Saturday, October 17, 2009

B論文「信仰心と無神論 ミシェル・アンリとリチャード・ドーキンス 哲学・現象学・生物学」序

 私たちは知っている、多くの学問が現代に犇めき合っているということを。そして幾つかのもの同士はいがみ合っているし、そのいがみ合いを生じさせる幾つかの問題は宗教と神に対する見解の違いに起因するということを。
 私は基本的に人間というものを信念というものの設定の仕方によってその生きてゆくべき指針、つまり価値規範を変更し得るそういう生き物であると考えている。そしてその価値規範は、我々の採る行動によって確たるものとなっていく。しかしその信念に殉じるという意味において恐らく信仰心を持つ人々も、無神論者も、拠り所とする所在の異質性にもかかわらず、共通した心理にあると言える。それは自分の側が正しく、そうではない側に対して自己信念をいつか理解させてやろうと密かに決意しているという意味でも共通している。しかしそれは終ぞなされ得ない内に多くの人々は人生を終える。しかし幾人かの著述家によって、その学問的な論究によって、自己信念は披露される。
 現代の多くの学問はある意味では隣接する学問に、自己領域ではなされ得ないことを委ねることによって、逆に自己領域による確信を確たるものとするように行動されている。例えば哲学は明らかに多くの疑問点を、その疑問が何故起こるのかということに関してその疑問を起こす基盤について問うが、同時に、その基盤が粗方理解出来たなら、次にするべきことは、その基盤を成立させる信念が拠って立つ別の学問に行動を委ね、自らは退くことを選択する。学問は一定の水準に到達することを常に目指すが、同時に一定の成果を上げたら、その次の行動を別の角度から切り込む専門家に委ねることを選択する。
 例えば自然科学の役割は明らかに哲学が退いたところから出発する。しかし同時にその成果が出されたら、ただちにその成果に関する信念のあり方について哲学に問うことを委ねる。自然科学は現実に始まり、現実に終わる。そして現実に対する見方は自然科学の場合、実証出来る角度から世界を見ること、つまり世界を自然というベクトルから観ることをモットーとする。しかし同時にそのモットーには、世界を観る自分の位置は相対的であるということだけを承知しておれば、その自分そのものを問うことはしない。
 それに対して哲学はその言説の中で「世界」と言う時、「現れる」と言う時、明らかに自分にとってである。そしてその自分は世界というものを問う自分である。哲学において自分は自然において相対的ではない。自然全体を認識する主体としては絶対である。その主体を一個の自然であると認識することは自然科学に任せている。
 私たちは物事の生起するさまを機能の面から観察することが出来る。その時私たちは無意識の内に科学者の眼になって世界を俯瞰している。しかし同時にその自分も自然の一部であると考えることが出来るし、その内、その科学者の眼それ自体はいかにして醸成されるのか、ということに思いを馳せるようになる。この時その自分の世界に対する眼を考察する主体そのものはエポケーにして、観察者としての自分の成立基盤を問うことをすると、その時私たちは哲学者の眼になって自分と世界の関係を問うている。
 宗教的な考え方には色々の持ち方がある。その一つは自らの民族的出自に随順した使命感のようなもの、そしてもう一つは、そういうことを度外視した考察の末に辿り着く民族的選択の必然性に対する理解である。前者は出発点として自らに課すことだが、後者は、結論として自分に対する理解を得ることである。
 エマニュエル・レヴィナスは現象学者として、そしてリトアニア人でありユダヤ系であることから、論究し続け、意見を発信し続け、その結果として初期より携えてきた無限とか全体性という観念に対してある種の永遠、無時間化された相へと視点を開放させたが、ミシェル・アンリは出発においてはキリスト教的教義を一つの考察対象として位置づけつつ論究し続けたが、結果においてそのように問う自分のイデアの方向性は、主体的志向性は明らかにキリスト教徒のそれであるという自覚において生涯を全うする。
 それに対してキリスト教文化圏に生を受けたが、その事実以上に科学者としての使命に随順してきているリチャード・ドーキンスは生物学者としての使命感というものが、一世界市民としての義務であるかのように神の存在を否定する。私自身もどちらかと言うとドーキンスサイドに入る人間であるが、神を信じるか信じないかということよりも私には神を信じて生きる人間も、神など絶対にいはしないと信じる人間も共通した自己信念に対する態度に興味がある。私は信仰という言葉を一つはキリスト教とかイスラム教とか、要するに宗教的な教義や戒律に対する随順として、一つは宗教教義、宗派的信仰心や、無神論全てを含有する自己信条、自己信念に随順する態度そのものに適用したい。そこで前者をただ単に信仰、後者を「信仰」と区別することにする。
 本論ではアンリをレヴィナスとの比較においてまず考究し、次にドーキンスを他の多くの社会生物学者との比較において考究し、然る後この二つの宗教倫理真理探求派とも言える信仰心の持ち主と、無神論者の態度の違いと共通性について見てゆくことになる。しかしアンリの信仰心については多くのキリスト教哲学者、神学者たちにもご登場願うが、同時に現象学者として多くの信仰心とは別個の角度から論客、あるいは自然科学者にもご登場願うこととしよう。そして勿論我が国の学者や思想家、論客にもご登場願う積りだし、またドーキンスの考究においても、生物学を中心に様々な立場の人々にご登場願う次第である。特に永井均氏を日本人哲学者として二人の論究に大いに役立てさせて頂いたし、大勢の脳科学者諸氏の研究成果や考え方も参考にさせて頂いたのでここに、永井氏他の諸氏の考究に感謝の念を捧げるものである。

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