちの視点に置き換えてみれば、自らは汚辱をも引き受けてきた青春の実像を、少なくとも息子や娘たちには経験させたくはないという大人社会のエゴイズムが垣間見えてくる。つまり「冬のソナタ」での最も迫真に迫る部分とは三人目の主人公サンヒョクの父親がかつての親友こそが自分が好きでいて関係も一度はあった女性(現在はピアニストになっている。)の息子(主役のチュンサン、ペ・ヨンジュンが演じた。)の父親であると思い、その親友が別の女性に残した娘(主役のユジン、チェ・ジウが演じた。)と腹違いの兄弟であることを息子のサンヒョクに告げ、それを信じたサンヒョクがユジンに対してチュンサンとの結婚を諦めさせるようにするが、それと同時にチュンサンに対して、サンヒョクの父親がもしやと思って血液検査をして親子関係のDNA検査をして貰い(チュンサンが交通事故<その事故でそれ以前まで失っていた記憶を取り戻すことになる大事な出来事>に遭いその後遺症で入院した際に医師に頼んで調べて貰うのである。)彼はチュンサンが自分と現在はピアニストになっている女性との間の息子であることを知り、それをチュンサン本人に告げる。(この段階ではサンヒョクには未だ告げていない。)一度は自分の息子サンヒョクにユジンとチュンサンの結婚を反対させるように仕向け、そのことによりサンヒョクは再びユジンとの愛を取り戻そうと決意した直後、今度は「二人の愛を止めさせてはならない。」と諭し、チュサンがサンヒョクの兄であることを告白する。チュンサンもまた自分と兄弟であることを知り、自分から離れようとしていると思っているユジンに対して最初はサンヒョクが実は二人は兄弟ではないことを父親から告げられ知っていたのにユジンに対しては黙っていたのだが、次第に良心の呵責に耐えられなくなり、彼女に全て告白し、アメリカに実は交通事故の後遺症のために失明する恐れを抱えて入院と手術に向かうことを、自宅にチュンサンの父親(サンヒョクの父親でもある。)にかかってきたカルテに関する質問の電話で知ったサンヒョクはユジンにチュンサンの後を追うように薦める。そしてその後に結局その追跡は功を奏せず、二人は一度別れ別れになり、再び巡り合うあの有名なラストシーンに結びつくのだ。
 ここには運命に翻弄される過去の三人の男女と現代の三人の男女が複雑に絡む愛憎劇がある。そしてそれは「オール・アバウト・マイ・マザー」の複雑な人間関係とも容易に共通性を我々は見出せる。韓国にも日本同様性的に保守的な人(婚前交渉を認めない)もいれば、そうと知りつつもそういう挙に出る人もいるだろう。またそういう意味ではスペインという国も同様であろう。そういう保守的な人がいればこそ、「オール・アバウト・マイ・マザー」の主人公の女性は自分の前半生と、息子の父親のことを息子に秘密にしたのである。
 結局「冬のソナタ」では記憶喪失中のチュンサンがミニョンとして生活していた時のフィアンセ、チェリンとサンヒョクは酷く傷つくこととなる。しかし素晴らしいのはミニョンがチュンサンであることを知って狼狽し、自分の身に降りかかる悲劇にもめげず、最後には彼女チェリンはユジンには、彼らが兄弟であることをサンヒョクから知らされ、「血が繋がっているからって何よ、チュンサンを追っかけなさいよ。」と諭し、また自分の恋人である時期もあったミニョンことチュンサンに彼の実名で呼び、ユジンとの愛を貫くことをチュンサンに諭す場面である。ここにはオリンピックで自国の選手やチームを応援していた人間が自国選手たちを負かした国の選手を次のトーナメント試合において応援するような潔いスポーツマンシップにも通じる精神がある。このような描写にこそ、実はこのドラマが大ヒットした要因がある。サンヒョクの同僚がユジンとチュンサンが兄弟であることを知った時点でサンヒョクに「ユジンを大事にしてやれるのはお前だけじゃないか。」と励ます場面もよかったし、チュンサンの仕事上での次長(中年男性)が素晴らしい仕事仲間(上司)に対する愛情を示しているのもよかった。つまりこのドラマはどこか韓国では日本とは比べ物にならないくらい大勢いるキリスト教徒の持つ自愛精神が漲っているのである。
 最近では自分の家族を公共の場で自慢することは日本社会でも大分珍しくなくなってきた。そしてアメリカ人にもまた日本人同様の羞恥が潜んでいることは多くのアメリカ映画を見れば歴然としている。しかしそれを払いのけようともがくことや、羞恥そのものを大切にしようと心掛けることにおいて恐らく国境はないだろう。それは「オール・アバウト・マイ・マザー」を見てもよく了解出来るし、日本のドラマにも恐らく発見することは可能であろう。チュンサンがサンヒョクに対して弟であり、彼を深く傷つけたことを反省し、真実をユジンに語らないで一人アメリカに手術に行く下りにはやはり、韓国人独特であるようにステレオタイプでは推し量れぬ羞恥(それは実は万国共通なのであるが)が読み取れる。
 私はずっと行為選択ということを考えてきた。しかし選択というとあたかも選択肢が幾つかあって、その中から選び取るというニュアンスがあるが、そういう言わば消極的選択、つまり優柔不断的な心的様相の支配的な選択をすることも人間にはあるが、大体においてそうではない、つまり殆ど直観的にそれが一番正しい、と言うよりも既にそれ以外の選択肢などないという啓示を得て判断したり、行為したりするのではないだろうか?
 例えばチュンサンの決断、つまり自分が視力を失うかも知れないリスクを抱えて手術を受けにアメリカに渡ることをユジンにもサンヒョクにも知れせないで履行しようとしている時、彼の胸中では明らかにサンヒョク(弟であることは判明した)に対しての兄弟の愛情というものを優先することをしか思い浮かばなかったであろう。ただでさえサンヒョクの家族に対して自分の存在が大きな迷惑をかけてきていると感じたチュンサンには、全て現在立たされている状況をユジンに告白して(自分とユジンが兄弟ではないということも含めて)しまえば、絶対ユジンはチュンサンの愛を受け入れるだろう。しかしそれではサンヒョクとユジンとの間の愛やそれまで築き上げてきたサンヒョク一家の秩序は一瞬にして崩壊するであろうという直観からチュンサンは迷わず全てを秘密にしたまま渡米しようとするのだ。この際の行為選択には迷いはなく、既に他の選択肢はあり得ないという確信に満ちている。
 つまり行為選択と言うが、その大部分はこのように他の選択肢などなく、また考え付きもしないという選択であり、時として色々ある選択肢の中から仕方なく一つ選ぶようなこともあるであろうが、そういう場合すら最初に既に大体どうしようかと決定していたのに、その行動に踏み切れないでいて、勇気が縮小され、怖気づくことによるものであり、数ある選択肢から選ぶ場合でさえ、要するに人間は最初直観的に正しいと思うことを履行しているものなのだ(このことは茂木健一郎も指摘している)。
 しかし敢えて論理的に突き詰めれば自分が渡米することの真相とか自分とユジンの両親間の真実をユジンに告白するという選択肢も一度くらいは脳裏を掠めたか知れないが、その場合でも尚ユジンとサンヒョクの愛の軌跡が育つことを願う心理の方が優先したからこそ(そのことによる実の弟と発覚したサンヒョクと何も知らないでいるユジンとの愛が育つ方がよいという判断が全ての告白よりも上回っていたということである。)何も語らず一人アメリカに旅立つチュンサンの行動にはどこか騎士道精神が脈打っている。禁欲的な美学がある。
 今度はこの禁欲的な美学に纏わる人間の羞恥感情について考えてみようと思う。
「冬のソナタ」の大ヒットの要因の一つは明らかに何かを誰かの心を配慮してなかなか言い出せないとか、黙っているということにおいて、情報内容に差異が生じること、情報が行き届くことにおける個人間のずれがテーマとなっているということである。
 例えば高校時代の仲間であるユジンとチュンサンとサンヒョクとチェリンはユジンに最初からチュンサンに惹かれ、ユジンもそうである。しかしチェリンもチュンサンを好きだったし、サンヒョクはユジンが好きだったのだ。だから皆で冬の旅行に行った時に森林に紛れ込んだユジンを捜しにサンヒョクもチュンサンも森林に分け入るが、チュンサンだけがユジンを発見し、連れて帰る。その差がその後の二人の愛を決定的する下りの後、チュンサンの母親の用事につき合わされ、ユジンとの約束を反故にされかかっている時に、突如母親の付き添いから脱出して車から降り、ユジンの下に急ぐその時、チュンサンはトラックに轢かれてしまう。そしてその時彼の友人たちには彼が死んだということにされていた。そして皆で彼らだけの間での葬式をする。しかし最初ユジンだけが自分をすっぽかしたと思っていたチュンサンが悲惨な最期を遂げたことを知らされていないで、高校の教室に向かうと皆がしくしく泣いているが、彼女だけがその理由を知らない。やがてチェリンがチュンサンの死を彼女に告げる。ここでまず情報のずれが描かれる。しかし皆で勝手にした葬式ではチェリンが取り乱し、ユジンの下に急いだチュンサンが死去したためにそれは全部ユジンのせいだと言う。ここで片思いの女性の心理が描かれる。
 時間は飛び、サンヒョクはラジオ局、チェリンはアメリカに留学、そしてユジンは建築家となって設計事務所に勤務する。ユジンはサンヒョクと婚約している。そして久し振りに皆で会った時に、チェリンはアメリカで知り合ったフィアンセを連れてきて紹介する。この男性が死んだチュンサンに瓜二つなのである。そして偶然であるが、そのチェリンのフィアンセであるイ・ミニョンがユジンの設計事務所に仕事を依頼してきた。クライアントとなったのがかつて自分が愛したチュンサンと瓜二つであることを今フィアンセとして愛そうと努力している(今でもチュンサンを忘れられない)ユジンはサンヒョクにそのことを敢えて告げない。だからサンヒョクだけがイ・ミニョンがユジンのクライアントであることを知らないし、しかもそのクライアントの理事がイ・ミニョンではなく、イ・ミニョンの付き人の次長であると思っている。そこで皆との会話、例えばチェリンとの会話とかがちぐはぐする。しかし「これはイ・ミニョンのことをユジンはサンヒョクに告げていないな」と察するチェリンも敢えて、そのことを告げない。
 しかしサンヒョクとユジンの前にイ・ミニョンとチェリンが偶然居合わせることとなるに至って初めてサンヒョクはそれまでユジンも、その後ではチェリンまでもが、自分にイ・ミニョンが今回のユジンの仕事のクライアントであることを知らされ、そのことを自分に黙っていたことにショックを受ける。
 その前にサンヒョクは偶然ユジンと食事しているところに例の次長と部下たちが来たので、その次長を理事(つまりイ・ミニョン)であると勘違いしている(彼だけが)ので、ユジンがレストランから出て、一人清算しようとしている時に、偶然次長たちの会話で彼(次長)のことを理事ではなく、次長と呼んでいることを不審に思う下りが描かれているし、イ・ミニョンとは実は記憶喪失となっているチュンサン本人であることがやがて発覚するのであるが、その時点では彼は全くユジンのことを覚えていないので、彼がクライアントとして依頼先の建築設計士のユジンを現場に車に乗せて案内する下りも描かれているが、勿論ユジンはどきどきする。そして二人でロッジでコーヒーを飲もうとしている時、あまりにも瓜二つなので、本当に韓国の高校のことを知らないかとイ・ミニョンに尋ねようとしているまさにその時(その時には高校時代のチュンサンが煙草を吸う仕種と、今目の前にいるイ・ミニョンが煙草を吸う仕種がオーヴァラップされる。)チェリンが訪れるのである。それも偶然である。チェリンにしてみれば、アメリカで知り合ったイ・ミニョンがかつて自分が愛してふられたチュンサンに瓜二つであることが、彼を今フィアンセにしている第一の理由だし、サンヒョクが今のフィアンセであるから、かつての恋人と瓜二つのイ・ミニョンのことを話題から避けているユジンによる彼に対する気遣いが結果的には却ってサンヒョクの心を傷つけてしまうこととなる下りでも、結局このドラマの基本テーマである羞恥感情による情報を敢えて相手に伝えないという配慮による(昔の恋人にまつわることというのはどこの国の人でも今付き合っている人には知らせないようにするものである。)情報内容のずれということがドラマ全般に渡ってずっと貫かれている。
 だから物語がサンヒョクとユジンのイ・ミニョンの登場による行き違いを経て、再び二人が愛を取り戻すことになった後で、サンヒョクたちによってチュンサンとイ・ミニョンが同一人物であることが発覚するという運命の悪戯に対しても、我々はドラマ全体の傍観者として運命的事実と、相手に対する欲望とか欲求とが必ずずれるということをこのドラマを通して実感する仕組みとなっている。要するサンヒョクはこのドラマでは狂言回しであり、ユジンは最初からペ・ヨンジュンが演じるチュンサンと彼と瓜二つのイ・ミニョンしか愛せないそういう性質の女性として描かれているのである。だからこそ必死にイ・ミニョンを忘れようと努力するユジンの姿(わざわざ<その時は彼女だけがイ・ミニョンとチュンサンが別人であると思い込んでいるのだが>イ・ミニョン<その時には彼自身は自分が既にチュンサンであることを知ってしまっている。>に携帯で電話し、彼に向かって彼とチュンサンの違いをとくとくと説明して、あなたとはもう会えない旨を伝えるシーンさえあるが、その姿を我々はいじらしいと感じてしまう仕組みとなっているのだ。
 ひょんなこと(仕事でかかわるチュンサンの母親でピアノストであるカン・ミヒと父親の会話を盗み聞きしたサンヒョクが出身高校に行って卒業者名簿を確認して<ここら辺が少し粗雑に感じた。こんなに簡単に同級生の出自のことを学校が教えるわけがない。>)でサンヒョクはチュンサンとそっくりのイ・ミニョンが実は、母親が同一人物である故同一人物であるということを知る(その後サンヒョクとイ・ミニョンは二人で会い、サンヒョクがイ・ミニョンに対してカン・ジュンサンと呼ぶシーンがあり、イ・ミニョンことチュンサンは自分もそのことを知り苦悩していることをサンヒョクに告げている。)が、そのことは後に同じようにそのことを疑い個人的に私立探偵を雇い調べさせたイ・ミニョンのフィアンセであるチュンサン、ユジン、サンヒョクの学友であるフランス留学経験がありミニョン共にアメリカ帰りのチェリンがそのことを知り、そしてサンヒョクとこの二人はサンヒョクの呼び出しによって一回会うのだが、そしてその時それまではユジンの愛を取り戻したくて自分だけがミニョンがチュンサンであることを見抜いていたサンヒョクだけが自分がチュンサンであることをサンヒョクとは別個に母親から知らされていたイ・ミニョンから呼び出されて一人アメリカにミニョンが帰国する旨を告げられているが、そのことをその時初めてサンヒョクにチェリンは告げられるし、その時もずっとユジンだけはチュンサンとイ・ミニョンが同一人物であることを知らないでいるのである。だからこそユジンがいじらしくなるように脚本は企まれている。
 要するに本来なら知らせなくてはならないことでも、相手が傷つくことを恐れたり、あるいは自分に対する相手からの愛を失いたくないためのエゴイズムから黙っていたりすることによって生じる情報内容のずれこそが、過去を母親のエゴイズムによって摩り替えられたチュンサン(そのことを彼が自分がチュンサンであることを記憶を取り戻す前に突きとめた時、その昔の母屋を訪れた母親<それまでチュンサン時代の記憶が蘇らないように彼女はその母屋にイ・ミニョンを連れて行っていなかった。>に対して「僕の記憶をどうして入れ替えたの?思いでを消すことが出来るのは僕だけの筈じゃないか。」と彼が言う生台詞は哲学的である。)とイ・ミニョンの自己同一性と、彼の出生秘密に纏わるDNAということがこのドラマのテーマである。そしてこのドラマでは、韓国の青年たちは結婚後も多くが男性の側の両親と共に一緒に暮らすということが常識であるらしく、またフィアンセ同士も結婚するまではそう容易に肉体関係を結ばないというモラルの定着が、出生の秘密というミステリーをより盛り上げているのである。例えばユジンが本当は婚約しているサンヒョクを差し置いて、イ・ミニョンと密会していることに罪の意識を感じ、とうとう一度精神の病に臥せってしまうサンヒョクの下に戻ろうとする時、密会しているイ・ミニョンと束の間の愛から二人で同意して別れを告げるシーンでは、かつて死んだ(と思われている)チュンサンたちと共に行った旅行で、宿への帰路に迷ってしまった時、夜空を見上げれば、そこにポラリスが見えるからそれを手がかりに歩いていけばよいとチュンサンに告げられたことをイ・ミニョンへとユジンが告げるシーンが前にあって、その伏線によって、「ずっと僕はポラリスを眺めて君が僕の下に戻ってくることを願っている。」といって別れをユジンに告げるシーン(密会している車の中で)での二人がいじらしく見える(本当は不倫的な密会であるのにもかかわらず)のも、この韓国のそう容易には肉体関係を取り結ばないというモラルがロマンティシズムを掻き立てるからである。しかし生物学的にはどうも女性とはこういうことにロマンティシズムを感じない部分もあるらしいが、ここではそのことについては触れまい。それは「時間・空間・偶然・必然 意識というなのミーム 哲学で切る科学、科学で切る哲学」(別のブログにて後日掲載)において詳述されているので、そちらを参照されたい。
 最後に「冬のソナタ」から哲学的台詞を抜粋して記しておこう。
 記憶が戻って自らがチュンサンであることを知ったイ・ミニョンと昔記憶を失う前にユジンと二人で訪れた場所でユジンが言う台詞はまるで大森荘蔵や中島義道の哲学を聞いているようだった。

こんなに綺麗な風景を前にして私たちは昔の記憶ばかり辿っていかなきゃならないなんて何てことなんでしょう。

この台詞はイ・ミニョンがチュンサンであることを長くユジンに告げずにいたサンヒョクが自分を責めることをユジンに求めつつも、ユジンはサンヒョクに対して責めることを一切しない(それはそうであろう、チュンサンの不在の辛さを穴埋めしてくれてきたのは他ならぬサンヒョクなのだから)で、今ではチュンサンの記憶が戻ったことが嬉しくて、しかしそれまで心の支えだったサンヒョクと別れを正式に告げなくてはならないある意味では辛い時にサンヒョクはユジンに告げる次の台詞の後で語られている。

君とチュンサンは昔を必死になって思い出そうとしているのに、僕は君との思い出を必死に忘れようとしている。でも僕の方はそう簡単にはいきそうもないけどね。

結局周囲、特にサンヒョクとチェリンを酷く傷つける形となって成就するユジンとチュンサンの愛とは、チュンサンの失明という手痛い結末を伴った。そのことを暗示するかの如くサンヒョクと別れを告げるユジンが言う台詞も哲学的、と言うよりより宗教哲学的である。
 
こんなにサンヒョクや、チェリン、チンスクやヨングクたちを傷つけてきて、私たちはいつか罰を受けることになるんだわ。

 このドラマが韓国では言うに及ばず日本でも大ヒットしたことの背景には日本人の一時期のトレンディードラマに常套的であった簡単に肉体関係を結んでしまう若者群像ではない形のストイックな愛の形を示したからであると同時に、チュンサンが結果的にはユジンと兄妹ではないということは後日判明するも、一度はチュンサン本人だけが自分とユジンが血縁者であることを薄々知りつつ、そのことを敢えて最後まで相手のユジンには伝えずにいて愛するいじらしいユジンのことを配慮して結婚に踏み切ろうと決意するチュンサンの中にある神に対する後ろめたさという宗教的背信行為、背徳の匂いが、キリスト教徒が国民の四分の一以上を占める韓国国民ばかりか、日常においては宗教的感情とは縁遠いと思われる日本人にまで罪深いことを知りながら愛に突進する純粋無垢な若者の姿に対する保守的で制度的呪縛に絡め取られた一般市民の中にあるアンチ・ヒーロー志向的逸脱精神と、冒険心に火をつける、あるいは擽る要素があったからではないだろうか?そのことはそれだけ純粋に愛を貫くことの日常的世間的不可能性を示してもいる。だからこそ最後には二度の衝突事故の後遺症として盲目になり、その時には別離した状態でいてそれでも愛し続けるチュンサンがユジンの設計した建築図の通りに自宅を構えて一人で暮らしている姿と、彼に再び逢いに行く決心をするユジンとが再度巡り合うラストシーンを一層盛り上げる形となるのだ。そこには明らかに羞恥とはどのようなものなのかという作り手側の苦悩がそのまま表出しているということに共感する自らの羞恥を尊重したり、払拭したり(その顕著な例として元イ・ミニョンのフィアンセでヒーロー、ヒロインとも同窓生であるチェリンの「あなた方血が繋がっているからって何よ、愛を貫きなさいよ。」とチュンサンと血縁関係にあると最後に知らされて<いつもユジンは事実を知らされるのが他の面子よりも一歩遅れるところがまた常に彼女の無垢さ、いじらしさを表現するのに役立っている。>苦悩しているところを励ます先述のシーンが実にこのドラマ全体のテーマを象徴させて引き締める効果を上げている。)その右往左往するドラマで描かれた人間たちの姿が視聴者、鑑賞者である我々の実存的な実像と重なることにより説得力を持つということの好例である。
 ドラマや映画とは作り手側の人々が無意識の内に表出してしまう羞恥に対する観念を読み取ってしまう鑑賞者自身が人生で感じる信念と対人関係における羞恥の在り方と所在を巡るバロメータとしての役割を携えている。

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